ぺたんぺたんとやる気のない足音を立てて銀八は歩いていた。目的の場所に辿りついてノックをする。返事があるのと同時にそのドアを開けた。
「センセェ、頭が痛いんで寝させてくださァい」
「うるせぇ死ね天パ」
辛辣な言葉と刺すような視線をくれたこの部屋の主を一瞥して銀八はこの部屋の備品であるソファに座った。一息吐いて開口一番敵意をぶつけてきた高杉を改めて見る。
高杉は突然やってきた侵入者になど意識を向けることなく、ノートパソコンに向き合い一心不乱にデータを打ち込んでいる。普段は、暇そうにお茶を飲んだり、のんびり保健だよりを作っている高杉の姿しか見られない。泣く子も黙るような剣幕で仕事をしている高杉など、この時期にしか見られない光景だ。
「忙しそうだなァ。まぁこの時期位、給料以上の働きを見せてもバチはあたらねぇよ」
「うるせぇよ邪魔すんな息すんなそこで屍ってろ」
「先生怖ぁい」
「……」
据わった隻眼で思いきり睨まれて銀八が首をすくめてみせれば、高杉は手元の紙を捲ってまたパソコンに向き合った。全校生徒の健康診断結果のデータ入力を一人で行う様はいつ見ても鬼気迫っている。他人事のようにその様を見ながら、こんなことはこの時期だけなのだから、ここぞとばかりに銀八は声を掛けて邪魔をした。
「先生ェ、俺も飴欲しー」
「そこの食ってろ」
高杉の口から一本出ている白い棒を見て言えば、視線もくれずに返される。銀八が座るソファの前にあるローテーブルの上に鎮座した折り紙製の小さな小箱には色々な飴が詰まっていた。
この部屋には3カ所に飴が分散している。この小箱の中と、高杉の机の上の缶の中と、高杉の白衣のポケットのなかだ。
喫煙者である高杉だが、流石に保健室で喫煙するわけにもいかず飴で口寂しさを紛らわしている。そのうち2カ所の飴は主に生徒達が消費し、また自発的に足している。しかし高杉のポケットだけは銀八だけが知っている場所であり、そのことに、銀八はほんの少しだけ、優越感を感じていたりする。
だが今その秘密のポケットの中身をねだろうものなら飴の缶の隣にあるペン立てが飛んできかねないので銀八は大人しく小箱の飴を口に含んだ。
「高…」
「失礼しまーす。先生ェ、擦りむいたー」
ノックのあとに飛び込んできた第三者の声に、白衣二人の視線が集まる。サッカー部のユニフォームを着て砂埃まみれの生徒の、膝下10cmに渡って広がっている傷口を認め、銀八は痛ましそうに顔をしかめた。
「うわ派手にやったなー」
「ちょっ、そのまま入ってくんな。外で砂払ってから、傷口水で洗ってから出直せ。傷口には触んなよ」
廊下ではなく外に面しているドアから靴を脱いで入ろうとした生徒を犬でも追い払うように追い返し、高杉は溜め息を吐いて腰を上げた。面倒くさいという雰囲気を醸し出しながら、テキパキと器具を用意していく。
指示をこなし改めて入ってきた生徒に処置を施しまた3日後に来るように言って帰すと、入れ替わりのように女生徒が入ってきた。
「先生、これもう大丈夫かなぁ」
少しよれてボロボロになったテープを見せながら女生徒は尋ねる。彼女はもう回数を重ねた報室らしい。
きっと痕にもならず綺麗に治るという言葉に目を輝かせた彼女は、もう大丈夫だから来なくていいと言われた瞬間ほんの少し表情を曇らせながらも礼を言って去っていった。
全てのやりとりを見守っていた銀八は再び二人きりになって漸く口を開いた。揶揄するように言い放つ。
「こんな目つきも態度も性格も悪い癖に評判がいいわけですねェ」
少し大きい怪我をしていたらまた様子を診せに来るように云う。面倒見が良くて頼りになるという高杉の評判は銀八のもとにまで届いていた。
高杉が特別どうでもよさそうに片付けを続けたので銀八は更に言葉を続けた。
「傷口が治っていく様を見るのが楽しいとかいう変態チックな理由のくせに」
「だから? 自分が人気ねぇからってそうひがむなよ」
「ひがんでませんー。大体みんなの銀八先生は影で一番人気なんですきっとォ」
「へェ」
明らかに小馬鹿にしたような笑みを口の端に浮かべ、一瞥をくれた高杉に銀八はむくれてみせたが高杉はもう銀八を見てはいなかった。
再びパソコンに向かい、鬼のような形相でデータ入力を再開する。二つ目の飴に手を伸ばしながら、銀八も妨害を始めた。
「俺も背中のひっかき傷が痛いんで診てくれません?」
「神聖な職場でそういう下世話な話はやめてくれません? 引っ掻いた奴に頼めよ」
「へぇそういうこと言っちゃう。ふーん、へーぇ、そう」
「……」
含みのある言い方にも高杉は知らん顔でキーボードを叩き続けている。これ以上つついても反応は返ってきそうにないし、下手したら言葉や態度ではなく物が、それも鋭利なものが飛んでくるかもしれないと考えた銀八は「じゃあ」と一拍置いて、少し話題の方向性を変えた。
「今夜とびきりのひっかき傷作ってくんない? ってのはどうよ」
高杉の手が止まる。視線が画面から少しずれて銀八へと向けられた。感情の抜け落ちた顔に、少しずつ呆れの色が浮かんできて唇の端がつり上がる。
「とんだ変態的な誘い文句だな。正直引いた」
「変態同士ちょうど良いじゃねーか」
「よかねぇよ、馬鹿」
思いきり鼻で笑って作業を再開した高杉をしばらく見つめ、銀八はとりとめもなく今晩の夕飯のメニューについて考え始める。二人分作るのは面倒くさいから外食でもいいかな、などと考えながら口のなかの飴を噛み砕いた。



(侮蔑しても拒絶しなかったね、って敢えて言ったら照れ隠しで殴られるかな)