それはまだ何千という蝉の声がワンワンと鳴り響いているような、暑い時期の話である。
「じゃ、ババァとかの言うことよく聞いて、迷惑かけんじゃねーぞ」
「大丈夫、心配ないネ。私を誰だと思ってるアルか。銀ちゃんは泥舟に乗ってつもりで安心してイイヨ」
「いやそれ全然安心できねーから。大船な」
銀時の言葉に、胸を張った神楽はすねたように唇をとがらせて見せたが、段々とその表情に迷いの色を浮かべてみせた。何か言おうとしたのか薄く開いた唇を、何の言葉も紡がないまま噛みしめる。神楽のそんな顔を見、その胸中を察するに銀時も心が痛まないわけではなかったが、言葉はかけずにただ桃色の髪に手を乗せるにとどめた。ぽんぽんと頭を叩かれて、その弾みで神楽は一度飲み込んだであろう言葉をついに吐き出した。
「銀ちゃん、本当に行っちゃうアルカ」
「おう」
「戻ってくるよネ?」
「…たり前だろ」
即答出来ずに間が空いた。一瞬の空白に神楽も気づいていたであろうが、神楽はそれ以上何も言うことはなく、明るい笑みを作ってみせた。
安心して、心配しないで。言葉になっていない気持ちをくみ取って、銀時も笑う。
「必ず戻ってくるからよ」
そう云って神楽の頭を撫でれば、神楽は少し泣きそうに目を細めてみせた。そんな顔をさせてしまって、銀時の胸も痛む。けれど、銀時は旅立たねばならないのだ。この街で手に入れたすべてを此処に残したまま、この場を離れなくてはならない。
「銀さん、これ、お弁当です。小腹が空いたら食べてください」
新八が小さな包みを差し出してくる。それを受け取って、銀時は礼を述べた。
「気をつけて。絶対戻ってきてくださいね」
「…おう、じゃ、よろしく頼むわ」
「はい」
子供だと思っていたけれど、いつの間にか一人前の男としての顔をしている新八に銀時の頬がほのかに緩む。それを受けて、新八もまた笑った。若干の強がりが混じっているのが分かる笑みだった。けれど、それに見て見ぬふりをしてやる程度に、銀時は新八を信頼していたし、それと同時にやはりまだまだ子どもであるとも思っていた。
「ホラ、これ持っていきな」
お登世が何かを銀時の胸元に押しつけてきた。受け取ってみればそれはなんの変哲もない封筒であったが、随分と厚みがある。中身はよく分からない。けれどきっと、現金だろうと直感した。そしてこれは、銀時が滞納していた家賃と、これからもまだ一応神楽が住むための家賃としてお登世に渡した札束の厚みよりもはるかに厚い。目で問えば、お登世は煙草の煙を長く吐き出し、仕方なさそうに云った。
「これからの旅路で、先立つものは必要だろう。持って行きな。これまでの滞納分の家賃と、これからの分は、また帰ってきたら払って貰うよ。あとは、ちょっとした小遣いさ。良い旅しなよ」
「ババア…」
必ず払う、必ず返すと約束をする。果たせない約束は好きじゃない。慣れ親しんだ人たちにしばしの別れを告げて、銀時は足下に置いていた大きめの鞄一つを持って歩き出した。先に待たせている男、高杉の元へと歩いて行った。
人通りのない裏路地で、高杉は笠をかぶり大人しく待っていた。高杉は常の艶やかな着物ではなく、落ち着いた色合いの着物の袖を風に揺らしながら、一処に視線を落ち着かせている。銀時が来たことに気づいているだろう。けれど銀時に目を向けないまま、眩しいわけではないだろうに、それでも目を細め、唇の端をつり上げながら高杉は云った。
「見ろよ、あんなところで蝉が鳴いてらァ」
言われて銀時はその視線を追った。高杉の言うあんなところとは、なんの変哲もない電柱のことだった。そこで確かに、一匹のアブラゼミが懸命に腹を震わせて鳴いている。
「世知辛い世の中だなァ。木がねーもんだから、人が作ったもんに留まるしかねぇ。蝉にとっちゃあさぞかし居心地が良い止まり木だろうよ」
皮肉に満ちた言葉に、銀時はしばらく黙って蝉を見つめていた。今時、電柱に留まる蝉など珍しくも何ともない。民家に留まって鳴いている蝉だっている位だ。
林立する木々に留まって蝉が大合唱を繰り広げている、そんな光景など、今や記憶の中にしか存在しない。少なくとも、今二人が居るこの街には存在しないものだった。けれど銀時はあえてそれを口にすることなく、鳴き喚く蝉から目を、顔を逸らして高杉に声を掛けた。
「行くぞ」
「何処に」
簡単な言葉に、簡潔な問いで返される。今の今まで、銀時は高杉に対してなんの説明もしていなかった。銀時に説明する気もなかったし、高杉もなにも問いかけてこなかったからだ。今になって向けられた問いに対し、銀時はどこか投げやりに答えを返した。
「少なくとも此処じゃねぇ何処かにだよ」
仮にも高杉は指名手配犯だ。そんな男を匿っているのが知れたら、銀時だけでなく子供たちや大家のお登世達にも迷惑がかかるに違いない。自分が抱え込んだ厄介ごとに、皆を巻き込むことなどあってはならない。それでも高杉と新しくこの街で出来た大切な者達を天秤に掛けて、後者を優先出来ないのはひとえに銀時の弱さに他ならなかった。
何処に行きたい、と問えば高杉はしばらく黙り込んだ。
「南」
ゆるりと首を傾げて、銀時を見上げて高杉は言う。
「蝉が、木に留まって鳴いている処。蝉と同じくらい大きなガキどもの声が馬鹿みたいに響いて、夏の終わりには蛍が飛ぶ」
高杉の言葉に、銀時の脳裏にはひとつの情景が思い浮かぶ。それがやけにリアルなのは、与えられた言葉から創りだした空想ではなく、過去の記憶の再構成であるからだ。そして滔々と、たゆたうような、諳んじるような高杉の言葉はまだ続いている。
「それ見てガキがまたはしゃぎ騒いで窘められて、ちょっとした静寂を楽しむ。そんで」
先生が、居るところ。
静かに付け足された最後の言葉を銀時は黙殺して、それでも分かったと頷いた。高杉の頭にヘルメットをかぶせて原チャリの後ろに乗せ、自分もまたがる。そして、南に向けて出発した。目指すはもう記憶の中にしか存在しない楽園だ。何もかもが焼けてしまって、そこにはもう何もないと知っていても、それでも銀時はアクセルをふかして風を切った。
旅立ってしまった。此処かぶき町にはもう、戻れない。戻らない。二人では、もう二度と。銀時の中で、それは確信だった。
銀時はなにも言わない。高杉も、何も聞かなかった。