金時は怯えていた。表情こそ平静を装っているつもりだったが、内心はとても怯えていた。目の前には誰よりも愛しい人と美味しいケーキがある。そして珍しいことにいつも何処か違うところを見ている高杉の視線を、真正面から一身に浴びているにも関わらず、金時は怯えていた。
高杉の視線がケーキに向けられる。そしてその手にあるフォークが一口分にケーキを切り分けた。視線が挙げられる。フォークを持っている右手も挙げられた。
「ほら、あー」
「ん」
差し出されたフォークを口に含む。切っ先に生クリームたっぷりのスポンジが乗っていたそれは金時の口の中に消えると、ほどなくして引き抜かれた。金時が口の中のものを大人しく咀嚼している間、高杉はずっと金時を見つめていた。そして飲み込み終わろうとすると、またケーキを乗せたフォークを差し出してくるのだ。
一体何のつもりなのだろう。これは一体なんのサービスだ。余りのことに金時は喜びよりも先に混乱していた。いや、最初は嬉しかったのだ。最初は、だ。
ケーキを食べさせてもらうというこの行為は、数週間前から始まった。
『なにこれどうしたの』
有名店のケーキの箱をテーブルに見つけ、金時は目を輝かせた。台所に立っている高杉はなにやら戸棚からカップを出しながらどうでもよさそうに言った。
『買ったんだよ』
『でも先生甘いもの好きじゃねーじゃん』
『俺が食うんじゃねーよ』
『は?』
今まで使った事のない紅茶のカップとケーキ用の皿、フォークを手に、高杉が台所から戻ってくる。カップは2人分だが、皿とフォークを1人分しかない。金時が首を傾げていると、芸術品のようなケーキが箱の中から出てきて、皿の上に乗せられる。何処にあったんだろうと思うような上品な皿と相まって、本当にディスプレイのようだった。
ケーキは高杉の前に置かれている。これは一体、と様子を窺っていれば、高杉がフォークを手に取り、ケーキを一口分切り分けた。そして金時に差し出してきた。
『ほら、あーん』
夢にまで見たようなシチュエーションに、金時はこれは夢かと疑った。そして願った。どうかこのまま覚めないでくれ。
喜色満面の笑みでケーキを食べた金時に、無表情のまま高杉は問いかけてきた。
『美味いか?』
素直に頷けば、金時の視線の先で高杉が笑った。嬉しかった。幸せだった。
そんな出来事も2回、3回と続くと逆に金時の不安を煽ってくる。
何故、どうして。
普段、愛故にとはいえ、虐げられてばかりいる金時は段々と空恐ろしくなってきた。そんな金時の空気を感じ取ったのか、高杉の手が止まる。
「口に合わなかったか、コレ」
「や、美味いよ。すっげー美味い。うん、本当」
「そうかい」
無表情のまま問われ、金時は反射的に浮かべた笑顔で大袈裟な程にはしゃいでみせた。すると高杉はそれ以上深く追及するでもなくまた親鳥のように金時にケーキを食べさせる。
この行為の真意を問えないまま、この日も何事もなく過ごしてしまった。
今のこの状況は精神衛生上良くない。だが現状をどう打破したらいいものか、いい案も浮かばない。行き着けの桂の店で金時はうなだれていた。
「率直に聞けばいいではないか」
「聞けたら苦労しねぇんだよ」
「実は他に好きな奴が出来…」
「あーあー聞こえない聞こえないー」
金時の頭の隅にある、拭えない可能性を音にされ金時は耳を塞ぎ声を上げた。
不自然な程に優しくなるのは、やましいことがあるからだというのはよくある話だ。高杉がそんな人間だとは思わないけれど、高杉だって人間だ。金時に言えない過ちを犯し、その自責の念からのケーキだという可能性だって十分考えられた。
だがしかし金時はその可能性から目を背けていた。考えたくない。金時が高杉に今回の件の動機を聞けない理由もそこにあった。
端から見れば金時のなかの答えなどもう出ているようなものなのに、金時がぐだぐだと結論が出るのを先延ばしにしているようにしか思えない。
第三者的立場以外の何者でもない桂はそんな金時の様子を見ながら、さらりと言った。
「そう深く悩まずとも、ただの気紛れだと奴は言っていたぞ」
「聞いたのかよ?!」
「先生がデレ期だと脳天気に喜んでいたおまえがそこでぐだぐだ悩み始めた頃にな」
それはつまり今から3週間以上前ではないか。恨めしさを込めた目で睨んでみても、桂は平気な顔でその視線を受け流した。
「だからそんな気にすることはあるまい」
「……」
唇を尖らせながら、金時はまた物思いにふけった。ただの気紛れ。そんな言葉で片づけられるものなのだろうか。ケーキを差し出してくる高杉の顔が浮かんで消えた。
だが真相は思わぬところで明るみに出た。
「浮かない顔してますねィ」
歩いているときに声をかけられ足を止める。制服姿の交番のお巡りさんがいた。
「不景気ですかィ?」
「いんや? 本職はおかげさまで上々ですけど?」
「じゃあ私生活でなにか悩みごとですかィ」
「…別に、悩んではねーけど」
会いにいけば高杉がケーキを用意して待っていてくれる。嬉しい、幸せ、それでいいじゃないか。金時はそう思おうとしていた。歯切れの悪い金時に、沖田はそういえばと、さも世間話というノリで言葉を続けた。
「こないだ、っつってももう一月くらい前になりますかね。高杉先生とばったり会ったんでさァ」
「…で?」
「まぁそこで会ったのも何かの縁なんで、世間話がてら旦那のどこがいいのか聞いてみたんです」
「おまえなにしちゃってんの」
沖田は人の色恋沙汰になど興味はないだろう。そんな問いかけをした理由など、興味本位以外のなにものでもなく、あわよくば人をいじくるネタにするつもりだったに違いない。心の距離をとったのを悟ったのか、沖田はまぁまぁと金時を宥めた。
「結局教えてくれなかったんですが、俺ァ旦那に気をきかせて、先生に教えてあげたんでさァ」
「なにを」
どうせろくなことじゃないに決まっている。高杉に一体何を吹き込んだのか、空恐ろしくて聞きたくなかったが、聞かないわけにもいかなかった。すると沖田は秘め事のように金時の耳に唇を寄せてきた。金時もついつい息をひそめて耳を傾ける。密やかな声で沖田は言った。
「旦那はああ見えて結構モテるって。いくら旦那が先生にべったりだからって安心してると、いつか愛想尽かされちまうかもしれませんぜ、って」
思いがけない沖田の言葉に目を瞬かせ至近距離の沖田を見やれば、沖田はほんの少し、意地の悪い顔をしてすいと身体を離してみせた。
「まぁ先生は鼻で笑ってやしたが、危機感ってのも、マンネリ防止には必要でしょう?」
じゃあ俺勤務中なんでと沖田は自転車にまたがって去っていく。取り残された金時は、与えられた情報の整理に少しの間を要していた。
ケーキが愛想を尽かされてしまうかもしれないという情報を得た結果のものだとしたら、高杉の中で一体どういう思考が働いたのか。全ては金時の想像にしか過ぎないけれど、脳内で弾き出した答えに金時は頬が緩むのを抑えられなかった。
「俺、甘いもの好きなんだよ」
「知ってる」
高杉の家に行けば、今日もケーキが用意されていた。いつものように、高杉の手から与えられるままケーキを食べている最中、金時はそんな言葉を切りだした。
「好きなんだよ」
「あぁ」
だから? と高杉は問いかけたが金時は意味ありげな含み笑いを浮かべてその先を応えることはなかった。
(ちょっと辛辣なところがあったってちょっと待遇が酷くったって、結局のところ俺に甘い先生が好き)
しかし話はここで終わらなかった。
金時の腹を、高杉はしばらく無言で見詰めていた。
「…先生?」
あまりの反応のなさにおずおずと問いかければ、高杉の手が動いた。腹を容赦なく掴まれる。そして、呟かれた。
「おまえ…、太ったか?」
「………」
指先で腹の肉をつまむ手を止めない高杉に、金時は氷のように固まっていた。
(深夜にちょこちょこケーキ食べてりゃ、そりゃそうですよ。先生の愛の果てなら別にいいけどね! 泣いてなんかないんだからね!!)