「旅に、出ようと思うんだ」
ぽつりと響いた声が、沈黙に穴を開ける。今は淡く色づいた蕾が綻び始めた季節だった。万事屋の事務所である部屋の定位置の椅子ではなく、隣の和室の窓辺に腰を下ろして、銀時は日に日に色を増していく桜の木を部屋から見下ろしながら、この部屋にいる誰にということもなく静かに云った。風が吹いて、木々がざわめく。その音ばかりが部屋を舞って、大気の動きはどことなく重たい空気で満たされた室内まで届かなかった。
銀時の言葉に、神楽と新八はそれぞれ視線を銀時へ向けた。窓の外を眺めたままの銀時の背を見て、それから二人は互いに顔を見合わせる。目と目を合わせて、その一瞬に言葉を使わず会話する。目配せだけで頷き合うこともしないが、次に口を開いたとき、口にすべき言葉は互いに分かっている。瞬きを一つして、2人は再び銀時に目を向けた。そして神楽は銀時が自分を見ていないことを知りながらも、優しく微笑んで彼に云った。
「うん、いいと思うアル。行っといでヨ。あ、お土産忘れんなヨ」
明るい声が部屋に響いた。視線を窓の外へ向けたままの銀時は気づかない。神楽のその笑みのなかには、どこか寂しさが混じっていることに。それでも神楽は銀時に届ける音だけは、腹の底から気合を入れて、いつもと変わらぬ調子で紡ぎだした。銀時が振り向く前に、笑みも普段と変わらないものにする。これでもう、いつ銀時が振り向いてもいつもどおりの自分で居られていると神楽は確信して、銀時に視線を向け続けた。
力強い神楽の言葉に、銀時はゆるゆると室内の神楽、それから新八へと目を向けた。やっと向けられたその視線を受けて、神楽と新八は銀時に力強く頷いてみせる。その笑みに、銀時はつられるようにして小さく笑みをこぼすと思い出したように云った。
「あー…、万事屋は」
続く言葉は、しばらく休業する、というもののはずだったが、それを銀時が口にするよりも早く新八が言葉をさらりと差し込んだ。
「僕達で回していけますから心配ないですよ。安心して行ってきてください」
「けどよォ」
「いつまでも子ども扱いしないでヨ。っていうか、もう万事屋グラさんと愉快なメガネかけ機でもいいくらいアル。なんの心配もいらないネ」
「ちょっと神楽ちゃんんんん?! その名称はちょっとどうかと思うよ?!! せめて万事屋グラさんとぱっつぁんにしよう!!」
「何云ってるネ。時代はこの神楽様のモノアル」
騒がしい神楽と新八のやり取りに、銀時は仕方なさそうに笑った。それを見て、言い合っていた二人も言い合いをやめて笑う。目を細め、口の端を大きくつりあげて形作られたそれは柔らかく、優しい笑みだった。慈愛に満ちているといってもいい、彼等の歳には似つかわしくない包容力を持っていた。
それから彼等は少し笑みを抑えると、子どもへ言い聞かせるような口調で銀時に云った。
「ねぇ銀ちゃん、私達だってもういい大人アル。いつまでも子ども扱いする方が失礼ヨ」
「そうですよ。大丈夫です」
此処は僕達で守ります。力強い意思と信念を感じさせる眼差しを受けて、銀時はしばらく目を瞬かせていたけれど、やがてゆるやかに破顔して顔を伏せた。ガリガリとふわふわの髪をかき混ぜる。
「…だよなぁ。おまえらももうガキじゃねーんだよな」
独り言、自分に云って聞かすように呟いて銀時は顔をあげた。二人を見据えて意を決したように云う。それを受けて、神楽と新八も真正面から銀時の視線を受け止めた。
「よし、おまえらに任せるわ。俺が帰るまでに万事屋潰すなよ」
「任せとけヨ」
「むしろ大きくしておきますよ。家賃になんか二度と困らない位にね」
胸を張る二人に銀時は微笑むと腰を上げて二人の横をすり抜けようとした。その背中に抱きついて、神楽は銀時を引き止める。感情のままの力任せではなく、銀時の背中に頬を寄せて、労わり慈しむような手付きでそっとその腰を抱きとめた。
「銀ちゃんがいなくても、私達此処を守ってやっていけるネ。でも、銀ちゃんがいなきゃ私ヤーヨ」
帰ってきて。絶対に、旅立ったまま消えたりしないで。
少し込められた力の込められた腕はぎこちない。衝動のまま銀時を傷つけたりしないように、躊躇いながら腹に回された腕に触れて銀時はそっと微笑んだ。
「たりめーだろうが。俺の家は此処なんだから」
他に戻る場所なんてない。そう告げながら、緩やかに神楽の腕を解いていく。
「銀ちゃん!」
自分を呼ぶ声にひらりと顔の高さで手を振り応えながらも、銀時は振り向くことをしなかった。ガラリと玄関の戸が開けられ、閉まる音がする。階段を降りる足音が遠くなって、残された二人はどちらからともなく溜息を吐いた。神楽は項垂れながら額に手を当て、そんな神楽に新八はそっと寄り添いその細い肩に手を乗せた。
「神楽ちゃん…」
「…大丈夫アル。私は心配ないネ。云ったハズヨ。私だってもう、子供じゃないアル」
いつか、銀時が旅に出るのだと言い出す日がくると、二人は思っていた。今日言い出すだろうか、それとも明日だろうか。今日は云わなかった、でも明日になったら口にするかもしれない。そんなことを思いながら過ごしていた日々に終止符が打たれただけだ。
分かっていたことだから、大丈夫。自分にそう言い聞かせるようにして、二人は火が消えたように静まり返った部屋の中でそっと身を寄せ合った。そう、分かっていた。銀時が、また自分たちの元から離れていってしまう日が来ることを。銀時が、彼の人の影を追って、此処から出て行こうとする日が来ることを。分かっていた。分かっていた。
だから、大丈夫。