銀時は寝ぼけた半開きの目で現在の時刻を確認した。只今深夜2時32分。枕元の目覚まし時計がそう教えてくれていた。
そうか、朝までまだまだ時間がある。もう一度寝直そう。
などと銀時に思えるはずもなかった。
「………」
銀時は身体を起こして自分を目覚めさせた諸悪の根源を見下ろした。
銀時の視線の先では、銀時からずり落ちた高杉が死んだように眠っている。
つい先程、いきなりの衝撃に銀時は目を覚ました。何事かと目を丸くする銀時は、自分に覆いかぶさる重たい存在に身をすくませたがなんてことはない。ずっしりと重たいそれは高杉だった。熟睡しているのか銀時が動いてもなんの反応もなかった。
なんでこいつが人の部屋に来ているんだとか、なんで人のベッドで寝ようとしているんだとかいろいろと思うことはあったが、そんなことより酒とタバコと香水の匂いが鼻について仕方がない。
「ちょっ、重たいってーの。部屋で寝ろよ、っつかスーツ脱げシワになんぞ」
高杉に呼び掛けながら、銀時はベッドから抜けだし、高杉のスーツを剥いだ。翌日、というか今日、着ようと思ったスーツにシワがついていれば高杉は不機嫌になって八つ当たりしてくるに決まっているのだ。防げる被害は防ぎたい。
「明かり付けるかんな」
ハンガーも探さねばならないし、小さな電球の明かり一つでは作業がしづらい。すぐに寝たい銀時としては闇に慣れた目には明る過ぎるものなど付けたくはなかったが一声かけて目をつむりながら蛍光灯をつけた。
瞼の向こう側に白い光を感じながら、恐る恐る目を開く。
「…んー…」
眩しかったのか、横向きで寝ていた高杉が光から逃げるように俯せになる。
初めて反応があった。今を逃してはいけない。
「おら、早くシャワー浴びてこいよ。香水の匂いすごいんですけど。んで部屋で寝ろっつの。ここ俺のベッド、分かる?」
「…ん…、いい、…めんどくせ…」
「おまえよくても俺よくねーよ。あーもー俺だって眠ィんだからそこ退けっ、て…」
ベッドに投げ出されていた高杉の腕を掴み、引きずり下ろそうとしたとき、無防備にさらされた頬と首筋に紅い筋を認めて銀時は言葉を切った。
乱暴に拭い去ったような跡になっているそれは口紅だ。ほとんど拭い取られて薄くなっているが、Yシャツにべったりとついたキスマークはしっかり残っていた。
(なにこれなんなの、俺知ってんよ。客の女の人とアハーンになんの枕営業っつーんだよ。同業には嫌われるらしいんだよってか確かにどうなのよって感じだよな。つーかなにこいつそんな営業してんの。確かに高杉がホストとかマジウケるどんな営業だよとか思ってたけどそっち系で営業かけてんの、うわ、マジ引くわー)
銀時はうんざりとした冷ややかな目で抵抗する気配のない高杉を見下ろした。手を離せば腕はぱたりと力無くシーツに沈む。
結局、その日銀時は高杉をそこに寝かせたまま自分はリビングのソファで寝た。



「…オイ」
「………」
「オイ」
「………」
「てめぇ無視してんじゃねーよ、次返事しなかったら此処にある灰皿てめぇに投げてやるかんな。銀時ィ」
「…なんだよ」
「いっちょ前に人のことシカトこいてんじゃねーよ、なんのつもりだ」
「…別に?」
ここ数日間、高杉と距離を取っていた銀時であったが、ついに高杉が焦れたらしい。先日まで普通に過ごしていた同居人が急にツンとしだして、高杉も気にはしていたようだ。今まで少しも態度には出さなかったが。
しらっとした銀時の態度に、高杉は舌打ちしながらも手に握られた灰皿を置いた。返事をしなければ本当に投げ付けられていたにちがいない。
溜め息とともに煙を吐き出しながら、高杉は投げようとしていた灰皿に煙草を押し付けた。
「何拗ねてんだよ、めんどくせぇ奴だな」
「だから、別に拗ねてなんかねーけど?」
「マジにこれ投げるぞ」
「大人の汚さを見てしまっただけです、ピュアっピュアだった俺の心が汚されちまってあーあーもうやるせねーというだけですよー」
「何がピュアっピュアだ。くたばれ白髪天パ」
「おめーがくたばれくせっ毛チビ助」
「あァ?」
人を殺しそうな目で睨まれた。
こいつがホストとかマジ鼻で笑うわ。そんなことを思いながら銀時は洗い物を終えた手をふきながら距離のある視線を高杉に向けつづけたが、高杉は少しも気にした様子はなく舌打ちをして足を組んだ。
「ってかなんだよ大人の汚さって。意味わかんねぇ」
「そりゃ顔や首に口紅付けて香水の匂いぷんぷんさせて帰ってくるような奴に俺の純白なハートがどんなに衝撃を受けたかなんてわかんねぇだろうよ」
「はァ?」
訝しげに眉を寄せた高杉は目を彷徨わせて、思い至ったらしく「あぁ」と呟いた。
「この前のか」
「俺知ってるぜ。枕営業っての。やらしいわぁ最低だわぁ」
「んなのしねーよ。金で女抱くとか、ねーだろ」
「はァ? だってこの前…」
「酔ったババァが俺に引っ付いて離れなくてな。ベタベタ口紅がついて気持ち悪ィのなんのって」
嫌そうな顔をして頬を撫でる仕種に銀時は目を瞬かせた。もしかしなくとも自分の勘違いだったのか。
「で? 大人の汚さがなんだって?」
「…なんでもありませーん」
「くっだらねぇな、ピュアっピュア野郎」
「すいませんでしたー」
自分が悪ければ素直に謝る。それが感情のこもっていないものでも、言われた方もそれで終わらせるのが暗黙の了解だ。
これでこの件はおしまい、だが。
「でもなんで俺んとこで寝てんだよ。俺のベッドに匂いついて最悪だったんだけど」
「…記憶にねーな」
「…俺、部屋に鍵つけてぇんだけど」
「別にいいけどそしたら合鍵寄越せよ」
「それ鍵意味ねぇし」
鍵の在り方とプライバシーについて語り合ううちに、話はどんどんそれで何を話しているのか分からなくなっていった。
別に深い意味などなかったので、銀時もさして気にしていなかったがその答えを知ることになるのはまた後日、高杉が酔いつぶれて帰ってきた日のことだった。
「ほんにすまんのー。ちっくと飲ませ過ぎたき。もう寝とったかえ?」
「や、別にいいけど」
馴染みの客だと言う男に背負われて帰ってきたホストを冷めた目で見遣りながら、銀時は夜分に似つかわしくない声をあげる男を家に招き入れた。
ベッドに転がされてもなんの反応もない高杉に布団をかけてやって、坂本がずっとこちらを見ていることに気がつく。
「何だよ」
「いんや? おんしが高杉ん子かー思って。確かにふわふわの銀髪天パじゃが、高杉ん言葉から想像しちょったより可愛くないのー」
「はァ?」
笑顔で言われた思いがけない言葉に銀時が思わず声をあげれば、男は口の前で人差し指を立てて静かにするように行動で語る。
(おめーの声のがよっぽどでけぇよ)
思ったが銀時は言わなかった。高杉と暮らすようになって、不満を飲み込むことが上手くなったような気がする。
「いやな、おんしのことは高杉から聞いちょった。高杉、おんしと暮らすようになってから生き生きしちゅう。酔っ払って、高杉言っちょった。疲れて帰ってきても、おんしの寝顔見ると救われるような気がしよるって」
「………」
銀時が寝ている部屋に入ってきたのは口紅を付けて帰ってきたあの日が初めてではなくて、いつもは銀時に気付かれることなく部屋を出ていくのに、あの日は本当に疲れていて力尽きたということか。
スーツを着たまま自分にのしかかって寝ていた高杉の姿が脳裏に過ぎる。
「まるでおとんじゃって笑っとったが、おんしが高杉を支えとる、高杉にはおんしが必要なんじゃな」
「………」
返事もせず高杉を見つめていると、不意に視界に割り込んできた手が高杉の髪をすいて頬を撫でた。
我に返り、その手の主を見上げればいつの間にか隣にきていた男が意味深な笑みを浮かべた。男の指先が高杉の唇に触れる。
「わしは坂本辰馬っちゅう者じゃ。また連絡するって高杉に伝えておいとうせ」
「あ…」
高杉に触れていた手を振り部屋を出ていこうとする坂本に銀時は無意識に口を開いた。
坂本が足を止めて振り返り、笑いながら少し首を傾げて見せたが、銀時は自分が何を言おうとしたのか分からず、開いた口を一度閉ざした。
「…わざわざ、ありがとうございました」
「よかよ。飲ませ過ぎたわしも悪かったき」
坂本が帰って、二人きりになった部屋で銀時は高杉を見下ろした。
『おんしが高杉を支えとるんじゃな』
「…馬鹿じゃねーの」
自分がいなければホストをやる必要もないのに、ホストをやる支えに自分を必要とする。
「本当、馬鹿…」
ベッドの脇に腰を下ろして、ベッドに頬を寄せた。銀時の重みを受けてベッドがへこむ。
「…馬鹿…」
繰り返し呟いて、銀時はそっと目を閉じた。
言い聞かすように呟いた言葉は誰に向けたものだったろう。口にした銀時自身もよくわかっていなかった。