「俺決めたわ」
「へぇそうかい、頑張れよ」
「おぅ、ってことで今までお世話になりました」
「へぇそう……あ?」
ソファに寝転んで痛む胃をさすり新聞を読みながら銀時と会話していた高杉は、一度流しかけた言葉に違和感を覚えて新聞から目を離した。
見れば少し大きいカバンを手にした銀時がドアの前に立っている。高杉を見て、彼は言った。
「俺ァここを出る。もうこれからはてめぇの世話にならねぇで自分の力で生きていく。おまえも、身体に優しい職業選んで達者に暮らせや。じゃあな」
「待てよ。ここを出るって、住むところは? それに学校はどうすんだ。学費食費家賃光熱費その他諸々全部、高校生のガキがどうにか出来ると思ってんのか」
今にも出て行きそうな銀時を、高杉は言葉で引き止める。新聞も横に置いて上体を起こして銀時と向き直っているが、まだその腰をあげるには至らなかった。
高杉の言葉に、銀時はドアに手をかけたまま振り返る。そして投げかけられた問いに答えた。
「住み込みで雇って貰えるバイト先見つけたんだよ。家賃光熱費込みで。それと前からのバイト掛け持ちして、先生が残してくれた金…」
「それは社会人になるまで手ェつけんなっつってんだろうが」
低い声で高杉が言えば銀時は言葉をつぐんだ。少し不満げな唇で、小さく続けた。
「…もう義務教育でもねーし、無理に通わなくたって…」
「学歴はないよりあった方がいいに決まってんだろ。将来やりてーもんができたときに学歴なくて泣くはめになったらどうすんだ。邪魔になるもんじゃねーんだから高校は出とけよ馬鹿か」
ピシャリと言い放てば銀時はまた言葉を切ったが、とにかく、と強い口調で言った。
「俺ァもうてめぇの力は借りないって決めたんだよ。自力で生きてくって」
意志を感じさせる真っ直ぐな言葉を高杉に投げつける。すると今度は高杉の方が口を閉ざし、両者の視線が拮抗した。先に目を逸らしたのは高杉で、新聞に手を伸ばすとどうでも良さそうに言った。
「…勝手にしろ。やっぱ無理だったって泣きついてきてもしらねぇからな」
「荷物はまた後日、取りにくるから捨てんなよ。絶対ェ捨てんなよ」
「ハイハイ」
おざなりに対応し、銀時に目を向けないまま高杉はドアが閉まる音を聞いた。がさりと紙のこすれる音が響く。深い溜め息が宙を待った。乱暴に新聞を畳んでローテーブルに投げる。足を組み、高杉は腕を額に乗せて目を閉じた。



「トイレは此処で、風呂は此方だ」
新しい住処を、銀時は案内されていた。緩く束ねられた長い黒髪が揺れる背中の後を追う。一通り回って、出勤前でノーメイクである桂が振り向いて問いかけてきた。
「…本当にいいのか? 高杉のところにいた方が…」
「いいんだよ。俺ァもうあいつの庇護下にいたくねーの」
それに、自分が高杉の世話にならなければ高杉は適正のないホストなんてしなくて済むのだ。むくんで腫れた顔で胃薬を探す必要もないし、二日酔いで苦しむこともなくなる。
しかしその本意を銀時が口にすることはなく、落ちた沈黙に桂は銀時の意志が固いことを悟った。
「まぁいい。先に説明した通り、おまえはまだ高校生だから雇うことはできない。あくまで、住み込み先の手伝いだ。給料は出せないが、お小遣い位は出そう。高校生の小遣いは幾らだ? 高杉に幾ら貰っていた。1万位か」
「あの野郎がくれてたのなんて300円ですけど」
銀時の言葉に桂は目を瞬かせたが、なら5000円でいいかとさらりと言った。
「あと、店の手伝いのときはパー子でいて貰うからな。俺のことはヅラ子と呼んで頂戴、パー子」
「分かってるわ、ヅラ子。宜しくね」



「…こんな化け物屋敷でなにしてんだ、おまえは」
「……パー子なんのことかわかんなぁい。お客さん、どこかで会いました? そんな手口、今時古いんだぞっ」
銀時が家を出て2週間、ようやくこの仕事にも慣れてきた頃に高杉が店にやってきた。すでにどこかで呑んできたのかふらふらと覚束ない足取りと朱に染まった顔をしていたが、一際目立つ銀髪天パを見つけた途端に表情を無くし、心の底から呆れきったような声をあげた。
わざとらしい高い声で応じたが、高杉の表情は変わらない。酔っているせいか今まで銀時が見たことのないような無防備で感情がむき出しのまま表れた表情であった。あまりの衝撃に高杉の酔いは覚めたようにも見える。
二人の間になんとも言い難い空気が流れているが、それをぶち壊したのは高杉をここに連れてきた張本人だった。
「アッハッハッ、まぁはよ席について飲むぜよ。ママー、大五郎一本ー!」
坂本が笑いながら高杉の手を引いて空いている席に向かう。ふらりと高杉の身体が揺れたが、高杉の表情はずっと変わらなかった。
朗らかな笑い声が響く席には極力近づかないようにして銀時は手伝いをこなす。接客はしないので主に空いたグラスを下げたり、酒や料理を運んだりしているのだが、高杉のいるテーブルにはなんとしても近付かなかった。それでもチクチクと視線を感じる気がしてやりづらい。
あと15分で22時、銀時の手伝いが終わる時間だ。後少し。もうちょっと。耐えよう。そう思っていると視界の隅に黒いものがぐらぐらとした足取りで歩いているのが見えた。
フルメイクの桂が高杉をどこかに連れて行く。向かう先が化粧室だったのでトイレだろう。出てきたのは桂一人だった。
「パー子、もう時間よ。ちょっと早いけど、今日は上がっていいわ」
「はーい、お疲れ様」
部屋に戻って着物を脱ぎ、カツラを外す。ようやく息を吐けたけれど、銀時の心には高杉の存在が重くのしかかっていた。
高杉と一緒に店にきた坂本を、銀時は前に見たことがある。確か高杉の太客のなかでも特に金を持っている人間の一人だ。
まだホストをしているのか。人がせっかく家を出たのに。もう無理をする必要などないのに。
思ったらムカムカとしてきて銀時は畳に転がって天井を見上げた。此処に来て3日で見慣れた天井だ。高杉の家の天井が、今はもう思い出せない。
「……」
「銀時、ちょっといいか」
からりと襖が開く。ヅラ子のままの桂が部屋を覗き込んだ。
「高杉が席に戻らなくてな。ちょっと様子を見に行ってくれないか。今店が立て込んで、手が離せなくてな」
頼む、と言い残して桂が店に戻っていく。頼まれたものは仕方ない。銀時は店に降りるとトイレを覗いた。2つある個室のドアは両方空いている。一つずつ覗き込めば二個目の方で酔いつぶれた高杉がいた。便器のなかが綺麗な辺り、水を流して力尽きたのだろう。タンクにもたれるようにして倒れている。
「オイ、起きろって」
「…ん、うっせ…」
肩を揺らせば高杉は煩わしそうに顔をしかめ、その手を弱々しく振り払おうとした。うっすらと目を開いて、まばたきをするとぽつりと言う。
「気持ち悪…吐く」
「は?」
座っていた便座から降りてえづく高杉の背中を、銀時はさする。もう胃のなかに何もないのか出るのは胃液ばかりで苦しそうにしている高杉に、水でも持ってこようと目を店に向ければ眼前にペットボトルが突きつけられた。
「大丈夫か?」
にこやかに笑う坂本に、銀時は複雑な表情を見せたが小さく礼を言ってそれを受け取った。高杉の口元に運ぶ。薄く開いた唇に水を流し込んで、こくりと飲み込んだのを見てまた継ぎ足した。高杉の目が開く。
「…水…」
「あっ」
銀時の手からペットボトルを奪い、高杉はそれを高く掲げ頭から水を被った。髪を、頬を、首を伝い高杉のシャツやスーツが濡れていく。空になったペットボトルが高杉の手を離れ、カランと軽い音が響いた。
「あー…」
なにしてるんだこの酔っ払いはと銀時が呆れているとぐらりと高杉の身体が傾ぐ。それを支えてやれば静かな寝息が銀時に届いた。
「完全に潰れとるのう」
苦笑する坂本が仕方なさそうに言う。おまえが飲ませたんだろうという言葉を銀時はぐっと飲み込んで高杉を背負う。ここに寝かせておいたら他の客の邪魔になる。
「とまぁ、そういうわけじゃき。高杉んとこに戻ってくれんかのぅ」
「いやどういうわけか全然わかんねーから」
唐突な言葉に、高杉をおぶったまま銀時は何を言っているのかと憮然とした。カラカラと笑いながら、坂本が付け足した。
「おまんが家を出てからというもの、日に日に高杉が荒んでいってのー。連日出勤してアフターして同伴してくれるんは店としても売上アップで万々歳らしいが、さすがに毎日毎日そんな感じになられるんは困るんじゃ」
坂本の言葉に、銀時は高杉に目を向けた。しかし背負っているせいで肩口にある高杉の顔は見えなかった。人がせっかく家を出たのに、いつも以上の暴飲暴食を続けているとは何事か。馬鹿なのか。ただの馬鹿なのか。
罵ってやりたかったが、意識のない人間にそんなことをしても自分が疲れるだけだ。もやもやとした気持ちを持て余しながら、とりあえず自分の部屋に連れて行こうとすれば坂本に声をかけられた。
「こっちこっち」
店の出口に招かれる。出ればタクシーが止まっていて、その中に高杉ごと押し込まれた。
「ちょっ」
「ほら、荷物だ。残りは届けてやるから安心しろ」
「は?」
桂に最初に持ち込んだカバンを渡される。あとは任せたと扉を閉められて、有無を言わさずにマンションへと送り届けられた。
2週間ぶりのマンションの鍵を開けて、高杉をベッドに転がす。戻ったって、自分の布団は真空にしてしまってしまった。ベッドメイキングから始めなければと思いながら高杉のベッドから離れようとしたとき、ぐいと服を引かれて銀時は思い切り高杉の上に倒れ込んだ。結構な体重が一点にかかり、高杉が呻いたが目覚めることはなく、銀時の服を掴む高杉の手が離れる気配もなかった。
がっちりと捕まれてしまい、どうするか一瞬悩んだ銀時は割とすぐにそこで寝てしまうことにした。キツい日本酒の匂いに酔いそうだと思いながら、それでも目を閉じた。だがすぐに目を開け、捕まれている服を脱いで自由になる。自由になったうえで、再びそこに横になった。抱き枕を抱える。ずいぶんと酒臭い抱き枕だが、気にしないことにして目を閉じた。



翌日、リビングでテレビを見ていたら高杉が起きてきた。
「おはよう」
「……あ?」
声をかければ、目覚めきっていない高杉は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして銀時を見つめた。目を瞬かせて、銀時のそばに寄ってくる。なにかと銀時がその様子を見守っていたら、いきなり頭を叩かれた。次いで頬をつねられる。
「いてててて」
「…はよ」
銀時の存在を確かめたのか、ぽつりと呟いて高杉はソファに横になった。
「飯は?」
「いらねぇ…頭痛ェ…気持ち悪ィ…吐く…」
「吐けば」
「吐くもんもねーよ殺すぞ」
ぐちぐちと呟く高杉は今まで通りで、2週間の空白がなかったかのようだ。銀時もなにも変わらない様子でとりあえず水を用意する。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを差し出してやりながら、銀時は考える。
自分がいるから高杉はホストなんてしなければならないと思っていたけれど、自分がいないといないで心身ともにすり減らして仕事にのめり込んでいく。
だったらどうしてやるべきなのか。どうすれば高杉にとって良いことなのか、今回のことでよく分からなくなってしまった。
唸っている高杉を見ながら、銀時はとりあえず高杉の頭を撫でてみた。
「…なんだよ」
「別に」
高杉はそれ以上文句を言ってはこなかった。だから銀時も指先で髪を弄び続けている。
どうしたものか。問いたい人はもういない。今度の休みに墓参りにでも行こうかと、銀時はぼんやり考えていた。