将来的には数学で全国でもトップクラスの偏差値を叩き出すようになる、大器晩成という言葉がぴったりな俺、坂田金時はそのときまだ数学のお成績が芳しくなく、「高校受験からやり直せ」と思いを寄せるその人、自称天使の数学教師、高杉晋助先生にそう吐き捨てられたのでありました。先日、センター数学I・Aを手に質問しにいったらその言葉ですよ。ついでにチャート式の白を投げつけられました。角が頭に当たりました。愛が痛くて重てーわ。
けれども、けれどもさ。赤ん坊からやり直せとか、前世からやり直せとか、いっそ人間やめちまえとか、そんなこと言われないだけまだマシだし、実際俺の頭は酷く残念だ。
「先生、大変だ。俺日本語がわかんねー」
いつもの屋上で煙草をふかしていた先生は真顔でそう言い放った俺をじっと見つめてきた。そんなに見つめられるとやだ照れる。
しかしそんな俺の心など察しようともせず、先生は指先に挟んでいた煙草を深く吸って、細く長く吐き出しながら、どうでもよさそうに言った。
「…That's too bad…」
「いや英語ならわかるとかじゃねーから」
「んだよ、めんどくせー野郎だな…」
いやそれ俺の台詞だからね。命題とか十分条件、必要条件、必要十分条件、PならばQであるのPはなんだとかかんだとか。もう知ったこっちゃねーわけでありますよ。さっぱりお手上げなわけであります。
で、泣きついた俺に先生は面倒くさそうにしたまま、俺から問題とチャート式、ノートを奪い、図と口頭で懇切丁寧に説明してくださいましたとさ。ありがたやーありがたやー。
んでんで、ちょっと頭をめいっぱい使ったので一息ついて、俺は二本目の煙草に火をつけた先生を見てた。一本目は俺に説明する時に消してしまったので、あんまり吸ってない。今灯された煙草が短くなるまで先生は此処にいてくれる。だから、俺はなんとなく世間話感覚で先生に問いかけた。
「なんで先生は数学教師になったわけ?」
俺の問いかけに、先生はちらりとこちらを見て、白い煙を吐き出した。何を語るでもなく俺を見てる先生は綺麗だ。惚れた弱みだろうとなんだろうと、綺麗だと俺は思う。
しばらく黙っていた先生は瞬きを一つして俺から目を逸らすと、また煙草を一息吸って吐いて言った。
「数字は嘘を吐かねぇ」
「え?」
「無駄一つない証明は鮮やかで美しく、そこらの下手な美術品より芸術的だ。そう思わねぇか?」
「えっと…」
「…思う訳ねーか」
俺が言葉に困ってると、先生はちらりと俺に視線を向けて少し馬鹿にしたような、意地の悪い笑みを浮かべて鼻で笑った。その表情にすらときめいてしまう俺はもうこの恋に落ちた瞬間から末期なのだけれども、「先生の方が綺麗だよ」なんて言ったらそれこそどん引きされてしまうのは火を見るよりも明らかなので馬鹿だけど賢い俺は口を閉ざしてただ先生を見つめ返した。
煙草はもう半分近く灰になっている。残された時間はあと僅かだ。俺は先生の指先で揺れている白い煙の発生源にチェックを入れながら、改めて先生を見た。
俺はさっき、どうして数学の先生になったのかを先生に聞いたわけで、でもそれに対する返答は明確なものじゃなかったのは一体、どう受け止めたらいいんだろうかね。言いたくない、っていうのが一番か。なんか秘密でもあるのかな。うーん、よく分からねぇ。眉間にしわ寄せ頭を無造作に掻いて、俺は溜め息を吐く。そんな俺の態度なんて先生はどうでもいいようで、まだ薄い色をした空を見上げていた。
そんな横顔を見ながら、数学を考えるときの何倍も頭を使って俺は先生の言葉の意味をそれこそ証明でもするように組み立ててみようと思ったけれど、どうにもこうにも残念な俺の頭は、綺麗な先生には先生曰く嘘偽りのない数字で組み立てられた美しい証明とか出てきちゃう数学がお似合いだって事くらいしかはじき出してくれなかった。本当、我ながらなんて残念な頭なんだ全くもー。
「よく分かんねぇけど」
でもって残念なのは頭だけじゃない俺は、先生を見つめたまま、無意識に言葉を口にしていた。俺の声に反応して、先生が空から俺に視線を移した。
目があって、俺を見る先生は本当に綺麗で、だからうっかり、つい、ぽろりと、さっき飲み込んだ言葉が本音と一緒にこぼれ出てしまったわけだ。
「先生も綺麗だから、数学教師が似合ってるよ」
言ってからしまったって思った。でももう言っちゃたモンをなかったことには出来なくて、振動となって先生に伝わってしまったその言葉に、先生はまたほんの少し唇の端を吊り上げてみせた。
「そうかい、ありがとよ」
ちょっと人を馬鹿にした感じの、見下したような感じのする笑みはさっき向けられたものとよく似ていたけれど、ほんの少しだけなんか違くて俺はその差異だけ違和感を覚える。けど、俺がその違和感の正体を掴むよりも早く、先生は煙草を携帯灰皿に押し付けて腰を上げた。尻の辺りを払って、いつものように屋上を後にしてしまう。風向きが変わって、ふわりと甘い香りが俺のところに届いた。
残された俺はまたぺらりと参考書を開いて、問題と向き合った。先生が美しいと称したそれらを見ても、ちっとも同じ気持ちにはなれないことがなんかちょっと、俺に切なさを教えた。
同じもの見て、同じように感じて、その気持ちを分かち合えたら、俺の世界はどんな風になるんだろう。
この問題ばっかりは、どうにもこうにも説明できそうにない。