夜色のカーテンがうっすらと開ける頃、俺はそっと家を出た。 夜明けの世界はピンと張り詰めていて、なんとなく気持ちがいい。冷たい空気で肺を満たし吐き出せば白く凍り付いて視界が曇った。 「………」 今一度足を止め、もう二度と戻らないマンションを見上げた。 此処には何年住んだんだったか。数えようとしてやめた。めんどくせぇし、どうでもいいこった。 「………」 この鉄の箱に暮らす何千という住人のなかの一人、あの馬鹿はまだきっと寝てるだろう。俺が家を出る物音なんかで起きてやしない。爆睡してたから。 ついさっき、家を出る直前に見下ろした寝顔が脳裏に浮かぶ。 薄暗い部屋のなかで、口開けたマヌケ面を俺はぼんやりと見つめていた。こいつとは何年暮らしたんだったか。数えようとして、やはりやめた。数学教師なんざやってるが、数を数えるという行為が面倒臭くて仕方がない。 何年か一緒にいて、金時の寝顔をちゃんと見たのはこれが初めてだった。 こいつの部屋にしてやった此処に入ったことなどなかったし、一緒に寝るようになってもいつだって俺が先に寝てたように思う。 『ほら先生、目ェつむって。目ェ閉じてるだけで全然違うんだから』 触れるよ、と前置きしてからそう言って、あいつは毎夜俺の目を塞いだ。 冬でも暖かいあいつの手の温もりが溶け出して、俺の意識も輪郭を失う。閉じた目があいつの姿を映し出すわけもなく、俺は今日まであいつの寝顔を見たことがなかった。 健やかな寝顔、ガタイだって悪くないし人の背なんかとっくに追い越してる。年齢的にももう成人してるが、ガキみたいに警戒をしらないようなその顔に俺はなんだか胸が裂けるような心地がした。 俺は、此処を出て行かなくてはならない。俺が自分から言い出したのだから。けど。 「………」 俺はベッドの脇にしゃがみ込む。金時は目を覚まさない。俺はいまだ無防備なままの金時に、そっと、口づけた。 触れるだけのキス、最近は戯れにしてやらないこともなかったが、何時だったかこいつが寝てた俺にしたのと同じものをした。確か、近づくなって言ってあった時にこいつはしてきたように思う。 俺が気付いてねぇとでも思ってたか。敢えて知らんぷりしてやってたんだよ。意味?特にねぇよ。別に思う程不快じゃなかったから位だ。 けどまぁ、これで帳消しにしてやるよ。どうせこれで俺がおまえを見るのも最後だしな。 「……じゃあな」 眠る金時の前髪をかきあげるようにして額を撫でる。俺は立ち上がると金時の部屋を、家を後にした。 「………」 マンションに背を向けると頬を刺す空気を切り裂き足を進めた。 「いい加減何があったか聞かせてもらうぞ」 ヅラはほんの少し眉間にシワを寄せ、ソファで寛いでいた俺に詰問してきやがった。 やっぱ失敗だったな、こいつんところに行ったのは。そんなことを考えたのが顔に出たのかヅラは少々ヒステリックに俺の名を呼んだ。うるせぇな聞こえてるよ無視してんだよ。 今日のヅラの一日は俺が鳴らしたインターホンによって始められた。 寝起きの少しイラついた様子の対応だったが素直に家の鍵を開けたので俺はさっさと中に入り、持ってでた僅かな荷物を適当に置くと勝手にソファで一眠りした。 早起きは得意じゃねぇ。今日だって昨日から寝てないから活動出来てるようなもんだ。 正直、寝れるとも思ってなかったが目を閉じてたらまぁ眠れたらしい。携帯のアラーム音に目を覚まして学校に向かった。退職届を出すためだ。 校長は驚いてたが、まぁ代わりなんざすぐ見つけられるだろ。俺は学校を後にしてまたヅラの家に戻る。 ヅラも仕事に行ったらしく部屋はもぬけの殻だったが、別に家主の存在なんざどうでもいいから俺はまた寝そべってもう一眠り決め込んだ。 帰ってきたヅラは事情を説明しろと喧しいことこの上ない。 けどまぁこいつの怒鳴り声は慣れたもんなので俺は置いてあった新聞を読みながらタバコをふかす。 だがあんまりにもうるせぇから、仕方なく何か答えてやることにした。 新聞からは目を離さず、くわえていたタバコを指で挟むと溜め息のように煙を吐き出した。 ヅラはタバコなんざ吸わない。だからこの家に灰皿はないため、トンと携帯灰皿に伸びた灰を落とす。そして呟いてやった。 「…めんどくせぇ」 「高杉!」 それはヅラの更なる怒りを買ったらしく、一際大きい怒鳴り声に眉を寄せた俺がちらりとヅラを見遣れば、ヅラはそこに直れと床を指した。その指先に俺は目を向けたが、またすぐに新聞に視線を戻す。だがそれはヅラに乱暴に奪われた。新聞がヅラの手のなかでクシャクシャになる。 「………」 心底煩わしそうに唇を閉ざしながら、俺はヅラに目を向ける。それからまたタバコに火をつけ、長く息を吐いて煙が散るのを見届けると俺は言ってやった。 「家出てきた」 「は?」 「あの馬鹿が行く宛もねぇのに家出てくっつーから、行く宛がある俺が出てきた」 淡々と今に至る経緯を語ってやったのにヅラはしばし状況を掴み損ねたようで酷く無防備な表情を晒していた。全く、理解の遅い馬鹿は嫌いなんだよ。 「阿保面」 俺の冷めた声に我に返ったヅラは頭痛でも耐えるかのように顔をひそめた。 「なんだそれは」 「言った通りだ。本当理解悪ィな、そんなんで仕事になんのか?」 「理解ならしている。しているから聞いているんだ」 「あいつが俺に愛想尽かしたってことだろ」 素っ気なくそう言いながら、狡いなと我ながら思う。こんなのは金時を悪者にする言い方だ。本当はそんなんじゃないとわかっている。 あいつがどんな気持ちで家を出て行くと言い出したのかも、痛い程ちゃんとわかっている。 自力で立たなくては、しっかりしなければと思うほどに止まらないあいつへの心的依存。心の奥底、痛みを伴ってでも自由になりたがっていたのは俺の方だった。 「………」 「…大丈夫か?」 「あ?」 馬鹿みたく明るいあいつの笑顔を思い起こしていた俺はヅラの声に視線を上げた。 酷く神妙な顔をしてこちらを見ているヅラを見つめ返して、俺は冷めた笑顔を浮かべて見せた。 「なんてことねぇさ」 「………」 ヅラは黙り込んだまましばらく俺を見下ろしている。こんなとき、こいつが何考えてるのか俺は分からない。 ヅラは少し怒ってる表情のまま言った。 「行く宛は俺か」 「一先ずのはな。すぐまた家買うさ。仕事も探す」 「なら俺も新しい職場を探すことにしよう」 唐突なヅラの言葉に不覚にも俺は一瞬何を言われたか分からず、理解してすぐヅラに訝しげな目を向けた。そんな俺の視線などまるで気にせずにヅラは淡々と言葉を続け状況を進めて行く。 「家は、どうせならマンションじゃなく一戸建てを買おう。マンションは隣同士が開いてる可能性が低いし、わざわざおまえの様子を見に赴くのは面倒臭いしな」 「来なくていい」 「となるとやはり一戸建てだな。今流行りのシェアハウスというやつだ。待てよ、一戸建てだったら親戚の家が一つ空いていたな。どう処分するか考えていたはずだ。よし、そこを譲り受けることにしよう」 「オイ」 少し言葉を強めればぴたりと語るのをやめ、ヅラは俺を見た。 「なんだ」 「勝手に話進めてんじゃねぇよ」 「おまえが勝手なことばかりするからだろう。俺も勝手にさせてもらう。もう決めた。異議はきかん」 「………」 こうなっては何を言っても無駄だ。何年付き合ってもこいつが何を考えてんのかはわかんねぇが、わかるようになったことも僅かだがある。俺は無駄なことはしねぇ主義だからもう口を閉ざすことにした。 「して高杉、おまえ、荷物はそれだけか?」 ヅラはちらりと俺の持ってきた鞄に目をやった。 「あぁ」 印鑑、通帳、財布、携帯、そのくらいしか持ってこなかった。何もかも買い直せばいいだけの話だ。が、俺は買い直せないあるものに気がついて顔をしかめてソファにもたれ天を仰いだ。 「どうした」 「授業用のプリント、パソコンの中だ」 全学年分、めんどくせぇと思いながらもこれ作れば授業楽になると思って作ったというのに。作り直すのもめんどくせぇし、次の学校では授業しろってことか。チクショウ。 悔やむ俺にヅラはそんなものかと呆れた様子で何も言わなかったが、俺はもうひとつ、持ってくればよかったと思うもののことを考えていた。 写真位、持ってくればよかった。たった一枚だけ、あいつが卒業式の日に撮った二人の写真。 記憶というのは余りにも頼りないものだ。きっと俺のなかのあいつは月日によって形を変え、掠れていくのだろう。だからこそあいつという存在が刻まれたあの写真を持ってくればよかったと思う。 「………」 溜め息をついて、仕方がないと諦める。こんなにも迂闊だった自分が腹立たしい。 そんな俺の胸中など察しようともせず、ヅラは今日の夕飯をどうするかなどと聞いてきた。てめぇで考えろ。 その後勝手にヅラに話を進められ、結局一戸建てを共同の名義で安く買った。 リビングや台所、風呂トイレは共同だが個室は互いに不可侵で許可なく入ったりしないことなど、幾つかの決まりを設けヅラとの生活が始まった。 二階建ての分、俺が教職をとり教師になったばかりの頃、俺のマンションで暮らしてた頃より欝陶しくはない。 いつの間にかヅラも大学病院を辞めてやがり、近所の総合病院に勤めていた。 俺の方も新たな勤務先が決まる。 私立の女子高だ。正確に言えば共学だが、女子部と男子部が別れていて俺は女子部の教師になる。 最初から女子高に勤めればよかったのかもしれない。そうすれば馬鹿みたく生徒まで警戒することはなかったし、金時に会うこともなかった。 後悔しているわけでも、なかったことにしたいわけでもないが、あいつからしてみたら、きっと俺になど会わない方が幸せだったろう。 そんなことをぼんやりと考えながら俺は勤務開始日が来るのを待っていた。 この時の俺は、その女子高で俺の世界を変えていくことになる男に出会うことになろうとは夢にも思っていなかったのだった。 |