世界の人口は何十億だとか、そんなのは嘘だと金時は思っている。
この世界にはそんな沢山人はいない。金時、銀八、あとはその他多くのつまらないものでしかない。命じゃないとまでは言わないが、そんなものたちを自分と同じ人間だと思ったことはなかった。
他と自分、その境界を明確に感じているとき、世界にとってどちらを異質と見なすかは当人の感覚次第なのだろうが、金時はなんの疑いもなく躊躇いもなくその他大勢を異端とした。そうするのがまるで当たり前のことのように。
だがそれを金時にとって唯一自分と同じ人間である銀八が揺るがした。
痛い。そう言って泣く銀八を見たとき、金時は大事に大事にして可愛がっていた弟が違うもののように思えたのだった。
『痛いって、何?』
転んで擦りむいても、皮膚を切り血を見ても、タバコの火をわざと押し付けてみても、金時は何も感じない何も思わない。けれど銀八はそうではないらしい。
それを知った金時の感情はどろどろと薄ぐらいものが混ざり合い形を無くしていたけれど、それらを削り、清め、払い落とし、小さく小さくして残ったのは弟への親愛と、孤独感。



つまるところ寂しいんだ。



「高杉は、なんで俺の側にいんの?殴られんのって辛くて苦しいんでしょ。俺痛いってのはわかんないけど、苦しいってのはわかるよ」
「………」
指一本動かすのも気怠くて、高杉は横にしゃがみ込んで髪を撫でる金時の腕に視線だけ向けた。
さらさらと黒髪を指先に絡めてはすき通し、また同じことを繰り返しながら金時はさらに問いを重ねる。
「そんな息すんのも、生きるのもやっとなくらい痛め付けられて、それでもなんで俺の側にいんの。俺は高杉を縛り付けてなんかないのに。なぁ、なんで?」
「………」
髪をいじっていた指先が頬に触れる。それは酷く柔らかい動作だったけれど、些細な接触も今は高杉に痛みをもたらして顔をひそめればそれがまた連鎖的に痛みを生み出す悪循環。
ふと視線を感じて、高杉はそちらに目をやった。青い目と目があったら最後、逸らせはしなくて高杉は金時をその目に映した。
金時が何処か肩を落としたような普段の明るさが曇っている様子なのは良心の呵責などでは決してないことくらい高杉はわかっていて、それでも懸命に息を吸い込んで投げ掛けられた質問に答えようとした。



「――――」
がくりと傾いでいた身体のバランスを崩したことで高杉は目を覚ました。
一瞬今自分が置かれている状況を把握しそこなって視線を巡らせた。そこは何一つ変わっていない教室で、いや、黒板の文字が増えていたがそんなこと高杉にはどうでもいいことだった。そして馬鹿みたいだと自嘲する。
金時の家から銀八に「保護」されて1週間。現実で会えないからといって、まさか夢に見るとは。
「…ありえねぇ…」
呟いた高杉の言葉はあまりにも小さすぎて聞き止めたものはいない。
金時は今頃何をしているのだろう。高杉のことなんて忘れて、気の向くまま生きていることだけは確かだ。
金時にとって、高杉晋助という存在は視界にはいっていなければすぐに忘れ去られてしまうことくらい高杉はわかっていた。わかっていたから、側にいたのだ。忘れてほしくなどなかったから。
『なんで高杉は俺の側にいるの』
自分だけに向けられたその問いに、高杉は確かに何か答えたはずなのに、自分の言葉を何故だか全く思い出せはしなかった。



鼻歌混じりで金時は自宅のマンションのドアを開けた。
気の乗らなかったコラボ企画がやっと金時の手を離れ、肩の荷が下りたところだった。
金時は仕事もプライベートも自由に生きているように思われているが、仕事に関して言えば実際はそうではない。
自由気ままに服を作り散らかすだけだった金時に目をつけ、ビジネスにして名声と金を与えてくれた存在、神楽の言うことは割合よく聞く。今回の企画も神楽の命令で渋々行っていたのだった。
「んー、なぁ高杉ー、今日もう夕飯作っちゃった?」
リビングの扉を開けてそう言っても返事はない。
「…あれ?」
しんとした室内に金時は首を傾げた。
「高杉ー?」
高杉に貸している部屋の戸をノックもせず開けたがその中にも高杉はいなかった。
「…んん?」
どうしたのだろうと考えて、銀八のところにいるのを思い出した。
「あー…、そういやそうだった」
今の今まで仕事に手一杯で高杉がいないことを気にもとめてなかったのかと、銀八がこの場にいたらそう呆れただろうが、銀八はいないし、金時の頭はは他のことを考えていた。
何故自分は高杉がいると思ったのだろう。高杉なんて、総人口は自分と銀八ふたりだけの金時の世界において取るに足らないその他大勢の何かに過ぎないのに。
その他大勢の中にもカテゴリーはある。神楽、新八は仕事仲間でそれなりに重要で必要だと思っている。けど高杉はそのなかにも入らない。いなければ意識もしない。そんな存在なのに。
「ま、いないならいっか」
折角俺の機嫌がいいのに、いないなんて勿体ないな。
機嫌がいいときの金時はいろいろと羽振りがよくなる。なにかの授賞記念にもらった年代物のワインでも開け、それを高杉にも分けてあげようと思ったというのに。
高杉が今此処にいない原因を作り出したのは外ならぬ金時なのに、そんなことを思いながら金時は高杉の部屋の扉を閉めた。



「…金時のところに戻りたいとか、思ってたり?」
「………」
そんな問いに高杉は銀八に目を向けた。
銀八の視線には探ってやろうといった色はなく、ただシチューをすくい口に運ぶ高杉を見つめているだけだった。
「………」
高杉はしばらく手を止めて銀八を見つめていたが、何も言わずまた食べはじめた。
銀八はそれを咎めたてたりはせず、銀八もまた食事に口を付ける。居候だからと食事の支度をしたのは高杉で、なるほど金時のいうとおりまずいとは言わないが上手くはないなと銀八は思った。
口に出すことはしないが、金時はきっと馬鹿正直に感想を言ったのだろうと想像はつく。
『料理、下っ手くそだね。ないっしょ、コレ』
だが銀八には想像もつかない。恐らくそう言い放ったであろう金時の気持ちまでは。そして、この料理をそれでも食べていた理由も。
「…俺の料理、下手だとか思ってんだろ」
「え、や、思ってねぇけど」
銀八の方など見もせずにぼそりと呟かれた言葉は銀八の思考とシンクロしていて、ぎくりと銀八は乱れる内心を取り繕ったが高杉は気にもとめず続けた。
「今更下手な気ィ使うなよ。自覚してっし。金時にも毎日言われた」
そんな想像が当たっても嬉しくもなんともない。銀八は黙っていびつなにんじんを口に運ぶ。
「『ぶっちゃけまずいしレパートリーも少ないし、本でも買ってあげようか。もっと練習しなよ、此処にいるつもりなんでしょ』ってな」
「…で、練習してるわけだ。高杉は」
料理くらい作ると言い出したのは決してお手伝いをするというつもりではなく、ただ金時のところに戻ったとき少しでも料理が上達していたいがためかと銀八はそっと肩を竦める。
淡々と語る高杉の頬は腫れが引き、眼帯だけに戻っていたが、ぶつけたときに切ったらしい額のかさぶたが髪の隙間からまだ覗いている。手足もだいぶ薄くなったとはいえいまだにうっすらと痣が残っている。
銀八はそんな高杉から目を逸らし、少し焦げて茶色いクリームシチューに浮かぶ些か大きいジャガ芋をすくいながら言った。
「…金時は、自分の母親が作った料理すら食わなかったよ。あの頃はまだ微妙に常識があってさすがに母親に面と向かっては言わなかったけど、俺にこっそり言った。母親が作るもの、そんなの気持ち悪いってな。母親だけじゃない、手作りの類が大嫌いで、もらったものは笑顔で受けとっておきながら下手したらその娘の目の前で即ごみ箱。好意とか、そんなの全然意にも介さない奴なんだよ」
そんな奴が、高杉の、それも下手な手料理を食べ続けているなんて信じられない。
そう言ってから、銀八ははっと口を塞いだ。
これではまるで高杉は特別だと言っているようだ。金時にとって特別。実際はそんなことはないであろうに、こんな、期待をもたせるようなこと。
だが銀八の心配を他所に高杉は顔色ひとつ変えないまま皿の中身を空にし、腰をあげた。
「さすが弟。兄貴のこと、よくわかってんだな」
何処か厭味っぽい、だが本当は厭味でもなんでもない言葉に銀八は溜め息をついて空になった皿にスプーンを投げ出した。
「実際、あいつの考えなんざ俺にゃさっぱりわかんねぇっつかわかりたくもねーけど、…まぁ、他の奴らよりは、わかってんじゃねえかな」
その言葉に嘘はない。銀八はそう思っている。
流しに立ち、皿にへばりついたシチューの残滓を流し落としながら高杉が銀八の家に来て初めて、小さく笑った。
「羨ましいな…」
その呟きはともすれば蛇口から流れる水音に紛れてしまいそうなものであったが、銀八の耳には確かに届き、銀八は少し眉を寄せると同じように呟いた。
「そんないいもんじゃねーよ、あいつの弟なんて」
携帯内蔵の着信音が鳴り響く。二人の視線が音源に向いた。それは高杉の携帯で、高杉は水を止めるとタオルで適当に手を拭き携帯をとった。
発信相手を見て小さく目を見開く。
それからぱたぱたと洗面所に消えた。2DKの銀八のアパートには高杉用の部屋はない。銀八はそれを見送った。その高杉の態度ひとつで誰からの電話かなど、嫌という程わかっていた。
高杉は大きく深呼吸をすると通話ボタンを押した。
「…もしもし…」
声を搾り出す。電話の向こうにいる相手はなんの挨拶もなくきっぱりと言った。



『遅いよ』