なぁ、他愛ない日常がいつまでも続く。そう思いこんでた俺が馬鹿だったのかな 。



もうすっかり通い慣れた廊下を歩く。いくつもの扉を通り過ぎて、そのなかのひ とつの前で高杉は足を止めた。
「………」
曇りガラスの向こうには、きっと笑って出迎えてくれる人がいる。
そう自分に言い聞かせながら高杉はドアを開いた。
真っ白な部屋で真っ先に目に付くベッド。そして機械。そんなものには目もくれ ず高杉はただベッドで眠る銀八を見つめた。
昨日も見た景色だった。おとといもその前も、その前もさらに前も、ずっと同じ ような世界を高杉は此処で見ている。
「―――………」
心の何処かで、高杉もわかっていた。銀八がまだ目覚めてなどいないことを。わ かっていて、それでももしかしたらと期待していた。裏切られて、がっかりする のもわかっていたのに。
銀八は事故に遭い、そのまま意識が戻らない。もう3ヶ月になろうか。
その間、高杉は毎日一日も欠かさずに銀八の元を訪れている。
銀八の部屋に飾られた鮮やかな花は高杉が持ち込んだものではない。誰かが見舞 いに来たらしい。誰が来たかなど、高杉にはどうでもよかった。
「よぉ銀八ィ」
横に座り込んで話しかける。普段の彼からは想像もできない穏やかな声色だった 。
もしも銀八が起きていたらなんて言うだろう。気色わるがるだろうか。そんな声 も好きだと言ってくれるだろうか。
だが銀八は目覚めないまま、何の反応も返さない。
それでも高杉は語り続ける。今日の出来事、クラスの様子、他愛ない下らないこ とを。
「―――………」
思い付くだけ語り尽くして、部屋に静寂が満ちる。
元々饒舌な方ではないのだ。これでもよく喋ったと思う。
見つめる先、銀八は睫毛一つ動かさない。
『もしかするともう二度と…』
医者の言葉が甦る。瞬きをひとつして、銀八を見つめ続ける。その存在がやけに 遠くて、手さえ伸ばせない。
「本当に、もう起きねぇの?」
呟く。返事などない。
「―――………」
思い出せない。銀八の声が。彼はどんな風に自分に話しかけてくれた?最後に聞 いた言葉は?最後に見た表情は?笑ってた?怒ってた?呆れてた?思い出せない 。何もかも。
瞼に思い浮かべる姿は自分の頭で綺麗に研いて歪めてしまっている気がして本当 の銀八に見えない。
会えないの?もう二度と、本当会えないの?
椅子から降りて、ベッドの脇に座り込んだ。重みで少しマットが沈む。
膝の前にあった銀八の手を取り指を絡めた。久し振りに銀八に触れる。少し力を 込めて痛いくらいに握り締めても、その手は握り返してこない。
上体を倒して胸に頭を乗せた。銀八は重いとも言わず眠り続ける。
「………」
高杉は一度体を起こして、靴を脱いだ。そしてベッドに横たわる。ベッドの中央 に眠る銀八と縁の隙間、ぴったりと、銀八に寄り添うように。
輪郭のラインを視線でなぞり目を閉じ額を銀八の肩に当てた。
会えないのなら、せめて隣りで眠らせて。何処でもいい。
銀八の好んだ青空の下や、馴染んだあの狭いアパートじゃなくても。そう、この 無機質な白い病室内でも構わない。
誰も俺らを引き離さないで。
うっすらと高杉が目を開ける。ぎゅっと握る手に力を込めて、銀八にさらに近付 く。それからまた目を閉じて、銀八にだけ聞こえるように呟いた。



おやすみ



宇多田ヒカル・Beautiful World 「もしも願いひとつだけ叶うなら 君の側で眠らせて」