逃げてもいいよと金時は言った。此処にいる限り、自分は気まぐれに高杉を殴るから、と。
だから、逃げてもいいよと金時は言った。追い掛けて、捕まえたりはしないから、と。
それでも高杉が金時の側にいるのは外ならぬ高杉の意思だった。



結局予想通り、昼はろくなものが買えなかったけれど口のなかも切れて痛む今は飲み物だけで十分だった。
それでもやはり腹は空であることを切実に訴えててくる。
「高杉ー」
夕飯は何にしようかなどと考えていた高杉の耳に飛び込んだ自分を呼ぶ声に半ば無意識に高杉はそちらを向いた。それが金時のものとよく似ていたからというのもあるかもしれない。
視線の先、銀八が高杉を見つめていた。
「この後、職員室に来いなー。以上」
「………」
高杉が答えるより先に起立の号令がかかる。帰りのホームルームが終わり、掃除当番の生徒は掃除を始め、部活動のある者はそちらに向かう。
人々がそれぞれの目的を持って行動し始める中、高杉は鞄を掴むとだらだらと教室を出た。そして昇降口に向かう。
「職員室はそっちじゃねぇんだけど。もしかして高杉、方向音痴?」
「………」
後ろからした声に足を止め、精一杯不愉快そうに顔をしかめて振り返ってみせても睨まれた銀八は素知らぬ顔で面倒臭そうにサンダルを引きずらせながら高杉に近寄った。
「なんだよ」
「ちょっと話があんだけど。臨時二者面談」
「忙しいんだよ、またな」
「コラコラ」
顔を背けて立ち去ろうとする高杉の腕を掴み、銀八は引き止めた。瞬間、強張った身体に気づいたが、不機嫌そうな顔をしてなんでもないように振り返った高杉に、銀八は気づかなかったフリをして高杉に用件を伝えた。
「その傷、喧嘩したんだって?」
「だったらなんだよ」
「嘘だね、金時だろ」
「―――……」
銀八の目が酷く真剣で、高杉は口を開いたがなんの言葉も紡げずにいた。開いては閉じ、唇を噛み締めてを繰り返し、やっとのことでいびつな笑みを浮かべ銀八に言った。
「違ェよ。なんだそれ、バッカじゃねぇの」
鼻で笑う高杉を銀八はしばらく見つめていたが、そう、と瞬きをして無造作にその銀髪を掻き混ぜた。
「ならそれはそれでいいけど。…や、よくねぇな。喧嘩も程ほどにな。弱いなら買わないの」
「弱くねぇよ。返り討ちだ」
「ホントに強い奴は喧嘩なんか買わねーんだよ」
ぽんっと高杉の頭を軽く叩き、銀八は立ち去っていく。
高杉はしばらくそれを憮然とした表情で見つめていたが、やがてその場を後にした。



「違うんだよなー、これはこれで悪くないんだけど、もっとさぁ、映える色とか使えねぇの?無難なの作れって言ってんじゃないんだよ俺はさ」
デザインを持ってきた部下にその画を突き返す。他人色に染まりたくなんかない、既製服なんてごめんだと自分でデザインし服を作りはじめたらなんだかヒットしてしまい、今や部下も多数抱える立派なブランドの主に金時はなっていた。
今のはつまらないデザインではなかったが色が気に食わなかった。部下が去って気晴らしもかねて自分もデザインを書こうと机に向かえば携帯が鳴る。
無視を決め込もうと思ったがちらりと見てサブディスプレイに浮かんだ名前に気が変わる。
直ぐさま携帯をとると通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし?俺だけど』
「うん、珍しいね。おまえが電話かけてくるなんて」
上機嫌に椅子を回して電話に答える。金時にとっては可愛い弟である銀八からだった。
金時は銀八を可愛がっているのに、銀八の方はあまり金時を好いてはいないようでたいてい素っ気ない反応が返ってくるし、電話なんて滅多にかけてこない。
最後に銀八から電話がかかってきたのは、そうだ、会って欲しい子がいると高杉を紹介されたときだった。
『ちょっとな。なぁ、会って話したいことがあんだけど』
「いいよ。今?」
『…おまえ仕事は?』
「そんなんどうでもいいって。別にさー、机に座ってれば書けるもんじゃないし」
そう屈託もなく言い放つ金時に銀八が溜め息をついたのが電話越しにもわかったが金時はそんなこと気にもとめない。
近くの喫茶店を指定され、金時は電話を切ると鼻歌まじりにそこに向かった。
カランとドアについたベルが鳴る。店内を見回して、浮いている銀髪に頬を緩める。
「や。オヒサ」
「あぁ、悪いな。呼び出したりして」
「なにその他人行儀。俺ら兄弟じゃん」
ニコニコと笑みを絶やさない金時に対し、銀八は何処か神妙な顔をして食べかけのパフェをスプーンですくった。
「で、話って何?」
「高杉のことだけど」
「高杉?」
細められていた金時の目が、キョトンと丸くなる。が、すぐに思い当たったようで、あーと正解を導き出せた子供のようにまた笑った。
今一瞬本気で高杉が誰のことか金時はわからなかったのだろう。一緒に暮らしているというのにだ。銀八は金時のこういうところが信じられないとげんなりする。
「高杉が何?」
「高杉の怪我、おまえだろ」
彼は違うと言ったけれど、そんな言葉信じられるはずもなかった。
金時は笑みを浮かべたまま、あっさりと肯定した。
「そうだよ」
それがどうかしたかと悪びれる様子もなく言ってのける様は本気で自分の行為をなんとも思っていないことを示していた。
それがまた銀八を苛立たせる。
「あいつ、俺の生徒なんだけど」
「それが何?」
「なんであんなことしてんだよ。確かにあいつは可愛いげがねーとこあるけど、だからってあんなに暴力振るっていいと思ってんのかよ」
銀八の怒りを肌で感じ取ったのだろう。金時の目から愉悦が消える。それでも口許には笑みをたたえたまま、金時は静かに銀八に尋ねた。
「…何怒ってんの?何、高杉がおまえに泣きついたりした?」
「あいつはんなことしねぇよ。ただ俺が、あいつの担任として、おまえの弟として、おまえのしてることが許せねぇ」
「………」
銀八の言葉に、金時は溜め息をついた。まだその顔には笑みが張り付いているが、その目は氷のように冷たいものだった。
「なら、とっとと高杉俺ん家から連れ帰れば?おまえにぐだぐだ言われてまで別にいらねぇし、あんなの」
「だからおまえは…!」
なんで、そんな風に言うのだろう。そんな、人をものか何かのように。金時は何時だってそうだった。父親も、母親も、教師も友達も同級生も誰も彼も全てが金時にとってはどうでもいい存在でしかない。誰よりも金時が側においていた銀八にはそれがよくわかっていた。
わかっていたのに、何故自分は金時に高杉を会わせてしまったのだろう。そんな後悔が胸に押し寄せる。
「なぁ、銀八」
金時は冷めた目をしたまま、銀八に語りかけた。
「俺おまえのことすげぇ気に入ってるよ。だっておまえだけがこの世界で唯一俺と似たようなもんだもん。おんなじ父親と、母親を持つ、唯一無二の存在、それが俺にとってのおまえ」
他のものみんな違うから、自分とは違うから、同じものはないとわかっているから、だから似たような存在である銀八が愛しかった。
「だから俺なりにおまえのこと大事にしてきたつもりだったんだけど、つまんねぇことごちゃごちゃ言うなら、俺だって怒るよ?」
「…つまんねぇことじゃねぇよ、少なくとも俺にとっちゃな」
兄弟でこんな風に睨み合うことなんて今まで一度もなかった。金時の言うとおり、金時は銀八を可愛がって甘やかしていたからたいていのことはニコニコと許し受け入れ聞き流していたからだ。
そして、なんだと言ってもやはり、金時は銀八に甘い。
先に目を逸らすと拗ねたように溜め息をついた。
「なんでさぁ、高杉のことでおまえがそんな怒んの?なんで俺がおまえに怒られなきゃなんねーの?訳わかんねぇ」
そう唇を尖らせる金時を見据えて、銀八は答える。
「なんではこっちの台詞だよ。なんでおまえはそうなんだよ、なんでおまえは…」
感情が胸のなかに渦巻いて言葉にならない。国語教師失格だなと思いながらも苦々しく眉をよせて金時を睨みつけていれば、視線の先で金時が薄らと笑った。
「なんで?つまんない質問だな。答えは簡単さ」
すっと金時の視線が銀八に向けられて、浮かんでいる微笑が深くなる。
釣り上がっている唇が言葉を紡いだ。
「おまえの兄貴は頭オカシイんだよ」



たいした意義もなく金時が席を立ったことで終わった兄弟の対話に、銀八は一人席についたままタバコに火をつけた。
金時の言葉が蘇る。
『高杉のことだけどさ、俺にしては珍しく大事にしてると思うよ。だって俺が誰かの作った飯、それもすっげ下手なの食べるとか有り得ないだろ』
そう言った確かに金時は他人が作った食事を好まない性質の人間であった。母親の手料理すら拒絶して自分で作りはじめたのは何時の頃だったろう。
「………」
溜め息のように吐き出した煙が視界を曇らせる。
次いで金時のデザインが好きだと言った高杉を思い出した。
どうして金時に高杉を会わせてしまったのか、思い付く原因はその言葉が嬉しかったからかもしれないということくらいだった。
あんな奴でも、兄なのだ。デザインの部門ではその業績を讃えられ輝かしい名声を得ているらしいが、一公務員である銀八にとってそんなものはなんとなく凄いらしいものでしかなかった。
身近な人が、生徒が金時を認めてくれた。そんなことが嬉しくて、普段ならしないようなことに銀八を走らせたのかもしれない。
何度目かわからない溜め息をついて銀八はタバコを揉み消した。
そして金時が銀八の頼んだパフェだけの会計を既に済ませていたがために、レジに立ち寄ることもなくそのまま店を後にした。