*ほんのりいやらしい



まるでパブロフの犬だ。どうしてこうなった。
銀時は考えていた。眉間にしわを寄せ、難しい顔をして考えていた。
「おまえ、よく平気な顔してあんなの聞いてられんな」
「は?」
なんの前触れもなく投げかけられた問いに、高杉は訝しげな顔をして銀時を見た。話は数時間前に遡る。



今日、高杉の学校では授業参観があった。銀時はまだ未婚だけれど、訳あって預かっている女の子がいる。
「銀ちゃん、絶対観に来てよネ! 私の勇姿、見届けるヨロシ」
「はいはい。で、教科はなんだよ。数学とか理科とか社会とか国語とか英語って俺頭痛くなんだけど」
「それほぼ全部アル。大丈夫、音楽ヨ」
その言葉に銀時は音楽教師である高杉を思い浮かべ、実際、その授業を担当したのは高杉であった。
高杉は父兄席に現れた銀時に一瞥をくれたが、それ以上は特別なんの反応も示さず、淡々と授業を進めていた。神楽が後ろを向いて銀時に手を振るのをたしなめるくらいだ。
銀時も後ろを振り返ってばかりの神楽に前を向くようにと犬でも追い払うかのように手を降った。思いがけないことが起こったのは、授業も中盤にさしかかった頃だ。
オーケストラの鑑賞が行われた。高杉の手がCDをデッキに挿入し、曲が流れる。
聞き覚えのある曲で、銀時はなんとなく反応しつつも素知らぬ顔でそれを聞いていた。しかしふと、脳裏によぎる陰があった。
明かりの消された部屋に白くぼんやりと浮かび上がる肢体を撫でるのは自分の手だ。その手が這っている丸みのない、角張ったそれは女のものとはまるで違う、自分と同じ身体だった。熱を帯びてじんわりと汗ばんだ身体はきっと白日に晒せばほんのり赤らんでいることだろう。
腕が伸びてきて、銀時の後頭部を掴んで引き寄せてくる。その力に逆らわず身を委ねればすぐに唇が塞がれた。
鬱陶しい前髪の隙間から覗く目は扇情的に煌めいている。唇が離れれば酸素を求めて喘ぐ口は開閉を繰り返していた。きっと艶やかな声が漏れていることだろう。だが銀時の耳にそれは届かない。銀時の世界の音は、今流れているオーケストラが奏でるものだけだった。
(やべ…)
ふと我に返った銀時は自分の体温が上がっていることを自覚してぱたぱたと手で自分を仰いだ。気休め程度の風が届く。空調をもうちょっと下げてくれないものかと思ったが、今この場で暑がっているのは自分だけだ。授業終了まであと20分はある。
どうにかしてこの場をやり過ごさなければと銀時は視線をさまよわせる。視界の端で、高杉が笑ったような気がした。



「なんだそれ。とんだ笑い話だな」
銀時の話を、高杉は鼻で笑い飛ばした。今もこの部屋には申し訳程度にCDが掛けられている。しかしそれは授業で聞いたようなものではなく、ピアノの独奏曲だ。
対して銀時は眉を寄せて唇を尖らせた。
「笑えねーよ。オーケストラ聴くたびにそんななってたら俺マトモに生活出来ねーじゃねーか。どうしてくれんだコノヤロー」
「おまえは日常的にそんなもん聞かねーだろうが」
そう軽くあしらいながら、高杉は席をたってCDが並んでいる棚の前に移動した。指先でタイトルをなぞりながら、何かを探している。
そんな高杉をいまだ憮然とした様子で眺めていた銀時は、今日一番言いたいことを口にした。
「だからもういい加減最中に俺にオーケストラ聴かせるのやめてくんない?」
「却下」
「……」
とりつく島もない高杉の態度に銀時はますます表情を苦いものにしたが、あいにく高杉はそんな銀時の様子など見てはいない。
今、この状況に至った始まりは銀時が言った「我慢せずに声を出せ」という言葉からだ。肌を重ねながら、快楽に身を委ねることを良しとしない高杉があんまりにも歯を食いしばって耐えているから、見るに耐えかねた銀時がそう言った。
それに対する返答が「おまえがこれ付けててくれるんならそうする」というもので、差し出されたのはヘッドフォンだった。耳元で、大音量で流される音に高杉の声はかき消されてしまう。そうまでして彼は自分に声を聞かせたくないらしい。別に断ってもよかったが、そうすれば高杉はまたシーツやら枕やら自分の腕やらを噛みしめてしまうのは目に見えていたので銀時はそれを受け入れた。
その結果がこれだ。全く、笑えない。
「っていうか、おめーはよくなんの反応もしねーでいられんな」
音楽教師である以上、今日のように授業でオーケストラを流すことも多いだろうに。銀時の素朴な疑問に、高杉は振り返ると少し悪戯な笑みを浮かべて見せた。
「そりゃ俺はそんなもん聞いてねーからな」
ヘッドフォンなので、行為の最中にオーケストラ鑑賞をしているのは銀時だけだ。
「あー…なーるほーどね…」
いつかその手を押さえつけた状態でヘッドフォンを外して無茶苦茶に鳴かせてやろうかと銀時が胸中にどす黒い炎を燃やしているのに、高杉はそれを軽くいなして言った。
「まぁそうスネんなよ」
言いながらその指先は一枚のCDを引っ張りだしている。それを銀時に見せながら、高杉は笑みを深くした。愉悦の色を滲ませた、三日月につり上がった唇が開く。



「今日はこれにするか」