風呂上り、金時は浮かれていた。風呂から上がったばかりだと言うのに金時の身体はもう既に冷えかかっていたが、それでも金時は浮かれていた。金時が今しがた出たばかりの浴室では高杉がまだ風呂に浸かっている。
そう、今の今まで二人で広くもない浴室に居たのだ。一緒に湯船に入りたいが狭いから出て行けと高杉が嫌がるのでそれはさすがに叶わない。けれど湯船に浸かったままの高杉の髪を洗い流すだけで金時は今のところ満足していた。
そのため普段より注意力が散漫になっていたのは否めない。
「いて、…ん?」
棚にぶつかった。決して思い切りぶつかったわけではないけれど、ちょうど腰のあたりにある棚はその衝撃で揺れて上に乗っていたものが落ちた。がしゃんと小さい割に派手な音をたてたそれを見下ろせば、なにやらバラバラ事件が起こっている。
それは人形だった。金時が常々気になっていたものだ。高杉の部屋にそぐわない異質な、何かのマスコットのような人形の四肢がばらばらになってしまっている。
どうしたものか、しゃがみこんで手を伸ばそうとしたその時、金時は気配を感じてそちらに視線を向けた。
高杉が立っていた。しかし目は合わない。高杉の視線は真っすぐに、金時の手元、人形に注がれていた。感情の見えない表情で口をつぐんだまま、高杉は前に出ると金時を押しのけてその人形の横に膝をついた。拾い上げてただじっとバラバラになった人形を見つめている。なにかがおかしい。
その沈黙に耐えられなくなって、金時はおずおずと口を開いた。
「あの、先生…?」
「出てけ」
「え?」
「今すぐにな」
「で、素直に出てきたわけか」
「だって先生マジ怒ってたんだぞ、おま、今まで愛ある殴打は数あれどあんな顔も向けずに出てけとか言われたの初めてだもんよビビるだろ出てくしかねーだろ、あれ以上先生を怒らせてたら俺どうなってたかわかんねーんですけど」
飽きれ顔の桂に金時は必死の形相で訴えた。素直に高杉の家を後にした金時はその足で桂の店に来ていた。金時が今しがた経験したことを素直に伝えたのだが、金時の感情までは桂に伝わらないらしく、その表情は変わらない。
桂にとっては心底どうでもいいことらしく、その証拠に反応も適当極まりなかった。金時の言葉を受けて、桂は表情一つ変えずにさらりと応じてみせた。
「今頃三面記事位になっていたかもしれんな」
「……」
「冗談だ」
「笑えねーんですけど」
高校教師の自宅でホスト殺傷事件なんて、世間はどう受け止めるだろう。男同士の刃傷沙汰を、面白おかしく取り上げるのだろうか。想像して、背筋に冷たい汗が流れる。全くぞっとしない話だ。
そんな金時の胸中など構わず、桂は何でもない風に言った。
「その人形というのはあれだろう、高杉の部屋で明らかに浮いているガラクタみたいな置物」
「知ってるのか」
思い出すように視線を彷徨わせた桂は的確に言い当てたことに、金時は食いつき思わず身を乗り出した。桂と高杉の付き合いは、金時と高杉のものよりもずっと長い。自分の知らない何かを知っているであろう桂を、金時は目を見開いて見つめた。
そんな反応をされても尚、桂の表情は変わらない。淡々と、それでも誠実に金時の言葉に応じてみせる。
「あれは高杉の宝物だ。あいつは見た目によらず懐古主義なところがある。あのガラクタは、高杉の学生時代の友人が作ったものだ」
「友人…」
金時は右から左へと通り過ぎる桂の言葉の中で、引っかかった物を呟いていた。桂はそれに一々反応したりせず言葉を続けた。
「三郎といってな、理工学部でロボットの研究をしていた。不慮の事故で亡くなったんだがな」
「事故…」
「あれは形見の品という訳だ」
そんなものだったなんて、金時は少しも知らなかった。改めて自分は高杉のことなど何も知らないのだと思い知り、またなんてものを壊してしまったのだろうと自責の念が込み上げてきた。
高杉だって、あの部屋のインテリアにあんなものはそぐわないと自覚していたはずだ。それなのに敢えて飾って置いておいたほど思い入れのあるものを、二度と還らない人が残したものを、自分は壊してしまったのだと思うともうどうにも償いようがないではないか。
何をもって贖罪とすればいいのかと金時が頭を抱えた矢先に、場違いな着信音が流れた。金時の胸元で震える携帯電話に、金時はだらだらとそれを取り上げ、発信者の名前を見た。そして其処に映る意外な人物の名に目を見開いた。
「オヒサシブリデゴザイマス」
「…おぅ」
緊張から全身を硬直させて挨拶をすれば、目の前の愛しい人は平然と応じて金時を部屋に招いた。
着信は源外からだった。高杉に届けてもらいたいものがあるから寄って欲しいとのことだった。源外に託されたものを高杉に渡せば、高杉はそれを受け取り、包みから取り出すと部屋の定位置にそれを置いた。金時が壊した人形だ。バラバラだったそれは源外の手で修復され、元通りになっている。
三郎は源外の息子なのだと、彼から聞いた。息子と高杉は本当に仲が良かったのだと彼は言っていた。本当に、本当に仲が良かったと。
「このたびはとんだことをしでかしてしまい、本当に申し訳ございません。なんとお詫びをしたらよいか」
「は? あぁ…、んなに気にするこたねぇよ。元々壊れてたからなぁ」
「…は?」
「こいつ、本当はスイッチ一つで動くんだ」
高杉は定位置に戻した人形に視線を注ぎながら、指先でその頭を撫で上げた。
「でももう壊れて動かなくなっててなぁ。まぁ、まさかバラバラになるたぁ思ってなかったがな」
意地悪く笑いながら視線を寄越す高杉に金時の身が小さくなる。
「本当に申し訳ございませんでした…」
「だから別に気にするこたぁねー。でもそうだな、そんなことより俺はてめぇに1つ、言いたいことがあんだよ。てめぇがこの人形バラバラ事件を起こすよりももっと重要なことが」
「…なに?」
高杉は笑んだままだ。その微笑が金時には怖かった。自分は何をしただろうか。色々と考えてみるが、心当たりがなさそうでありそうな気がして混乱した。あれだろうか、これだろうか。上げればきりがない。
高杉は微笑を湛えた唇を開いた。
「なんでてめぇはいちいち俺とのことをベラベラベラベラ、第三者に話しちまうんだろうなぁ」
「…は?」
「俺となにがあった、こんなことがあった、こんなこと言われたあんなことした…。プライバシーもなにもあったもんじゃねぇか。なんでてめぇの口はそんなに軽いんだ、軽いのは見た目の頭だけにしとけよこの天パァ…」
「ちょ…」
一歩一歩確実に距離を詰めていた高杉の表情からいつのまにか笑みが消えていた。吐息が交わる距離で囁くような、それでいて腹の底から響く声が金時の鼓膜を揺らした。冷たい視線で睨まれたまま、思い切り両頬を抓りあげられて金時は痛みに眉を寄せた。己の頬を容赦なく抓る手を優しく叩いて訴える。
「いひゃいいひゃいいひゃい。マジギブマジギブ」
「次にまたべらべらしょうもないこと言いふらしやがったら、もう二度と金輪際てめぇとは関わりをもたねぇからな、覚えとけ口軽天パ」
最後に一際強く抓られて、ようやく解放された頬を抑える金時の目には涙が滲んでいる。今までも高杉の機嫌を損ねて殴られたり蹴られたりしたことはあったが、今回は本当に怖かった。彼の心底の怒りに触れたのが分かった。
まるで何事もなかったかのようにソファに座り、改めて三郎の人形に目を向けた高杉の表情は少し満たされている。それをいまだに頬を抑え、立ったまま金時は見ていた。
「…先生」
「なんだよ」
「今度なんか作るから、そしたらその人形みたく大切にしてくれる?」
(しょうもないことで苛立たせたり、怒らせてばかりだけど、俺だって貴方に何か残したいよ)