三学期、二月にもなれば3年は受験で学校こねぇし、単純計算で三分の一生徒が減った学校は一、二学期に比べて些か静かなのは否めなかった。
ぺったぺった、いつだったか高杉にやる気がないと言われた足音を響かせながら3年がいないせいで人気のない廊下を俺は歩いていた。
ふと、高杉が立っているのが見えた。何してんだ。後ろからではイマイチ様子がわからない。
少し身じろぐことなくぽつんと立っている姿、頭が向いている方向から高杉が何を見ているのか想像する。
窓があった。廊下の窓。一つだけ開け放たれて、冷たい空気を廊下に垂れ流している。誰が開けたのか、何故開いているのかなんて知る由もないし、別に俺にとっちゃどうでもいいことで、ただ寒いんだから閉めろよ位にしか思わなかった。
不意に高杉の身体が傾く。ふらりと揺れて、壁に手を付いていた。そのまま崩れ落ちそうになっているのを耐えているのが目に見えて、俺は純粋に心配して近づいた。
だってそりゃ目の前に倒れそうになってる奴がいるんだよ。顔見れねぇから実際どんな様子かイマイチわかんねぇけど。頭でも痛いのか、白い手はこめかみの辺りを押さえてるのは分かった。
そりゃ見ず知らずの人、万人に手を差し延べるかって言われたらそこまで善人でも聖人でもねぇ俺かもだけど、一応知り合いで同僚でそいつがそんなんなってたら気にするっつの。
廊下に足音を響かせて、俺は距離を詰めた。高杉の、薄めの肩に手を伸ばす。
前に高杉が言ったんだよ。
『後ろから声かけられたくらいでビビらねぇよ』
だから俺は。
「オイ」
高杉の視界の外から。
「大丈夫」
後ろから。
「か?」
高杉に触れた。



それは本当に一瞬の出来事だった。



高く鋭い音が響いた。俺の手がじわじわと痛みを訴えて俺は現状を理解する。あぁ、叩き落とされたんだ。
叩き落とされたのは高杉に触れた俺の右手。左手は顔面のすぐ側で高杉の拳を受け止めていた。
振り向いた高杉はきっとほとんど反射的に拳を繰り出してたんだろう。だって相手を確認してからじゃ有り得ない反応速度だった。
俺はそれを頬で受け止めなくて済んだけど、他の奴、例えば女生徒とかだったら危なかったんじゃないか。そんなことを頭のどっか冷静なとこで考えていた。
俺はただ、声をかけてその肩に触れただけ。それなのにいきなり殴り掛かられて正直めちゃビビった。あぁビビったよ、だってこいつの拳めちゃ速いんだもんよ。
でも、驚いてるのは高杉も同じだった。
いつも涼やかな目は丸く見開かれて、なんとも言えないいろんな感情がごちゃ混ぜになったような色をしていた。けれどそれはすぐに理性の灯を燈して俺を認識した。
「あ…」
薄く開かれた高杉の唇から声が洩れた。その唇は色を無くして少し震えていた。唇だけじゃない、紙のようなと言うに相応しい顔色だった。
「…悪い」
何か言おうとして、結局それしか出てこなかったようで高杉はそれだけ呟いて目をそらした。
「や、別に…」
俺もなんかもっとマシなことでも言えりゃいいのに、俺だって高杉の反応とかその顔色とかすげービックリして超ドキドキしてるわけで、そんな仕様もない返事しか出来なかった。
沈黙が落ちる。
高杉が壁にもたれ掛かって、俺から少し距離をとったのが分かったから、俺はつい擦り足でにじり寄って開いた分を埋めた。
高杉はじりじりと、なめくじとかよりも遅いくらいの速度で壁に身体を預けたまま背中を見せずに俺から離れようとする。
俺はそれを上回る速さでそれでも爪先を地面から離さずに距離を詰めた。
少しずつ縮まる間隔に最初高杉は気付いていなかったようだが、ふと俯いている視界に入った俺の爪先に気付いたんだろう。
ゆっくりと顔を上げた。けれど、視線は俺に向いていなかった。
「窓…」
「窓?」
高杉が見ていたのは少し離れたとこの、開けっ放しの窓だった。
「閉めてきてくれねぇか」
「…あぁ」
突いたら倒れんじゃねーか、って様子の人間に自分でやれって言う程俺も鬼じゃないから頼まれた通り、俺は窓を閉めた。
二月の外気をたっぷりと浴びた窓枠は冷たかったけど、鍵も閉めておく。
そこまでして高杉を振り返れば、高杉はその場に座り込んでいた。その格好だけ見ればいつも外でタバコ吸ってるときと大差ねぇけど、今は様子が全然違うもんだから俺は側に言ってしゃがみ込んで真っ青通り越して真っ白な顔を覗き込んだ。
「オイ、大丈夫か」
「…あぁ…。なんでも、ねぇよ」
嘘つけ。んな顔してそんなこと言われてもちっとも信用度ねーし。
高杉の視線は揺れていた。混乱、しているってのが多分一番近い表現だろう。
恐らく現状は把握してんだろうが、なんかとにかく色んなもんが混ざっちまって収拾がつかなくなっちまってる。
俺何か悪いことしたか? 今さっきの自分の行動を振り返っても、なんも思い付かねぇ。
「保健室、連れてってやろうか」
「いい。気にすんな」
俺に構うなってオーラがめっちゃ出てっけど、これ此処に置き去りにしてなんかどうにかなったら俺すげぇ心が痛むと思うんだけど。
「………」
とりあえずしばし考えた俺は、高杉を外よりはマシだとはいえ冷たく寒い廊下に独りにしておくわけにはいくめぇと隣に座り込んだ。
「座るぞ」
一応高杉に一言かける。高杉は俺を横目で見たが、何も言わなかった。代わりに少しだけ距離をとる。もう俺は近づいたりはしなかった。
それ以上特別声をかけるでもなく、高杉が落ち着くのを待った。
高杉を視界の隅に入れる程度、あんまりガン見はしないようにする。
それでも高杉の指先が微かに震えているのに気がついて、気がついたら気になって。
俺は高杉に向き合って俺の手を高杉の目の前に突っ込んで意識をこの手に引き付ける。高杉の視線がちゃんと向けられたのを確認してから俺は言った。
「触るぞ、触るかんな」
くれぐれも言い聞かせて、返事は待たずに、高杉の視線が俺の手の動きに合わせて移動するのを確認しながら震えてる指先に触れた。
「おま、手ぇ冷てーな」
重ねた手は本当に冷たくて、溶けない氷みたいな温度だった。
「手が冷たい人は心が暖かいっつーけど、手が暖かい人の心はもっともっとあったけーから。俺が何言いたいかわかるか?」
「………」
俺の手に注がれていた視線が、少し上向いて俺をその瞳に閉じ込めた。
高杉の唇が少し開いて、また閉じた。そして再び開いた唇は小さく、それでも確かに音を紡いだ。
「…てめぇの手は、どっち付かずじゃねぇか…」
なんか生温い。
そう言って、高杉は微笑した。氷の手とは裏腹に、花が綻ぶような、そんな笑みで、それを見て俺もつられて笑っていた。
いつの間にか俺の僅かな熱は溶けだして、手の温度差は感じなくなっていた。



「もう大丈夫か」
「あぁ」
「そか」
廊下を歩きながら問えば、今度はしっかりとした返事が返ってきた。
顔色はまだ良くなかったけど、ちゃんと自分の足で立ってるから平気だろう。
俺らはずっと廊下にいたわけで、生徒が通り掛からなくて良かった。さっきまでは心配とかそんなんでいっぱいだった頭に余裕が出来ると、俺はそんなことを思った。
「でも、今日はもう帰った方がいいんじゃねぇの」
「………そうだな」
少し、いや、たっぷり間があったけどやけに素直な反応だ。やだ気持ち悪い。こいつやっぱまだ本調子じゃないよ帰った方がいいよ。
高杉はなんかなんとなく凛として、目なんか鋭めでちょっと無表情気味だけど笑うし怒るし割とわかりやすい。でもって時々浮かべる笑みは唇の端を少し吊り上げたすげぇシニカルな感じ、そんな奴だと思ってる。
きっと俺は高杉にそうあって欲しいと心のどっかで望んでいたんだろう。勝手に作り上げた偶像を高杉に押し付けていただけで、俺は高杉の何を知っていたんだろう。自問する。
「オイ」
「ん?」
職員室に戻り、帰り支度を整えた高杉にいきなり声をかけられた。
「いつでもいい。どっか、なんか食いに行きたいとことか探しとけ」
「は?」
「今日の、迷惑かけた分の詫びと礼だ。なんでもおごってやる」
「あー…、別に気にすんなよ」
別に俺なんもしてねぇし。けど高杉はそうは思わないようだった。
いつもと同じ表情、口調できっぱりと言い放つ。
「借りは返す主義だ」
下手に俺が遠慮し続けても高杉も食い下がるだけだ。こういうときは素直に受けておくに限る。
「あっそう。じゃあなんか目茶苦茶高いとこ探しとくわ」
「かまわねぇよ」
てめぇじゃとても入れねぇとこ探しとけよ?
そう笑った笑い方もいつも通り。
送ってやろうかと言ったけど高杉は大丈夫だと帰っていった。多分強がりでも遠慮でもなく、心配ももういらないだろう。
椅子に身体を預けて、無意識に詰めていた息を吐いた。
あれはなんだったんだろう。俺がいくら考えたって分かるわけもないのだが、取り留めもなく考える。
俺の手を弾いたあの時、無意識に拳を作るほど、高杉は何に怯えていた? 分からない、分からない。
けれどこれだけは言えた。
俺はあの時あの瞬間、高杉の内側の深い深い闇の底に確かに触れてしまったんだ。



もう、何も知らなかった頃には戻れねぇよ。