好きな人が幸せそうに笑っている。それを見ているだけで幸せな気分になれる。金時はそういう男だった。だから、今は最高に幸せだと言えるのだが、そんな金時の心にちくりと刺さる現実は、その笑みが自分の手で作られたものでもなければ、その笑みを向けられているのが自分ではないということだった。
「…さっきから本当ご満悦だね」
「まぁな」
仮にも恋人同士だというのにあんまりにも放置され続けているので、ほんの少しだけ拗ねたような声色でそう言葉を投げつければ、一目見て悦に浸っていると分かる笑みのまま高杉は視線も向けずにあっさりと応じてみせた。
金時が受けたいと思うその熱い視線を一身に受けているのは、彼の指先が触れるか触れないかのギリギリの瀬戸際で撫でている、ABS樹脂を核に構成された分子構造模型だ。以前から高杉が時折自分で組み立てているのは見ていたけれど、今回のは既に完成されていて大きさも金時が今まで目にしたことのないサイズだ。
今まで散々申請してきたが却下され続けてきた模型が漸く手に入ったと、子供のようにはしゃいでいる高杉は、模型と同じく金時が初めて見る喜びようだ。今だかつてこんなに高杉の気分が高揚していたことがあっただろうか。いや、なかった。何をプレゼントしても、何をしてあげても、きっとこうは喜ぶまい。それを思うと金時の気分は下がっていったが、高杉は気にする様子もなくうっとりとその模型に見入っていた。
「ちなみにそれ、幾らくらい?」
ちょっと下世話なことを聞いてみる。高杉が自費で買うのを渋るくらいだ。それなりにするのだろうと思っていたが、なんでもないように返ってきた言葉は金時の想像を超えた。
「ん、50万くらい」
「はァ?!」
一体どうしてそんなプラスチックの模型がそんな金額になってしまうのか。高杉が愛でて喜んでくれるのならばそのくらいの金額など惜しまないけれど、どうにも理解できずに目と口を開いたまま閉じられないでいる金時に、一通り目に焼き付けたらしく模型からやっと目を離した高杉はそれでも愛おしそうに模型に触れながら付け加えた。
「ま、これは既に完成された組立模型だし、部屋にあるのやこれなんかはもっと安いけどな」
高杉が自費で一緒に買ったキットの箱の値段は0が1、2個少なくて、金時はなんとなく少し胸をなでおろした。いや、それでもまだ高い気がする。感覚が狂ってきたことに頬を掻きながら、そして高杉の寝室に飾られている沢山の結晶型模型を思い出す。高杉はそれら一つ一つについて色々と説明してくれたが、愛しの人の言葉でも残念ながらあまり金時の頭には残っていない。
「で、それは何が出来んの?」
高杉の手元にあるキットを見ながらそう問えば、高杉はちょっとだけ目を細めて唇の端を吊り上げた。
「フラーレンでも作ろうと思ってな」
「なにそれ」
素直な問いかけを高杉は厭わない。下手に知っているふりをして幻滅されるよりも、知らないことは知らないと言った方が良いことを金時は知っていたため、率直に聞いた。
金時の言葉に高杉は呆れるでもなく、口を開こうとした。だがその口から言葉が出るよりも先に、金時は己の中から蘇ってきたものを口に出した。
「あ、待って。嘘、俺聞いたことある。前に先生が言ってた…」
模型の説明を聞いたときに、その単語が出てきたような気がする。頭を抱えて制止するように高杉に手を向けて金時は考え込み、必死で記憶の糸を辿った。直前で留められた言葉は高杉の中に飲み込まれ、高杉は素直に金時が思い出すのを待っていた。その時彼はほんの少し意外そうな顔をして金時を見ていたのだが、自分の記憶と向き合うのに一生懸命になっていた金時はその表情を見ることはなかった。
「確か、ダイヤモンドの、説明の時…?」
高杉の部屋にある、世界で一番の固さを誇り、何物にも屈しないことをその名に持つ物質の説明を聞いたときに、その名前が出て来たような気がする。取り立てて興味もなかったからその時は聞き流してしまったけれど、金時は確かにその単語を聞いていた。
金時が捻り出した言葉に、高杉は感心したように一瞬目を見開いて、それから笑い、正解だと頷いた。
「ダイヤモンドもフラーレンも、炭素の同素体だ。混ざりけも不純物もなく炭素だけで出来てる、世界最強のダイヤモンドも美しいが、同じく炭素だけ60個組み合わせてサッカーボール構造を持つ共有結合クラスターも、なかなかに面白いモンだろう」
まだ組み立てられていないキットを見ている高杉の目には、既に出来上がった形が見えているのだろうか。そのフラーレンがどんなものなのか分からない金時に、口をはさむ術はなかった。
ちらりと高杉が視線を寄越す。そして悪戯に笑って言った。
「てめぇがもうちょっと化学の知識を身につけたら、そんときは俺が、俺が特別綺麗だと思う形をてめぇにプレゼントしてやるよ」
それだけ言ってまた模型に意識を戻してしまった高杉に、置き去りにされた形となった金時は楽しそうな高杉の横顔を眺めながら、ぼんやりと明日化学の参考書を買ってこようと心に決めていた。
(共通の話題は化学についてで、共通の趣味は結晶模型の組立です、ってちょっとそれもどうかと思うけど)