殴られて腫れた頬に湿布を貼れば顔の左半分は元からしている眼帯と相俟って薄闇のなか白く浮き上がってしまい高杉は辟易した。
いくらなんでも目立ちすぎるかと貼ったばかりの湿布を剥がそうかとも思ったが、その下にある赤黒い皮膚を思い起こしてやめておいた。
見た目として、あんな色をした皮膚よりも目に痛いほどの白さの方がどちらかといえば好ましいだろう。
ちらりとソファに目をやればそこでは諸悪の根源がすやすやと寝息をたてていた。カーテンから差し込む微かな光を反射して煌めく金髪が金時が身じろぐたびに揺れている。
高杉の全身を包む痛みなど知らず眠る姿を見つめても、高杉の心に憎しみは湧いてこない。
諦めとは違う何かが胸の内には満ちていてそんなものが込み上げる隙間などなかった。
それゆえにただぼんやりと風景のように金時を見つめていた高杉だったが、やがてのろのろと立ち上がり鞄を拾い上げた。散々蹴られた足が軋んで、引きずって歩き玄関に向かう。
今日も学校だった。こんな有様では昼休みの熾烈な購買競争を勝ち抜く自信はない。予め昼食を調達しておいたほうが無難だろう。
そう思ってのことだった。
「もう行くの?」
突然聞こえた声に高杉は足を止めた。
「随分早いね。…まだ7時じゃん」
ゆっくりと振り向けばソファから伸びた手が携帯を机に戻していた。
先程から起きていた、わけではないだろう。きっと高杉の身支度する音で起きたのだ。
「飯、買いに行くから」
「そんなの購買で買えばいいよ。送ってったげる。8時に出りゃ間に合うっしょ」
8時に起こしてと言い残してまた眠りについた金時にもう何を言っても無駄だろう。
高杉は仕方なくまた空いているソファに戻った。今日の昼は売れ残りのなんだか普段なら絶対に買わない菓子パンの類か、下手したら飲み物だけだなとぼんやり思いながら、それよりも目先のことを考える。
気まぐれに金時は「送ってあげる」と口にするのだが、いざその時間になると気が変わっていて「やっぱ歩いていって」と折角間に合う時間に起きて準備も済ませていたのに遅刻させられることもある。
今日はどうかなと他人事のように思っていると、時間になり金時を起こせば金時は車の鍵と免許証の入った財布だけを持ち、高杉を部屋に置き去りにして出て行った。
どうやら気は変わっていないらしい。家の鍵を締めて追い掛けるが痛む足ではなめくじのようにのろのろと進むことしか出来ず、先に運転席にいる金時は唇を尖らせた。
「遅いよ」
「うるせぇよ」
全力疾走してきたと言えば遅いねとあっさり返される。高杉の言葉に気を悪くすることもなければ、日のしたに晒された痛ましい高杉の様子を目にして罪悪感にかられている様子もない。
特別会話もないまま街にそぐわない高級車は人々の視線を集めながらも校門の前で止まり、高杉を下ろした。
「いってらっしゃい」
「…行ってきます」
車内から窓を開けてにっこりと笑う金時にそう返し、高杉は足を引きずって教室に向かった。



きっかけはなんだったか、正直はっきりとは覚えていない。多分雑誌で見たのだと思う。
金時がデザインした服に一目で心を奪われ、見知らぬデザイナーに憧れを抱いた。
自分もこの人のように人を魅了する服を生み出せるようになりたいと思った。今思えば少々短絡的すぎだと鼻で笑いたくもなるが、そのときはそれで頭がいっぱいになっていた。
だから担任である銀八に進路相談で彼のようになりたいと告げたとき、銀八がその神のように奉った憧れの人の弟で、彼に会わせてくれると言ったのには今までダメ教師だと思っていた銀八が仏のように見えたものだ。
『君が銀八の教え子?俺に憧れてんだって?ふぅん、ありがとね』
そう言ってなつっこく笑う金時との初めての対面は、言いようもない感動を覚えた。今なら言える。それは、その笑顔の裏にあるものを何ひとつ知らずにいたがためだったと。



「高杉…!なんだ、その顔は!」
人の顔を一目見るなり頬を引き攣らせた桂に高杉の方がうんざりする。
「喧嘩だようるせぇな」
「また喧嘩だと?ついこの前もそう言っていたではないか。何故おまえはもっと平和的に生きられんのだ」
「絡まれんだから仕方ねぇだろ。うぜぇからあっち行けよ」
「高杉!」
母親特有のヒステリックさにも似た小言を右から左に聞き流しながら高杉はぼんやりと空を見上げる。
そういえば今度の新作のテーマは青空だと金時が言っていた。あの歪んだ思考回路で今頃どのような逸品を生み出しているのだろうと思いを馳せる。
「…高杉、おまえ本当に喧嘩か?」
トーンの変わった声に高杉は空から桂に目を向けた。
酷く神妙な顔をした桂が真っ直ぐな目をして高杉を見つめている。
その目を正面から受け止めて、高杉は唇を吊り上げた。
「喧嘩だよ」



うちに住む?俺はなんやかんや教えてあげられるほど凄い奴じゃないけど、俺のデザインとかなら幾らでも見せてあげれるよ。
そう金時が言ってくれたときは素直に嬉しかった。
神だと思っている人の側にいれることも、デザインを見せてくれて、側で学ばせてもらえることも。
住み込みの弟子兼居候でしかない高杉は家事全般を請け負うことになったが、最初のうちは全て金時がやっていた。料理も掃除も洗濯も。
金時は料理がとても上手くて、出来る人は何をやらせても出来るのだと、出来ないことなどきっとないのだ、この人はきっと完璧なのだと高杉のなかの金時の神格化は加速する。
それが壊れたのは、なんの前触れもない、なんでもない日常からだった。
「痛…っ」
「?どした?」
台所に立っていた高杉があげた声に金時は顔を向けた。
高杉は右手に包丁を握りしめたままで、左手を見つめていた。その指先には赤く血が滲んでいる。
「あー、切っちゃった?」
「ん…」
絆創膏何処やったっけと腰をあげる金時の後ろで高杉は傷口を水で洗い流した。
「はい」
「…サンキュ」
手渡した絆創膏を受け取り、顔を歪めてそれを傷口に貼る高杉を金時はじっと見つめていた。そして、子供のような無邪気さで静かに尋ねた。
「痛い?」
「痛ぇ」
「そう」
「………?」
痛みを訴える指先を金時にとられ、高杉は訝しげに金時を見た。金時の視線はなんの感情もにじませず、ただ血の染みた絆創膏の下にあるであろう高杉の傷口に注がれている。
その異様さに高杉は僅かな畏怖を覚え、手を引こうとした。だが金時にがっちりと捕らえられていてそれは叶わなかった。
「金時…?」
手を離せ、と言おうとした言葉は金時の声に掻き消される。
「高杉は『痛い』っての、わかるんだね」
「は…?」
何を言っているのかと、高杉の混乱は深まる。だがそんなことを金時は気にもかけず、慈しむように血の染みが広がる絆創膏をそっと撫でる。
軽くとも傷口に確かな刺激を与えられ、高杉は眉をひそめた。
金時は何処か遠くを見つめるような目をして絆創膏を撫でる指先に力を込めていく。
「ねぇ、『痛い』ってどんな感覚?そんな風に顔歪めて、どんな感じすんの?」
「金時…?何言って…」
「俺さァ」
そう呟いた瞬間に高杉が背筋を這う寒気に金時の手を振り払うのと金時の手が高杉の頬を叩くのは同時だった。
「痛いってのわかんないんだよね」
何が起こったのか、高杉は一瞬理解できなかった。だがじんわりと熱を持ち、痛みはじめる頬に叩かれたことを自覚し金時を睨み付ければ金時は高杉を叩いた自分の掌を見つめていた。
世間話のような口調で言葉を続ける。
「叩くっていうのはさ、叩かれた方だけじゃなく叩いた方も痛いらしいよ。本来は、ね。けど、俺には全然わかんないんだよね、そういうの」
ちらりと向けられた目が冷たくて、頭のなかで警鐘が鳴り響くのを高杉は感じていたが身体は逃げなければという高杉の意思に反し、ただじりじりと金時から僅かしか距離をとろうとしなかった。
目があって、金時が笑う。初めて会ったときのように。にっこりと人懐っこいそれが、今の高杉には恐ろしくて堪らなかった。
空を向いていた掌が握られる。そして金時はなんでもないことのように言った。
「今度はグーで殴ってみようか」
昔から人の持っているものが羨ましくなる性質なのだと散々痛め付けられ床に転がされている高杉に金時は告げた。
自分だけが持っていない痛みの感覚。身体だけではない、心が痛むというのもよくわからないのだと彼は言う。
いくら腕を切ってみても、タバコの火を押し付けてみても、傷は出来るけれどただそれだけで終わる。最近の金時はもう肉体的な痛みを感じることを諦め始めていた。
「だからさ」
「っ…!!」
髪を掴み上げて高杉と無理矢理目を合わせた。痛みに顔を歪ませる高杉とは対照的に、金時は変わらない笑顔のまま言った。
「高杉のこと虐めてたら、いつか、心が痛んだりするのかな」
そんな日が来たら、もうこんなことしないって誓うよ。



そしてそんな日が来る目途は、いまだ立っていない。