『気に入ったヨ』 華やかな表通りのネオンも届かない闇色の世界で、酷く愉快そうに笑いながら人 を見下しおまえは言った。 『今日からおまえは私のものネ』 真っ赤な唇から零れ落ちたその言葉が、今も俺を繋ぎとめる。 なにかが出来ていく様を見るのが好きなのだと高杉は言った。無から形になる。 その過程が見ていて楽しいのだと。 だから高杉は金時の持つ絵筆に乗った色が一筆一筆キャンパスを染めていくのを じっと真剣な眼差しで見つめている。 金時は絵を描きながらそんな高杉をちらちらと見るのが好きなため、会話など満 足にない静寂に満ちたこの時間は二人にとって下手な映画よりも余程楽しめるも のだと言えた。 不意に金時が手を止めれば、その続きを大人しく待っていた高杉は金時に目を向 ける。 けれど金時は真剣な眼差しで中途半端に色づいたキャンパスを見つめているので このタイミングでも結局二人の視線が絡み合うことはない。 金時はキャンパスを見つめる、その目を見るのが高杉は好きだった。金時の書く 絵が好きだと言ったことはあるが、絵を描いているときの金時が好きだとは言っ たことがない。きっとこれからも言わないのだろう。多分それでいいのだと思う 。 「んー…」 金時はむずがる子供のような声を上げ、宙空に止めていた筆を完璧に置いた。 「今日は此処までにしよっかな。続きはまた今度」 「…ふうん」 「ん」 金時が絵を描くのは気分で、気がのらないときは筆を手にした者の何も書かずに 終えることもあるし、逆にバリバリととり憑かれたかのように描くこともある。 最も金時にとって絵は趣味であり、気ままに描いていても誰も困らないから構わ ないのだった。 高杉はキャンパスを見つめた。それはそれで一つの完結した世界であり、完成し ているように見える。だが創造主である金時が続きがある、まだ未完成だと言う からそうなのだろう。 難しいなと高杉は唇を少し尖らせた。 そんな高杉を見ながら、金時は片付け言う。 「なんか食い行く?」 「めんどくせぇ」 「作ったり片付ける方がめんどくさいって」 「怠け者」 「じゃあおまえやってよ」 「めんどくせぇ」 「ほーらみぃー、って、おまえのが怠け者だろ」 他愛ないやり取りをしながら、二人は金時のマンションを出て街をぶらついた。 金時の庭であるかぶき町を歩けば、すぐに声がかかる。その声の主は老若男女国 籍問わず、バーにクラブにキャバクラに、色々な店に招かれるが金時はそれらを 笑顔やら悪態やらで全て交わし、高杉と二人何処にでもあるファミレスに入った 。 窓際の席で対面に座る。7秒後には忘れるような会話を、それでも笑いながら交わ していた。 けれどぞくりと、不意に背筋が凍るような心地がして金時は窓の外を見た。 それはよく知っている視線だった。流れていく人込みに視線を向けるが何事もな く、金時の逆立った感覚もまた引いていく。 「金時?」 「…あ、ゴメン」 不思議そうに見つめてくる高杉に、金時は浮かせた腰を下ろし笑みを向けた。 「どした?」 「ん、今すんげぇのがいてさァ、思わず二度見しちゃったよ」 「なんだそれ」 意味わかんねぇしと無邪気に笑う高杉を金時も笑いながら見つめた。 今感じた視線は、高杉にも向けられていたけれどどうやら彼は気付かなかったら しい。 結局この日高杉と別れるまで金時の敏感なアンテナは張られたままで、何処まで も心から笑ってくれる高杉に申し訳なさを感じながら金時はその顔に笑みを張り 付けていた。 騒がしい店内の喧騒が何処か遠く聞こえる。 ペット禁止ではないため、彼女の膝に当たり前のように乗せられている白い小さ な犬、定春を撫でる指先を金時は見つめていた。 定春の飼い主、神楽の真っ赤に塗られた唇が動く。 「定春とね、散歩しに行こうと思ってるネ」 なんでもないような口調と内容に金時はテーブルのフルーツに手を伸ばしながら 応じた。 「いんじゃね?行けば」 「でも今私の庭、虫がいるヨ。目障りネ。不愉快アル」 「………で?」 敢えて、金時は尋ねた。神楽が何を言いたいのかわかっていたけれど。 金時の言葉に、神楽は定春に向けていた視線を金時に移し、にっこりと笑った。 「片付けてきてヨ。それが、今の金ちゃんの仕事ネ」 「………」 金時は神楽を見つめていたが、神楽はすぐにその笑みを定春に向け話し掛け始め る。金時の返事など聞く気など彼女にはなかった。そもそも金時に選択肢などな いのだから、聞く必要もないのだ。 イエス、それ以外は有り得ない。 それでもせめて何か言おうと金時が口を開いた一瞬前、思い出したように神楽が 目を瞬かせた。 「あ、そうそう。思い出したヨ。私、金ちゃんに言おうと思ったことアルネ」 「?」 神楽の言葉に金時が紡ごうとしたものは音になる前に消えうせ、目を瞬かせる金 時に神楽はまた金時を見遣ると先程の笑みよりも愉快そうに唇を吊り上げた。 「金ちゃん、随分とかわいらしい子連れて歩いてるネ。私知らなかたヨ。金ちゃ んあーいうのが好みだったなんて。あの子、そう―――高杉晋助、って言ったア ルか?」 「―――……」 神楽の口調も表情も、明るく愉快そうなのに、金時の表情は見る間に凍り付いて いった。その様を見て、神楽はさらに笑みを深める。 高杉といた時一瞬だけ感じた視線、心当たりが確信に変わる。そう、やはり、神 楽のものだったのかと金時は頭の片隅で思ったが今はそんなことはどうでもよか った。 金時が神楽に高杉のことを告げたことはない。二人でいるのを目撃されたのは昨 日だが、きっと高杉と付き合うようになってから既に神楽は知っていたと金時は 思う。神楽というのはそういう人なのだ。 もし仮に二人のことを知られたのが昨日だとしても、もう高杉の全てを神楽は調 べ上げているのだろう。高杉が知られたくないと思っていることも全て、神楽は 把握していると思っていい。下手なことを言えばきっと金時が知りたくないよう なことを平気で口にするに決まっている。 神楽は弓形にした唇で「そんなに警戒しないでヨ」と言った。 「私もあの子嫌いじゃないヨ。可愛いし、面白いネ。だから二人のこと応援して るヨ。子供だって好きなだけ作るヨロシ。避妊なんていいネ。可愛いのが生まれ たら私面倒見てあげる。飼い主の責任果たすヨ」 「…高杉は男の子だから子供とか生まれねーから」 「あら、それは残念アル」 クスクスと笑う神楽は酷く楽しそうだった。何かを企んでいる、それとすぐ分か る笑みを浮かべている。 彼女は感情を隠さない。隠さないことが、逆に相手にプレッシャーを与えること をよく知っていた。 「…片付け、明日しとく」 金時は溜め息をつきそれだけ言うと断りもせずにグラスを持って席を立った。神 楽はそれを引き止めない。 「よろしくネ」 「………」 もう返事すらせずに金時はその場から離れた。憂鬱だが、金時に拒否権はない。 『飼い主』 神楽はさらりとそう言った。その言葉に嘘はなく、神楽は金時の飼い主だった。 「…あーぁ、馬鹿だねおまえも」 月明かりの下、絶望的な色をした温もりがじわじわと道を覆い尽くすのを金時は 見つめていた。だがすぐに残っている仕事を片付けはじめる。 物言わぬ存在になったものが神楽の庭である歌舞伎町で売っていた粉やら錠剤に 可燃性の液体を振り掛けると、金時は煙草に火をつけた。 深く吸って肺を煙で満たし、長く吐き出した。そして一度だけ吸ったそれを無造 作に落とせば小さな火種は瞬く間に広がった。 一体いくらの値がついているのだろう。目の前で爆ぜるクスリを見下ろしながら 金時はぼんやりと考えていた。 なにやら金時のご主人様はこういった類のものも売人も大嫌いらしく、街に流れ はじめると直ぐさま人ごと駆除にかかる。 それは治安の維持だとかそういった道徳的な心からではなく、単に自分の箱庭を 汚されたくないのだろう。変なところで潔癖症なのだ、あのお姫様は。 そしてそういったものを片付けるのは金時の仕事だった。 神楽が望むならなんだってする。それが坂田金時という存在。けれど。 「ったく、やだなぁもう…」 呟いて空を見上げた。ビルの隙間から見える月が綺麗で、金時は神楽と初めて会 った日の夜を思い出す。あの日も月が輝く夜だった。 次いで夜色の髪をした愛しい人が脳裏に過ぎる。 「会いてぇなー…。高杉」 けれどきっと彼はもう寝てる。金時の呟きは夜の闇に消えた。 |