夏休みに入り、部活生や補講、講習の生徒以外の姿を見ることはなくなったがそれでもそれなりに活気のある学校で、それは目撃された。
視線の先、見慣れた黒髪と白衣の組み合わせに意識を向ければそいつは誰かと話していた。
珍しい。高杉は職員室かどっか屋上以外のタバコ吸えるとこに引きこもっていて、廊下で立ち話なんて姿、滅多に見掛けない。
相手は誰だろう。気になって目を向ければ、それは男子生徒、沖田だった。
あいつは姉ちゃんもこの学校の卒業生だし、俺は男子部の授業も年によっては持つから知っているけど高杉に男子部の生徒と交流なんてないはずだ。
そう考えて高杉が夏休みだけ男子部の補講をやっているのを思い出した。下層の成績の寄せ集め対象の救済補講だったはずだ。
授業の質問でもしてんのかと思ったが教科書もノートもプリントも手にしていない。
何話しているんだろうなぁと思いながら職員室に入ろうとしたら会話を終えたらしい高杉が先に職員室に消えた。
残った沖田と目が合う。
「おや先生、奇遇ですねィ」
「職員室の前で話してて奇遇もなんもねぇだろ。おめーが先生と話してるなんて珍しいな」
「ちょっと顔見知りでしてねィ。久しぶりに会ったんで声かけたんでさァ」
「顔見知り?」
接点が見えなくて思わず問い掛ければ沖田はこくりと頷いて、「高杉先生はバイト先にいる大学生の思い人なんですぜ。その人は先生にそりゃあもうゾッコンでして」と声を潜めて言った。
ついでのように「ちなみにその人は先生の前の高校の教え子なんでさァ」と付け足した。
へぇ、あいつもストイックな顔してなかなかやるわけかい。
「で、去年先生がうちのバイト先に来たときちょっと話したんで、声をかけてみたわけでさァ」
「へーぇ」
沖田の言葉に相槌を打つ。こんときの俺はただ、あの済まし顔の高杉が生徒との禁断の恋だなんて、とかそんなワイドショーのネタみたいな話にニヤニヤしてるだけだった。
俺は、本当に何も知らなかった。いろんな意味で大事なことだからもっかい言うけど、本当に、何も知らなかった。
「あ、コレ先生にやりまさァ。バイト先のタダ券。折角だから高杉先生と来てくだせぇ」
差し出されたのは遊園地の入場券と乗り物券だった。
「男二人かよ。寒すぎんだろ」
「そんなこと言ってたら遊園地はカップルと家族連れに占拠されまさァ」
先生の元ストーカーみたいな変態紙一重の奴も見れますぜ、とやはりまた小声で付け足し、ニヤリと笑って沖田は去っていった。
いい玩具見つけたみたいな笑顔だ。あれの対象になってんのは多分その高杉の元ストーカーみたいな奴で、高杉じゃねぇな。高杉は多分そいつのとばっちりだろう。
にしてもストーカーか。酷い言い草だ。でも女子高生ストーカーはなかなかに厄介な存在だというのは身に染みて実感しているので少し同情した。あれはマジ、ねぇわ。
でも沖田がからかいたくなるってことは、高杉とその娘はなかなか上手くいってたってことか。ズリィ。
手のなかの紙切れを持て余しながら、俺は職員室の自分の席につく。隣では高杉がいつものように淡々と補習で使ったプリントの採点をしていた。
その横顔をニヤニヤと見つめていると俺の視線に気が付いた高杉が冷たい目を向けてきた。
「なんだ?気持ち悪ィ顔して」
「いやぁ?ただちょっと面白い話聞いて」
「そうかい」
興味なんてまるでないという風に高杉はまた答案に視線に戻った。俺が椅子に座ったままキャスターを利用して近付けば、高杉は手を止めないまま俺から距離を取れるだけ取った。俺はさらに距離を詰めるため身を乗り出す。
身体がえらく傾いた姿勢の耳元でさっき聞いた内容を囁いた。
「おまえも生徒に手ェ出すとか、済ました顔してやることやってんのね。いやらしい」
「………」
一瞬高杉の手が止まる。瞬きを一つしてこちらを向いた目は心底嫌そうだった。
顔面をわしづかみにされて無理矢理距離を作られる。
「何言ってんだてめぇ? 遂に脳まで天パったか」
「またまたー。で? 美人? 巨乳? あ、でもおまえ来島に興味ねぇもんな。もしかして清楚な大和撫子系が好み?」
「言ってろ変態」
「えぇー…ってゴメンナサイ悪ふざけが過ぎました」
顔面の手が外されたのと同時にまた距離を詰めようとしたら今度は顔面に赤ペンを突き付けられた。目がまた近付けば殺すと訴えていたので俺は手を挙げて身を引いた。それでも食い下がる。
「いいじゃん教えろよー。まぁ別に教えてくんなくてもその娘どんな娘か俺見に行けっけどー」
「は?」
いつもより間の抜けた、少し無防備な顔。なんだ、んな顔も出来んじゃんかよ。
俺は今さっきもらったタダ券をぴらりと見せ付ける。
「此処行けば会えちゃうんだろ?」
「…好きにしろよ、でも、男だぞ、そいつ」
「はい?」
さらりと言われた言葉を、脳は理解するのを拒んだ。
高杉の視線が俺から外れて、また採点に取り掛かってようやく理解した俺は思わず腰をあげた。
「ハァァアア?!」
「うるせぇな、マジでいっぺんそのクビ絞めんぞ」
目が冷たい。俺は首を竦めて腰を下ろした。
男って、なんだよ、それ。沖田のあのあくどい笑みの獲物は俺だったってわけか…。あのガキ…。
まぁ確かに女なんて言ってなかったわけだけどな。あーあ、つまんね。でも何よ、男の元ストーカーって、何ゾッコンって。意味わかんねぇんですけど。何処まで作り話?
がっくりと脱力して手足を投げ出した。ぎしりという椅子の悲鳴を無視して俺はうだうだと誰相手ということもなく小さく駄々をこねた。
気が済んでちらりと高杉を見遣る。
変わらない横顔がそこにあった。