心地よい温度にもう少しでも浸かっていたかった。
別れのときを知っていたから、少しでも先伸ばししたくて、現実から目を逸らしてた俺が誰よりも悪いことくらい分かっているよ。



「どうかしたか?」
「え?」
高杉の急な問いかけに、金時はカップに向けていた目を高杉に向けた。
少し首を傾げている高杉の視線は金時がジーパンの後ろポケットに入れている左手に向けられていた。
「今日右手しか使ってねぇだろ。それになんか左手隠してっし」
「あー…、ちょっとドジっちゃって」
「?」
少し泳いだ金時の視線に高杉の眉が訝しげに寄せられる。
決して悟らせぬようにさりげなく行動していたつもりだったが、気付かれてしまっては仕方ないと金時はポケットから出して高杉に包帯の巻かれた手を見せた。
「昨日酔ってたら階段で足踏み外しちゃってさ。咄嗟に手ェついたら捻っちゃった」
そう笑って見せれば高杉はまた違った意味で眉間のシワを深くした。
「あぶねぇな。気をつけろよ。こないだは二日酔いで今度は酔って階段から落ちて。もう引退した方がいいんじゃねぇの?」
「手厳しいこと言うなよ。そしたら俺にどうやって生きてけっつーのよ」
首を竦めて見せれば高杉は少し眉を寄せたが、それ以上何も言わなかった。
向けられた背中を金時は眺める。
包帯の下にあるのは捻挫などではない。その傷を高杉は知らなくていいと思う。
「………」
黙って金時は高杉に近寄る。無傷な腕を伸ばして、後ろから抱きしめた。
驚いたように身体を強張らせた高杉の後頭部に額を寄せる。
突然の行為への高杉の戸惑いが手にとるように分かったけれど、金時は小さく笑ったままその手を離すことはなかった。
「金時…?」
「んー、もうちょっとだけ」
「………」
呟いた金時の冷たい手に、躊躇いながらも温かい手が重なった。



「最近金ちゃんは怪我してばっかアルナ」
神楽は労る気もなく、ただ事実だけを音にした。笑みを浮かべ、金時を見つめている。
金時は返事をしない。黙々と知らん顔で御手拭きを畳み、机の上を片付けている。
片手を労りながら器用に片付けをこなす金時を神楽はしばらくじっと見つめていたが、その目から感情を無くすと金時に問い掛けた。
「―――何を迷ってるネ?」
「………」
酒を作り、金時は神楽の前に差し出した。神楽はそちらになど目もくれず、ただ金時だけを見つめ言葉を続けた。
「ねぇ金ちゃん、覚えるアルか?金ちゃんが私のモノになってしばらくはずっと、金ちゃん怪我してばかりだったネ」
懐かしむような声にも金時は沈黙を守りつづけた。神楽はそれに構う事なく、組んでいた足を組み直してソファーにもたれた。
「迷いは死を近くする。そんなことくらい金ちゃん分かってるはずネ」
「………」
何時までも目を合わさず口を開こうとしない金時に、神楽は小さくため息をつくと金時から目を逸らした。用意されたグラスに乗ったオレンジを手に取る。
「高杉晋助」
神楽がその名を口にしたとき、金時の纏う空気が微かに揺れたのを神楽は肌で感じていた。
やっとあった些細な反応に、神楽は楽しそうに唇を吊り上げた。
オレンジの皮だけをくるくると指先で弄びながら神楽は金時に問い掛けた。
「あの子と何時まで遊んでるつもりアルカ?別にね、私は構わないヨ。いくらでも好きなだけ恋人ゴッコして戯れるヨロシ。でもね、金ちゃんがふわふわしてると、傷付くのはあの子ネ」
「分かってるよ」
お決まりの挨拶を除き今日初めて金時が口を開いた。全てを拒絶するようにそれでいて懇願するような響きを持った音に神楽は愉悦の笑みを深くしてグラスに手を伸ばした。
炭酸の弾ける透明な液体はライトに当たり煌めいている。
神楽はそれを手にしたまま静かに立ち上がった。俯いている金時を見下ろして、金色の上に手を翳す。ゆっくりと手にしている杯を傾けた。
髪を、頬を伝い、床でシャンパンが弾ける。手放されたグラスは派手な音をたて砕けた。
他の者が音を聞き駆け付けるのも気にせず、浮かべていた笑みを消し、突き放した声で神楽は言った。
「分かってないヨ」



高杉は一人、通りを歩いていた。
脇は公道で、それなりに車が走り、絶えず高杉を追い越していく。
取り留めもなく最近元気がないように思える金時のことを考える。
訳を聞いてもはぐらかされてしまうだけなのは、自分が年下でガキだと思われているからだろうかと考えてしまう。
たどり着いた結論に憤ってみたり、いや自分の思い違い、被害妄想かもしれないと思い込もうとしてみたり高杉の思考は目まぐるしく変わっていく。
「ねぇ」
物思いに耽り世界の音が遠ざかっていた高杉の耳にするりと入り込んできた声に、高杉は足を止めた。
そして音源に目を向ける。
高杉の視線の先、建物が生み出した影のなかだというのにシルクの布に包まれた手で目印のような日傘をさした神楽が微笑み立っていた。
「あんた…」
「こんばんは。また会ったネ」
人懐っこい無邪気な笑みを神楽は浮かべているが、高杉はほんの少し警戒を強めた。本能が警鐘を鳴らしている。
以前会ったときに感じた空気を高杉は忘れてはいない。いや、忘れられるはずもなかった。一瞬だったとはあんな感覚に陥ったのは後にも先にもあの瞬間だけだったのだから。
あからさまな高杉の態度にも神楽はただ笑っている。
「そんな警戒しないでヨ。私別に何もしないヨ。私はただ金ちゃんがあんまりにもどっちつかずだから、代わりに私が君に警告しに来てあげただけネ」
「金ちゃん…?」
神楽の言っていることは正直何が言いたいのかよくわからなかったが、彼女が口にした名前に、高杉の警戒が反射的に緩む。
余りにも分かりやすい変化に神楽は声を立てずそれでも愉快そうに笑った。