美術室の隣にある、小さな美術準備室の存在は学校内の人間にもよく知られている。なんの変哲もない、何処にでもある準備室だ。
しかし、その更に奥にある部屋の存在を知っているものは少ない。鍵が掛けられ、開かずの部屋になっているそこから毎夜何かを削る音、女の悲鳴、断末魔のような金切り声が聞こえる。時に開かずの小部屋であるはずのその部屋の窓がほんの少し開いて、死んだように白い手が覗いているというのはこの学校の七不思議の1つだ。
だが、残り6つの不思議を、銀時は知らない。知りたいとも思わない。この1つだって、本当は知りたくなかった。
けれど今はそんな怪談など銀時にとってどうでもいいことだった。人の絵を黙って見続けてくる人の存在がいい加減鬱陶しい。そんなことを思いながら、銀時は絵筆にほとんど水に溶けた絵の具をつけて、白かったキャンパスの緑色になった部分を塗りたくっていた。
少しずつ色づいていく銀時の絵を、美術教師である高杉は首を傾げながら見つめている。腕を組んで、それでも黙っている。なにか言ったらどうだと銀時が口を開こうとしたとき、ようやく高杉は声を出した。
「色が、薄い」
「は?」
「もうちょっと絵の具足せよ。幾ら何でも薄すぎんだろコレ。色のバランス的に、もうちょっと発色を良くすれば2から4に上がる位になんじゃねーか」
「つまり今の俺の絵は2ですかコノヤロー」
「高杉先生ー」
他の生徒に呼ばれて高杉は銀時の絵から目を離して、すぐにそちらに言ってしまった。泣きそうな女生徒の絵を見ている。はみ出したか、彼女にとってとてつもない失敗を犯したのだろう。
(ん…?)
高杉の後ろ姿を見ていて、銀時は気がついた。うなじに青いペンキがついている。四本の指の跡だ。きっと彼は気づいていないのだろう。
後で教えてやらなければと銀時は溜め息を吐いた。



放課後、銀時は美術室の隣の準備室の、更に隣にある小部屋で絵を描いていた。授業中に塗り終わらなかったので、居残りだ。その隣では高杉が、彼が昨日書いたらしい絵を眺めていた。
その眼差しは銀時等生徒の絵を見るときとなにも変わらない。無表情のままただひたすら絵を見続けている彼の頭の中で、どんな考えが巡っているかなど銀時には見当もつかなかった。ただ彫刻か何かのように動かない高杉を視界に入れながら、銀時は絵の具をパレットに追加した。
静かな室内に、小さな溜め息が響く。下を向いて青いペンキのついている辺りを右手で掻いた高杉は顔を上げると壁に張ってあった紙に書いてある絵を躊躇いもなく破り捨てた。もとは一つであったはずの紙が豪快に散っていくのを銀時はただ見つめていた。
溜め息をついて、高杉は椅子に座り込んだ。その勢いに椅子が悲鳴をあげたけれど、高杉は気にした様子もなく銀時の絵に一瞥をくれ、「そう、そのくらい絵の具は使えよ」と何事もなかったかのように言った。それから高杉はなにか考えるかのように椅子を揺らしながら、物思いにふけるかのように何処でもない何処かを見つめ始めた。
この小さい部屋は、高杉の小さなアトリエだった。授業中高杉が生徒の前で作品を作ることはないけれど、こうして放課後、時間のあるときにこの部屋で絵を描いたり、掘ったり、練ったりしている。彼の作品は繊細で緻密なものであることもあれば、壁にペンキをぶちまけたような豪快なものまでいろいろだ。
七不思議の噂を聞いて、銀時は悪友と共に美術室を訪れた。この部屋に続く扉を確認し、ジャンケンで負けて、この扉を開ける役を任じられた。薄い扉ごしに、びしゃりばしゃりと何かしぶきをあげる音がする。こみ上げてくる恐怖感を覚えながら、軋む扉をゆっくりと開けて覗き見たのは、真っ赤に染まった部屋のなかで、べっとりと赤いものを頬につけ振り返った高杉の姿だった。
このとき銀時の絶叫で逃げ出した悪友達の薄情さを、銀時は一生忘れまいと心に誓っている。
高杉としては別に隠しているつもりもなかったらしく、それ以来銀時はたまに高杉のこの部屋を訪れては、自分の美術の作品を作ったり、高杉が何かを描いたり作ったりしているのを眺めたりしている。職人気質の彼は、気に入らないとすぐに破棄してしまうので彼の作品の命は儚く、それを見届けてやれるのは制作者以外では銀時しかいない。今までどれだけの作品が誰の目にも触れずに消えていったのだろうと銀時は破り捨てられた絵を見てぼんやりと考えていた。
ふと視線を感じて、銀時はそちらに目を向けた。いつの間にか高杉がこちらを見ている。なにを考えているのかよく分からない、美術作品を見ているときの目をしていた。
「…んだよ」
「いや…。おまえ、白いなぁと思って」
「は?」
「てめぇの体をキャンパス代わりに絵を描いたら、面白いんじゃねぇかと」
「ちょっ…」
いきなりなにを言い出すのだろう。銀時はちょっと身を引いた。高杉の視線はぶれない。その目の奥に、芸術家の狂気じみたものを見いだして、頬をひきつらせる。
そんな銀時の様子にもかまわず、高杉はなんでもないことのようにさらりとその言葉を口にした。
「よし脱げ」
「いやァァァァァア」
こうして美術室の怪談はまた曰くが増えていく。