夕暮れの観覧車以降、高杉がなにかを語ることはなく、俺も尋ねることなく、まるで何事もなかったかのようにその件についても休みも終わり、2学期が始まった。 なんとなく分かったのは、あのパンダの中身が高杉にとって大切だったんだろうってことだった。 そしてその思いは、俺が気軽に踏み込んでいいもんじゃないことも。 会って約半年経った。同僚として働くようになって、他にも分かったことがある。 「なぁ、今度の会議のことなんだけどよ」 「………」 俺の言葉に高杉は黒い瞳を俺に向ける。その目はいつも通り涼やかっていうより冷ややかなもんだが、今日はなんだか訴えたいことがあるようだ。 今、此処は廊下だ。高杉の後ろ姿が見えたから俺はちょっと足を早めて、追い抜いて、振り向いて声をかけた。最近はずっとそうして声をかけている。 「…なんでてめぇはいちいち人の行く手を塞いでから声をかけてくんだよ」 退けと言外に伝えてくる。俺はちょいと横にどいて道を開けながらその問いのような文句に答えた。 「だっておめー、後ろから声かけられんの嫌だろ」 「………」 ビックリするから? さらりとそう言えば、高杉の目は何か言いたそうにしていたが結局何も言わずに俺が開けた道を歩きはじめた。俺はその隣を歩く。 この時言おうとしていた言葉を高杉が口にしたのは、それから大分経ってから。俺の用件が済んで職員室に入ろうというとき、俺の頭からすっかり抜けた頃だった。 「てめぇの足音はわかりやすいんだよ」 「は?」 「ぺったぺったぺったぺった、やる気ねぇサンダルの音。後ろから声かけられたくれぇでビビらねぇよ」 余計な気遣いされて、道を塞がれる方が迷惑だと切り捨てられた。 「そう?」 「あぁ」 「ふーん」 普段と変わらない口調のなか、何処か強がっているのが分かった。いつもなら人を睨み付けるみたいな鋭い目が向けられるのに今は少しばかり彷徨っている。けど、それをネチネチ弄っても仕方がないことだし、なんとなく触れてはいけないような気がして俺はそれでこのことを終わりにした。 この時点で高杉が自分のことを語るなんて有り得ないことだったし、俺が深く追及して何かが変わったともあまり思わない。 けどこの些細な強がりが、これから先の未来にとってそれなりに大きな影響を与えたと、この出来事から1年ちょっと、経ったときに思うようになる。 それからまた別の日。職員室で俺の場所がなくなっていた。 「………オーイ」 「なぁに、先生」 「なんスか」 睨み合っていた女子高生が俺の言葉に反応して振り向いた。その女子高生が座っているのが俺の席と、高杉の席だったりする。 「おまえら何しちゃってんの? そこどいてくんない? 高杉ももう戻ってくると思うんだけど」 「先生」 俺の席に座っている来島がキリッとした目で椅子に座ったまま俺を見上げた。 「先生はズルイっス!いつも高杉先生の隣に座れて。私も先生の隣がいいッス。だから席変わってください」 「おまえ馬鹿だろ」 真剣に言われた言葉が無理にも程があった。思わず本音がこぼれ落ちる。 いや、分かってんだよ。来島は頭いいんだよ。前はあんまり宜しくなかったけど、今年の来島は生まれ変わったように成績がいい。特に数学。全国で一桁ってどういうことよ。 驚く俺らを他所に高杉が「まぁ当然だな」って鼻で笑ったのを思い出す。 でも教師と席変われって馬鹿だろ。何、俺は来島のクラスの席に座ればいいの? 2年K組に行けばいいの? 高杉の席に座っている猿飛が笑う。 「何馬鹿なことを言ってるのかしら。そこは銀八先生の席。さっさと代わりなさい」 「じゃああんたもそこ退くッス。そもそも何高杉先生の席座ってるんスか!」 「此処は私の席になるの。銀八先生の隣は私のものよ」 「馬鹿言ってんじゃないッス!! っていうかそもそも私だって座るなら先生の席がいい!!」 「馬鹿とは何よ。私を詰っていいのは先生だけなのよ!!」 ぎゃあぎゃあと職員室ということも忘れて騒ぎ立てる馬鹿二人を前に、俺はどうしようかと途方に暮れかけた。 高杉の隣の万斉は我関せずで相変わらずヘッドフォンだし、どうすんだよコレマジで。 「なに騒いでんだ」 ひょっこりと俺の横から現れた高杉に、来島がぴたりと動きを止めた。 「先生!今日は数学教えてくれる約束っス!!」 「あぁ。で、なんでんなとこ座ってんだ。あっち行くぞ」 「ハイっ!!」 意地でも退こうとしなかった来島があっさりと腰をあげた。高杉が顎で示した職員室の隅、入口付近にある簡単な応接セットにいそいそと喜び勇んで向かっていく。 高杉は猿飛を特別気にすることもなく机から予め渡されていたと思われる問題の入ったクリアファイルを手にとると席を離れた。 去り際にちらりとだけ猿飛に目をやって俺を見る。 「そこ、俺が戻るまでに空けとけよ」 それだけ言って叱責することもなく来島の待つ席に向かった。俺はその後ろ姿を、猿飛と一緒に見つめた。 高杉は自分の領域を侵されるのが嫌いなタイプだと思ってたから、正直この反応は意外以外の何物でもなかった。 調子が狂うなと頬をかけば、少し離れていた猿飛がぴたりと寄り添ってきた。 「先生ってば何見てるの」 耳元で囁かれて鳥肌が立つ。 「おまえ何しにきてんの。来島は数学教わりに来たのはわかっけど。さっさと戻れよ受験生。俺が怒られるだろ」 「私も教わりに来たの」 そう言って何処からかノートと教科書を取り出す。…マジで今何処から出した? 「こんな問題も分からないのかって私を詰りなさいよ。このメス豚がって私を罵ればいいじゃない!」 「すいませーん、この娘チェンジで」 「ここは神聖な職員室でござる。SMプレイはご遠慮願おう」 「こんなときだけ口突っ込んでくんじゃねーよ!!」 万斉が入り込んで事態がめんどうなことになる。他の教師の苦情が飛んだ。 そんななかでも高杉は振り返りもしないし、来島も真剣な顔をして高杉の説明を聞いている。まるで別の世界のようだった。 「先生はああいうのが好みなの?」 また耳元で囁かれて鳥肌が立つ。こいつホントやめてほしい。 「は?」 「好みなの?」 「何言って…」 「素直にそういえばいいじゃない。いいわ。私をいくらでも変えなさいよ。髪だって望むなら金にでもするし、露出だって増やしても構わないの。いくらでも俺色に染めなさいよ!!」 「だからァ…」 あとはぐだぐだなやりとりの繰り返しなので、割、愛。 『ああいうのが好みなの?』 そう言われたとき、俺の視界に入って思い付いたのは来島じゃなく高杉だった。だったからすごいドキッとした。 普通に考えれば来島に決まってんのに。 猿飛が帰って、席に戻ってきた高杉をなんとなく見つめていたら俺の視線に気付いた高杉が俺を見た。 「? なんだよ」 「…別に?」 「………」 ウゼェー、みたいな表情をして高杉は顔をそらした。 うわウゼェー。その反応がウゼェー。 ケッと俺も顔を背けた。 やることはそれなりにある。やる気補充のため引き出しから飴を取り出して口に入れる。 袖を引かれる。寄越せという高杉からの合図だ。振り向かなくてもわかるほどに繰り返された行為だった。 この場合、万斉が高杉をつっついてるので、俺は無言で二つ高杉に飴を渡した。 礼は返って来ない。まぁいいけどね。倍返しにしてくれりゃあよ。 『ああいうのが好みなの?』 書類に視線を向けながら、猿飛の問いとその時映った高杉の斜めからの後ろ姿が、頭んなかで何度も何度も浮かんでは消え繰り返されていた。 |