「なー先生、羽見せてよ」
冷たい風に吹かれながら、俺は先生にそうお願いしてみた。
「羽?」
俺の言葉に先生は少しばかり不思議そうな、訝しげな目を俺に向ける。だから俺はちゃんと言ってやった。
「天使の羽」
昔聞いたことがあるんだ。肩甲骨は人間が天使だったころの名残だって、羽だったんだって。
だから俺の想像ではその辺から羽が生えてるんだけど、実際どんなもんかお目にかかれるもんなら見てみたいもんだ。
俺の言葉に、先生は何処か遠い目をして記憶の糸を辿っているようだった。
「天使の…?」
そう呟いて瞬きをして、ちょっと開いた唇がなんか無防備。
ちょっと間が開いて先生はやっと思い至ったようで「…あぁ」と言った。
「羽な、羽。天使の、羽、羽…」
確かめるように何度も繰り返す。あぁそういえばそんなこと言ったっけな、みたいな反応。
ちょっ、もぉー、自分で言い出した設定忘れてるとか迂闊過ぎるよ先生。
絶対ェこの人、どうせ寝てんだろとか思って子供の枕元にクリスマスプレゼントぽんと置くタイプだね、サンタの正体見てやろうと狸寝入りしてるガキに謀らずも現実を教えちゃうタイプだね、うん。そうに違いない。奥さん、子供へのプレゼントは奥さんがそっと置いてやりな、ガキの傷つきやすいガラスのハートを守るためにもさ、と俺は先生の未来の奥方にテレパシーを送ったりなんかしてみる。
まぁ別に俺としてはサンタもいねぇってわかってるし先生が天使だなんてそんな戯言信じるほど俺純粋じゃないからいいんだけどさ。
ちなみに俺はサンタ見てやろうとずっと起きてたらその年サンタは来なかったっつー経験がある。チクショウめ。いらんこと思い出した。
先生は俺が先生の言葉信じてると思ってんのか思ってないのか、別にどっちでもいいんだろうなと思わせるような微妙な反応をして、それから「嫌だ」と俺の方を見ずに返してきた。
とりあえず俺天使発言を撤回する気はないらしい。なら俺ももうしばらくそれに付き合ってみるかね。
「なんで、ケチ」
「服着たまま見せられるわけねーだろうが馬鹿」
「じゃあ脱げば」
「てめぇが脱げ」
冬の気配が日に日に濃くなる屋上、ストリップショーを開くにゃちょっと寒すぎる。
丁重にお断りして、俺は他のこと尋ねる。
「実際、羽使うことなんかあんの?服着たままじゃ広げられない羽なら羽使うとき半裸じゃん。いや、全裸?」
「何処の変態だ、捕まるだろうが」
半裸だ、下半身くらい隠すと平然と言われ、それもどうよと思いながら俺は続けた。
「うん、だから、半裸でも目立つじゃん。っつか人間が空飛んでたら目立つじゃん」
「案外、誰も空なんざ見ちゃいねーんだよ」
「ふーん…」
俺は聞きながら先生を見つめる。すっげぇなこの人、よくこんなくだらないこと真顔で言えるよ。あ、くだらないからこそ言えんのか。
ふぅと先生が吐き出した煙が白く舞う。なんかそれが羽っぽくて、俺はなんとなくそれが散るのを見ていた。
「で、先生は羽使うの」
「使う」
「え」
きっぱりと言われ、俺は思わず素が出る。その瞬間の表情を見られ、「馬鹿面」だと先生に鼻で笑われた。
だがそんなことにも構わないくらい俺は真剣に尋ねた。
「いつ?」
「此処に来るのに」
「マジで?!」
「階段上るのめんどくせぇし」
「へー…年だね」
「あぁ?」
ギロリと睨まれて俺は肩を竦めて口を閉ざした。危ねー危ねー、口は災いの元。
羽使って、俺が来る前に羽しまって、服着てんのか。なら早く来ればその一部始終見られるんじゃね?よし、もうちょっと早く屋上来よう。俺は心に決める。
とまぁ、そんときの俺は先生のあまりの断定口調に綺麗さっぱり忘れてたわけだ。
まだほんの五日前、俺らが屋上で、初めて会話を交わした、あの日のことを。
先生のタバコ、半分くらいになってる。タイムリミットまであと半分ってことか。
先生は一本吸い終わると戻ってっちまうから。俺はちらりと先生の少し骨っぽい白い指に挟まれてるタバコを確認する。
「じゃあ他のときは使わねぇの?」
「使わねぇな」
「なんで」
「汚れっから」
羽が、と言われ俺は目を瞬かせた。なんで?
少し考えてから、排気ガスかと気がついた。空気悪いもんなー街中は。歌舞伎町、というか新宿の喧騒を思い浮かべて俺は納得する。
それと同時に、真っ白なままの先生の天使の羽を思い浮かべた。きっと綺麗な純白なんだろうなぁと思い描けた辺り、俺ってばまだ汚れを知らないピュアな子供心忘れてなかったね。自分にびっくり。
風が吹いて、ふわりと先生のタバコの香りが俺に届く。甘い香り。
「生きづらい?地上」
「あぁ、かなりな」
「ふーん」
先生は言葉のなかに、嘘のなかに、何気なく本当のことを混ぜ込むから、馬鹿でガキだった俺は何時だってその意味をなんとなく受け入れるだけで、理解などなにひとつ出来ずにいた。
今なら、なんて、言えない自分が少し情けない。あぁあの時きっと、って、推測することは出来るようにはなったけど。
『生きづらい?地上』
『あぁ、かなりな』
俺が何も考えず、無神経に尋ねたことに、先生はどんな気持ちで答えたのかな。答えはあるのに、誰にも解けない永遠の謎のように、俺のなかに残る。
この世界で生きる天使の過酷さに俺は真剣な顔して黙り込んだ。やっぱどんな生き物も楽じゃねーよな。あれ?天使って生き物?ん?
そんなことを考えていつものヘラヘラ顔を真面目なものにしてる俺を、先生はじっと見つめていた。
「…案外、純粋なんだな」
「は?なんか言った?」
「なんも」
先生の言葉に、改めて先生に意識を向けた俺の前で、タバコの火が消される。
タイムアップ。
先生は立ち上がる。ぱたぱたとお尻の辺りを払って、手を払う。そういや先生、白衣何着持ってるんだろ。いっつも綺麗なの着てる。っつか先生、なんで数学教師なのに白衣着てんの。普通、理科系の教師が実験のために着んじゃねぇの。俺、化学の実験すんのに買わされたもん。そういや1回しか着てねぇや。勿体ねー。
「なー、先生、先生なんで白衣着てんの」
「あ?」
空を見てた先生は俺の言葉に俺の方向いた。だから俺はもう一度「白衣」と伝える。
「なんで?」
「………」
先生は少し考えるように唇を閉ざした。視線を下げて、瞬きをして、俺から目を逸らしたまま言う。
「落ち着くから」
「落ち着く?」
「白。羽みたいな色。着てると羽に包まれてるみたいだろ」
ポケットに突っ込んだままの手を少しあげて、先生は俺に白衣を見せ付ける。
朝学校に来てから着てるそれは座ったりとかで多少シワになってるけど、少しもよれてなくて凛として先生みたい。
成る程ね、と納得する俺の横をすり抜け、先生は屋上から出ていこうとする。
「あぁ、そう…」
思い出したように先生は足を止めた。
「?」
何事かともうちょっと屋上にいるつもりだった俺は先生を見る。
扉のところで立ち止まった先生は振り返り、教室とは違う、悪戯な笑みを浮かべた。
「せいぜい悪い奴に騙されねぇよう生きるんだな、ガキ」
「は?」
それだけ言い放ち、俺を置いてさっさと出て行く。扉の閉まる重たい音が階段に響いてるのがこっちにも聞こえた。
取り残された俺は言われた言葉を反芻する。
騙されないように?どゆこと。しばし考える。そして、はっ、俺はやっと運命のあの日を思い出した。
あの日、俺はフェンスのそとで世界を見下ろしてて、そんで先生が来た。
先生屋上にどっから来たよ。羽使って飛んできたか?バサバサ音をたててきた?
来 て ね ぇ よ 。
ふっつーに階段上ってきてたじゃねぇか、その重たい防火扉みたいなの開けてきたじゃねぇか。
迂闊…!俺の方が迂闊だった!うっかり先生の言葉真面目に聞いてたよチクショウ…!!
おっかしいな、最初は俺が先生の話に付き合ってやるかと思ってたのに。どっから間違えたんだろ。
『ガキ』
そう笑った先生の表情が甦って憤る。うっわ、すっげ悔しい…!
あの人は天使なんかじゃねぇ、天性の詐欺師だ。
なんて喚いても「騙される方が馬鹿なんだよ馬ー鹿」ってタバコの煙人に吹き掛けて笑いながら言うよ絶対これ絶対だね。
はぁ。俺は溜め息をついて肩を落とす。
怒ったり落ち込んだり、忙しいな俺。きっと先生が側にいたら、動物でも見るような距離のある目で俺を見るんだよ。これも絶対。こんなに先生の行動読めるのになんで騙されたかな俺はもう…!
見上げた空は夏の名残がだいぶ薄くなってて、あぁもう冬が来ると思う。
先生のいない屋上は、何故だかすごく広く感じた。



どんなに年を重ねても、きっと俺は先生の前じゃガキで。余裕ぶった大人のフリなんて出来ないんだろう。それでもいいけど、俺がもっと大人だったら、きっと先生とも釣り合えたよなんて、俺の傲慢かな。