6月になって毎日ジメジメじめじめ…。俺の天パは湿気を吸って可哀想なくらいもっさもさのクリンクリンで俺は毎日をイライラしながら過ごしていた。
湿気のせいでテスト用紙もよれよれでますますイライラする。わら半紙なんて使ってっからいけねーんだよ中性紙使わせろ中性紙。それによって状況が改善されんのかなんて知らねーがとりあえず胸の中で不満をぶちまける。
ギィと音を立てて座った隣の席の奴のことなんか気にもかけず、だがしかしそれから数瞬後にふわりと俺の鼻孔をくすぐった甘い香りに俺は顔をあげた。
「んん?」
俺の甘味センサーが反応した。誰かがなんかイイもん持ってる。辺りを見回していた俺はそんな挙動不審者の俺を見た高杉とうっかり目が合う。
無視されるかと思いきや、高杉は俺に問いかけてきた。
「どうした」
「んー…なんか、今…」
甘いもんが…そう言おうとして背後の万斉に気づく。下手なこと口にしたらまたなんか言われんな。気のせいだとかなんだ。
もう一度確かめるように鼻をならしてみたが匂いはもうしなかった。だから俺はなんでもないと首を振った。
「?」
不思議そうに高杉は俺を見ていたがまた手を止めていたテストの採点に戻った。
こいつも最初は俺のことなんざ完全無視だったのに少しは気にするようになったあたり、此処と俺に慣れてきてんのかな。
いっつも不機嫌そうに睨みつけてるのは単に目つきが悪いだけで怒っているわけではないらしい。
女子いわく、その澄ました目がいいんだそうだが俺にはわかんねぇと零せば大ブーイングを食らった。特に来島に。
とりあえず俺が言いたいのはこいつは第一印象ほど悪い奴じゃないんだろうなぁってこと。まぁ、んなことも別にどうでもいいんだけどよ。
話を戻して。
このとき俺が一体何に反応したのか、その正体が判明するのはそれから数日後、廊下で高杉とすれ違った時だった。



廊下を歩いていれば、高杉が向こうからやってくるのに気がついた。高杉も俺に気がついた。
きゅっと眉間にしわを寄せて目つきを悪くするのは視力がよくないからだと言っていた。今も目が細められる。
お互い気づいているのに無視するのもあれだから俺は手を挙げて見せたけれど、高杉はついと目を逸らした。無視ですか?無視なんですかコノヤロー。
広くはない、けれど狭くもない廊下ですれ違う瞬間、あの香りがした。
「あ」
「!」
無意識に声をあげていた。そして高杉の腕を掴んでいた。
高杉は酷く驚いたように目を丸くして、そして緊張した腕は俺にはとても不自然なもののように思えた。そんな反応されて俺の方が驚いた。
「…?…」
反射的に身構えるような態勢なのは俺が腕を掴んでいるからか。
動揺が連鎖するかのように俺は何一つ尋ねることができず、先に口を開いたのは高杉の方だった。
「何だよ」
「あー…ちょっと」
鼻をひくつかせながら仄かに漂う残滓を嗅ぎ取る。匂いをたどろうとすれば自然と高杉へと顔が近付いていった。
高杉はそんな俺から身を引きながら、俺が掴んでいる腕を小さく引いた。
「腕…」
「あぁ、悪ィ。別に痛くねぇだろ」
無理やり振り払おうとしない小さな仕草に俺は素直に手を離す。そんなに力は入れていなかったから、痛くはなかったと思う。
「そういう問題じゃねぇよ」
そう低く呟いた高杉の足元に俺は屈んだ。くんくんと鼻を鳴らしながら下から白衣の匂いを嗅いでいく。足、腰、胸、首筋、頭。
たどり終えて高杉に目を向ければキツイ眼差しが俺に向けられていた。
「近い」
「おまえ香水かなんか付けてる?」
「は?」
文句を無視して問いかける。俺はとても真剣で、多分真顔だった。
何を言っているのかと訝しげな眼をしている高杉に、俺はまた鼻を寄せる。
「こないだも思ったんだけど、なーんか、甘い匂いがすんだよなァ。どっかで嗅いだ気ィすんだけど」
「なんだそれ」
「や。なんかわかんなくて、何かと思ったんだけど、おまえからだわ。その匂い」
「…人を臭いの元みたいに言うな。近い」
「あぁ、悪ィ」
「………」
俺の言葉に拗ねたように眉を寄せながら、さっきから何度も繰り返されている文句を俺はやっと聞き入れて距離を取った。
別にそんなに嫌がらなくてもいいじゃねぇかと思うけど、多分傍から見たら俺がセクハラしてるとか思われそうだ。
離れてみせれば高杉はそれ以上の文句を口にすることなく、踵を返し去って行った。と思ったらふと足をとめた。
「あ…」
高杉が振り向く。
「あ?」
「おまえの言ってる匂いってこれだろ」
内ポケットから何かを取り出して、高杉は俺に向かって無造作に投げ出した。
弧を描き俺の手に収まったのは、見たことのない煙草の箱だった。
「あー、おまえ吸うんだっけ。見慣れねぇ銘柄だな」
「フレーバー煙草だからな。自販機とかコンビニじゃあんま見ねぇかもな」
「あ、これこれ。この匂いだわ」
納得して煙草を高杉に投げ返した。
「じゃあな」
もういいだろうと言わんばかりに立ち去る高杉に今度は俺が声をかける。
「あー、ちょい待ち待ち」
無視されるかと思ったが、高杉は足を止め振り返った。おや珍しい。
自分の煙草を取り出して高杉に見せる。
「ちょいと一服しに行こうぜ」
「行かねぇ。俺ァ他人の煙草の匂いってのが嫌いなんだ」
「じゃあそれくれよ」
顎と視線でモノを示せばそれを辿った高杉がポケットから先程の煙草を取り出した。
「…これ?」
「そう、それ」
「………」
高杉はしばしの間俺をじっと見つめてきたが、溜め息をひとつついて一歩踏み出した。



屋上に来た。
最初に会って以来、ここで高杉に会っていないから、きっと奴はほかの場所を見つけたのだろう。 俺はフェンスにもたれて高杉に手を差し出した。この手が何を求めているのか分からないほどぼけちゃいない高杉は懐の煙草を俺に投げ渡した。
「ん、さんきゅ」
少し強い風が吹いた。白衣のはためく音がする。手と身体で小さな火を守って煙草に移す。
「匂いは甘いけど、味は普通なんだな」
「悪かねぇだろ」
「ん」
俺は投げたりはせず手渡しで返した。受け取った高杉は自分も煙草をくわえて火をつけた。慣れた仕草と服に移るほどの香り、結構ヘビースモーカーなのかもしれない。
「学校はどうよ。続けられそう?」
「…なんだ、二者面談か?」
生徒に言うような台詞に高杉が鼻で笑う。何処か人を小馬鹿にした笑みだったが、なんだかそれが酷く似合っていた。
「いや、うち変わりもん多いらしいからさァ。結構先生の方がすぐ辞めちまうんだよな」
俺は別に居心地悪いとはおもわねーんだけど。まぁちょっとめんどくせーグラサンヘッドフォンとかいっけどな。
「まぁあんだけモテモテでちやほやされてりゃ悪い気しねーか。特にあの子、2年の来島とかおめーにメロメロじゃん。いいなぁー、俺も女子にキャアキャア言われてみてぇなぁー」
「てめぇこそ、3年の猿飛がてめぇにゾッコンだろ。羨ましいかぎりだ」
涼やかな目をして唇の端を少し釣り上げた笑みは職員室では見ないものだ。
初めて見る表情に俺はなんだか頬が緩みそうになるのを感じながもら、物凄く嫌そうな顔をした、と思う。
「馬鹿、おま、あれはストーカー一歩手前だからな。俺はもっとこうさァ…」
「生徒に不純な感情抱こうとしてんじゃねーよエロ教師」
くっ、と高杉が声を殺して笑う。少し楽しそうな、感情が滲んだ笑みだった。
「おまえ今俺のこと軽蔑したろ、しただろ」
「してねぇよ」
さらりと言われても、全然説得力がない。
「あぁそう」
まぁ別にいいけどね。そう思いながら俺は空を仰いだ。
会話が途切れ、風と白衣の靡く音だけが流れた。
隅に溜まっていた落ち葉が舞い上がって俺らを叩いた。疎ましくてそれを払いのけていると、高杉が煙草を携帯灰皿に押し付けて踵を返した。
「あ?もう戻んのかよ」
「あぁ」
そう言って白衣をたなびかせ俺に背を向ける。
「あ、ちょい待ち」
「―――」
高杉が振り向くよりも早く、俺は手を伸ばしていた。多分、俺の手は一瞬高杉の視界をふさいだと思う。
そのほんの一瞬の間だったけれど、高杉の表情から感情が消えた、ような気がした。
「葉っぱ」
付いてた、と指先に挟んだ枯れ葉を高杉に見せて落とした。ひらりと揺れながらそれはコンクリートの上に落ち着く。
高杉は感情のない瞳でそれを追っていた。
「あとチョークの粉、付いてんぞ。数学って板書多くてめんどくせーよなァ。今何やってんだ?」
髪についている白い粉も指先で払い落してやる。高杉は瞬きひとつせず先程の葉を見つめている。
「…Cは行列」
ぽつりと、小さな返事があった。俺がフェンスに凭れれば近くなった距離が少し離れた。
「あー、TAUBとか訳わかんねー区分があったっけかな。絶対ェさっぱりわかんねーわ」
「やらなきゃ忘れるもんだろ。俺は今更古典なんざ出来ねェ」
「だよなー。日本史とかもムリムリ」
立ち去ろうとしたハズの高杉は再びその場から離れようとはしなかったから、俺たちはなんとなく適当な話をしていた。
高杉はまた口元に笑みを浮かべていたけれど、先程までのものとは違う、少し歪な笑みだった。
高杉の視線が空の向こうに向けられる。俺もそちらに目をやった。
吹いてくる風に、夏の匂いがした気がした。