坂田金時には匂いがない。
前から後ろから抱きしめられたときにふわりと香るのはいつも作られた匂いだ。尚且つそれがいつも違うものだから、高杉は金時を掴みきれずにいる。
金時の部屋で無造作に並べられた銘柄を見て真似して買ってみても、他の日、金時はもう別の香りを身に纏っている。そうしてまた殆ど使われない香水の瓶が高杉の部屋に増えていくのだった。
「今日もまた違う匂いなんだね」
高杉を抱きしめながら金時が言う。
てめぇこそ、という言葉を高杉は音にしなかった。代わりに擦り寄って自分の匂いを金時に、金時の香りを自分に移すことを試みる。
頬に額に服が擦れるのを感じながらこんなことをしても無駄だと高杉は思っていた。服についたところで洗濯すれば落ちてしまう。代わりに洗剤の匂い、洗い立ての真っさらな香りがつく。それもまた人工のものに上書きされてしまうだけなのだが。
金時は高杉を抱きしめる。好きだよ、愛してると囁いて頬に、額に、瞼に唇、いろいろなところに口づける。
けれど高杉は自分から金時に腕を伸ばしたりはしない。己を包む温もりを拒絶こそしないが、決して高杉から金時を抱きしめることはなかった。
そんな高杉が自らの意志で金時の背中に手を伸ばすときがある。
風呂から出てベッドに戻ってくる、無防備な素肌に指先を這わせた。高杉は気怠い体を起こすと、掌を滑らせて首筋の金髪を持ち上げて白いうなじをあらわにさせる。
「何?」
「………」
声帯が震えても喉と違い震えることのないそこに、高杉は額を寄せた。
鼻で深く息を吸う。薄く開いた唇から吐き出した息がくすぐったかったのか、金時は身をよじって少し笑った。
「ホントに何だよ。何、もっかいすんの? 俺は別にいいけど? 風呂入っちまったけど」
「しねぇよ、ふざけろ」
「あっそ」
金時は振り向きもせずに高杉の好きなようにさせていた。額をでこぼことした骨の継ぎ目に押し付けていた高杉が顔をあげて今度は顎を押し付ける。
鼻先を髪の生え際に寄せてみても、自分からもしているであろうシャンプーが香るだけだ。そして拭いきれなかった雫が高杉の鼻先に乗っただけだった。
(やっぱ、なんの匂いもしやしねぇ…)
動物のように鼻をひくつかせても、高杉が感じられる金時の存在は何処にもなかった。いつだって金時は金時でないものに包まれていて、今この指先が触れているものも本物なのかと疑いたくなってくる。
「………」
「…ぷ」
「?」
急に肩を震わせだした金時に、高杉の胸を今の今まで満たしていた感情は綺麗に霧散した。代わりに何事かと戸惑いが膨らんでいく。
ずっとなんの反応もなかった男が急に背中を丸めるようにして震え出したのだ。驚きもする。
「んだよ」
「いやだって、なァ?」
「意味わかんねぇ」
くつくつと肩を揺らしたまま、肩越しに振り返る愉快そうな瞳を高杉はじっと見つめた。
「高杉って匂いフェチ?」
「は?」
「しょっちゅう俺の匂い嗅いでる。女の人の匂いすると何も言わないくせに怒ってるし。でもって俺の香水真似してる」
「!」
気づいてないとでも思った?
楽しそうに言われて高杉は丸くした目を縁取る睫毛を震わせる。何か言おうと唇を開くがなんの言葉も紡げないまま開閉を繰り返し、結局閉じた。
そんな高杉を金時はニヤニヤと少し意地の悪い笑みを浮かべながら見ていたが、おもむろに高杉と向き合い閉じられた唇に口づけて薄い体をゆっくりとベッドへ押し倒した。
「香水ってさ、体温とか体臭で変化すっから同じの付けても同じ匂いにはなんねぇんだって」
「………」
「だからもう、高杉は香水なんてつけなくていいよ」
俺の匂いを付けるから。
そう言われて思いきり抱きしめられた。額を首筋に擦り付けてくる様は大型犬を思わせて、高杉は自由な手で湿った金髪を撫でてみた。
捕まれて指先を舐められる。本当に犬のようだ。
「マーキングかよ」
くつくつと肩を揺らして笑えば、高杉の上に影を落としている男は唇を吊り上げて見せた。
「お望みならいくらでもしてやるけど?」
それが酷く雄的で、人間もやっぱり所詮動物なんだなぁと高杉はぼんやりと思った。なんてチープな考えなのだろうとも。けれど他に思いつきようもなくて、どうでもいいかと腕を伸ばして少し逞しい首に絡ませ引き寄せた。
抱き寄せた頭に鼻を寄せて息を吸い込めばやはりシャンプーの匂いしかしない。
『俺の匂いを付けるから』
つい先程聞いた言葉を思い出す。
(付ける匂いもねーくせに…)
いくら擦り寄られても、きっと金時は自分に何も残しはしないのだろう。優しいキスを降らせる唇も、自分の肌になんの痕跡も残さない。
いつか金時は高杉に言った。
『本当はものすげぇキスマーク付けて俺のです手を出さないでくださいっていうか手ェ出したらぶっ殺すぞコルァ的な独占欲丸出しなことしてぇけど、学校、体育とかあるのに、困るだろ』
高杉のためと彼は言ったけれど、その真意など高杉にはわからない。
金時は、高杉に、何も残さない。それだけが二人の確かな現実だった。
(嘘吐き、っつったらこいつどんな反応すっかな…)
そんなことを考えながらただシャンプーの匂いを吸っては吐いていたが、また不意に金時が笑ったので抱きしめる力を緩めて金時を見た。
「高杉、犬みてぇ」
小型犬? チワワ? 黒いチワワ?
金時はそんな言葉を並べると、なにが面白いのか目に涙をためてずっと小さく震え続けている。時折洩れる殺しきれなかった笑い声に、高杉は自分の心が急速に冷えていくのを感じながら、自分も思った言葉を吐き出した。
「犬はてめぇだろ、躾のなってねぇ大型犬野郎が」
そのうち俺んだってしっかり首輪をつけて、ついでに去勢してやるよ。
そう言い放つと高杉は次の瞬間にはもう別のことを考え始めていた。
とりあえずもう香水を増やすのはやめよう。そう思った。
(何も残さない貴方がいつか消えてしまったら)
(きっと俺は忘れてしまう、おまえに関する何もかも)
(それがおまえの望みなの?)