「ただいまー」
「…おかえり」
珍しく帰りの遅かった金時に、キッチンにいた高杉はちらりと金時に視線を向けたが金時はそれ以上何かを言う風でもなくただテレビのチャンネルを適当に回している。
だから高杉から尋ねることにした。
「今日は遅いんだな」
少し冷めた料理を温めなおそうと高杉は火をつけた。自分はもう食べてしまい、食洗機に自分の使った食器を入れたところだった。
「んー、ちょっとあってね。別にたいしたことじゃないんだけど、苛々したから仕事してたら時間経っちゃった」
「ふぅん…」
これまた珍しいことだ。金時は高杉を殴るけれど、それは苛立ちといった感情に任せたものではなく本当にただ純粋な探究心故の行為で、今まで高杉は金時が怒るのを見たことがなかった。
きっと金時にとってこの世界というのは怒るだけの価値すらないようなものなのだと高杉は漠然と感じていた。
「なぁ高杉」
「?」
呼び掛けられて、高杉は金時に目を向けたが呼び掛けた当の本人は高杉を見てはおらず、くるくると跳ねた金髪に覆われた後頭部を曝していた。
「銀八になんか言ったの?」
「…何も。銀八が、なんか言ったのか」
「何もー。けど、誰かに泣きつくくらいならさっさと出てって。別にいてくれなんて頼んだ覚え、ないから」
「………」
目も合わせないまま、突き放すように告げられた言葉に高杉は火を止めた。鍋の中身を皿によそうこともなくそっとキッチンから離れる。
リビングからも出て行こうと扉に手をかけたそのとき、一瞬立ち止まると呟いた。
「出てかねぇよ」
「………」
高杉の言葉に金時は返事をせず、高杉もまたそんなものは期待せず自分の部屋に戻る。
鍋のなかでせっかく宿った熱はまた刻々と失われていった。



「金時に何言った」
「何も言ってねぇけど」
「嘘ついてんじゃねぇぞ腐れ天パ」
「それ金時にも当て嵌まるからな」
「今はあいつの話してねぇんだよ」
翌朝、珍しく近づいてきた高杉が怒りを込めて睨み付けているのに気づき銀八は舌打ちをした。
金時の奴、高杉に余計なことを言ったなと胸のなかで飄々とした実兄を罵りながら顔は平然として高杉に応じる。
「この怪我は喧嘩だっつっただろうが」
「じゃあ喧嘩相手はあの馬鹿だ。随分一方的にやられたんだなあいつ無傷じゃん」
「違う」
「あいつは認めたよ、自分がやったって」
既に破綻している嘘をつき続けるのはもう止めにしたらいいと言外に告げてやれば、高杉はぎゅっと唇を噛んでばつの悪そうな顔をしたが、それは嘘をついたことに対するものなどでは決してないのだろうということくらい銀八にもわかっている。
「…おまえにあいつ会わせた俺が言うことじゃないけどさ、あいつはまともじゃねーんだよ。人を人だと思ってない。あんな奴見限って、離れた方が無難だとセンセーは思うけど」
「急にセンセーぶってんじゃねーよ、てめぇには関係ねぇ」
「俺も関係ないって思いたいんだけどね。これ以上俺の後悔が膨らむ前に、現状を改善してもらいたいんだよな」
「………」
金時と銀八、二人の声はよく似ていて銀八から目を逸らして声だけ聞いていると高杉はまるで金時に言われているような錯覚に陥る。
噛んだ唇に力を込めて、今一度銀八を睨み付け高杉は告げた。
「俺は出てかねぇ。あいつにいるなとは言われてねぇ」
だからもう口をだすなと高杉はそれ以上の会話を打ち切った。
まだ少し足を引きずる姿を見送って、銀八は溜め息をついて空を仰いだ。



ちょっとミラノに行ってくるから。
いきなりそう言い出して1週間家を空にしたかと思えば、帰ってきた金時は何故だが難しい顔をして、帰宅の挨拶もそこそこに高杉を壁に叩きつけた。
何度も何度も容赦なく蹴られた腹は悲鳴をあげていて、肺のなかの空気などとっくに押し出されてしまっていたが新たな空気を吸い込む暇などなかった。
やっと止まった衝撃に、高杉は咳き込んで足りない酸素を貪った。
殴られた頬は内側が切れ、咳き込んだ際飛んだ飛沫に血の色が混じる。
「なーんか、案外すっきりしないもんなんだね、八つ当たりって」
「…っ!!」
丸まっている高杉の肋に足を乗せ、圧を加えながらつまらなそうに金時は呟いた。
なんだかどうにも先日からの苛立ちが収まらないから八つ当たりをしてみようと思う。
そんな前置きで今日の暴行は始まった。いつになく荒々しい行為に、高杉は初めて殺されるかもしれない、そう思った。
不思議なことに、今までは痛くとも苦しくとも、命の危険を感じたことはなかった。だが今日は違う。
今日はヤバイと、頭が、軋む肋が高杉に明確に告げる。だが、だからといってどうしようもなかった。
やり返すべきなのかもしれない。身を守るべきかもしれない。
だがきっと殴り返したところで金時にはなんでもないことであるし、何よりも高杉は金時の右腕を、様々なデザインを書き出すその手を、高杉の心を掴んで離さないデザインを生み出す彼自身を傷付けることを酷く恐れていた。それこそ自分の身が傷つくことよりもだ。
「ねぇ聞いてる?」
「痛っ…!」
金時の言葉は高杉の耳を素通りしていて、そのことに焦れた金時は足で高杉の肩を押し仰向かせるとしゃがみ込んで床に流れようとする黒髪を掴みあげた。
「な…、んだ…よ…?」
「………まぁいっか」
素直に聞いていなかったと言えば金時は少し唇を尖らせて考えるようなそぶりを見せたが、やがて興味をなくしたように手を離した。
支えを無くした高杉の上体は床に崩れ、頭をしたたかに打ち付けることになる。
「なんか眠くなってきたし、もう寝よっかな。今何時ィ?」
そう独り言のように金時は呟き、時計を探して視線を部屋に巡らせたが実際何時であるかはどうでもいいようで確かめようとはせずソファに横になった。
金時の気晴らしとやらはどうやら終わったようで、高杉は身体に鞭打ち上体を起こした。
口に溜まった鉄の味が気管に入り込み、またも咳込めば酷く肋骨が痛む。折れてはいないと思うが、どうだろう。よくわからない。
動くのももう億劫で、高杉は今一度そのまま床に横になり眠りについた。



全身を包む痛みは治まることを知らぬまま朝を迎えたが、高杉は半ば追い出されるように家を出た。
学生の仕事は勉強でしょ。深夜のことなんてまるでなかったかのように金時は笑い、高杉を外に出し扉を閉めた。
仕方なく行った学校では、予想通りの桂の反応に閉口する。ただ予想外だったのが銀八の反応だった。
銀八は感情をあらわにはしなかったがなんだか酷く怒っているようで、有無を言わさず馴染みの病院に連れていかれ、診断を受けさせられた。
肋にひびが入っていると聞くときっぱりと高杉に告げた。
「金時のとこには、帰さねぇから」
「…は?」
山ほど湿布を渡され、これでしばらく湿布には困らないなとそんなことを考えていた高杉は銀八の言葉に少し目を丸くした。
だが銀八はそんな高杉に構いもせず話を進めていく。
「とりあえず自宅帰れ。それが嫌なら、まぁ、うちでもいいけど。とにかく金時のとこには帰さない」
「何勝手に…」
「話は付けとくから心配すんなって」
「銀八!」
そんなことを言っているのではないと思いを込めて叫ぶように名を呼べば、骨が軋み痛みを覚えた。
高杉の必死の声に振り向いた銀八の目は、今までにないくらい真剣で高杉はそれ以上の言葉を失った。
銀八のほうが先に口を開く。
「おまえ、金時を人殺しにでもしてぇの?」
「…な…」
「あいつはおまえの身なんて省みねぇよ。また気まぐれにおまえ殴って、そのひび入ってる肋折られたらどうすんの、あいつは気にしないでそれでもおまえのこと殴るよ。折れた骨が内臓傷つけて、肺でもやられたらおまえ死ぬんだよ。金時がおまえを殺すんだ」
「………」
「もっかい聞くけど」
おまえは金時を犯罪者にするつもり?
そう問われて、高杉は何も言えずただ銀八を揺れる瞳に映し続けていた。



『へぇ、ひび入ってんの。大変だねぇ。お大事にって伝えといて』
そう言った金時の声は銀八の電話越し、高杉にまで届いていた。
何処までも金時にとって、金時が行ったことであろうと高杉に纏わることは本当にどこまでも他人事にしかすぎないんだなとその口調から高杉は思い知る。
わかったはいたが、少しばかり寂しいと思うのは致し方ないことだろう。
「………」
慰めのつもりか、頭に乗せられた銀八の手を叩き落とし睨み付ければ銀八は肩を竦め、車の鍵を開けた。
扉を開け、高杉に乗るように促した。
流れる景色をぼんやりと見送っていると不意に銀八が口を開いた。
「…悪いな」
「?」
唐突の謝罪に高杉は銀八に目を向けたが、銀八の目は前を向いていて右折のため歩行者の有無を確認していた。
「あいつになんか、会わせなきゃよかった」
それが今という現実を作りだした全ての始まりで、結局銀八の後悔はそこにまで遡った。
そのことに対する弁解や言い訳は幾つか並べられたが銀八はそれ以上語らずに口を閉ざした。
街灯の明かりが銀八の目に入り込んで輝かせているのを高杉はじっと見つめていた。だがやがて目を逸らしまた窓の外に目を向けた。
「別に、おまえが謝ることじゃ、ねぇだろ」
「………」
そんな言葉に銀八は何故だか泣きたくなって、熱く痛くなる鼻に気づかないフリをしてハンドルをきった。