小さいままならきっと、今でも見えた かな
鬼の子と呼ばれ忌み嫌われて独り居場所もなく、深い森に逃げ込んだ先で出会った鬼と語り交わした記憶は今やもう遠く霞んでいる。
あの頃はこんな未来など、欠片も想像し得なかった。こんな、灰色の空も、鼻につく死臭も、砂埃と自他の血に塗れた自分の姿も。
異星人の襲来に世界は大きく揺さぶられた。圧倒的武力を誇る天人に対し、両手を挙げて迎合する者、刀を握り抵抗する者、何もせずただ世の趨勢を見つめる者。誰もが自身の判断を信じ、それぞれの道を選んでいた。
そのなかで松陽の私塾の面々は武器を取り、立ち上がることを選んだ。その中に、銀時もいた。
銀時が刀をその手に取った理由を知る者は誰もいない。彼は何も語らなかった。誰に何を問われても、彼はその胸中を語ることはなかった。そのうち誰も理由など問わなくなり、銀時がその胸中を語ることは結局最後までなかった。
最初から勝敗の見えている戦の戦績なんて火を見るよりも明らかなものだった。敗戦に敗戦を重ね、仲間は出来ては失っていく。懸命に刀を振るい、敵を切り、一人でも多くの仲間と帰ろうと善戦しようとも、それは変わらなかった。例え、銀時が「白夜叉」と呼ばれるほどになっても、何も、変わらなかった。
いつしか身も心も疲れ果て、当初語りあかしていたこの国の明るい未来も、誰も口にすることはなくなった。それでも最早惰性のように足を戦場に向け、命を奪い、奪われ、疲弊する感覚すら麻痺して感じられなくなりながら銀時たちは戦地を彷徨い歩き続けた。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。そんな疑問が不意に銀時の脳裏によぎった。
「銀時…っ!!!」
桂の声が銀時の鼓膜を揺らすのと、防具の上から刃が銀時の服を、皮膚を、肉を裂くのはほぼ同時であった。瞬間の痛みはない。ただ生温い体液が服に吸われ張り付く不快感がやけに現実的であった。
あぁ、斬られたのか。やけに冷静に現実を把握しながら、自分を斬りつけた相手に握っていた刀を突き刺す。絶命の悲鳴を聞いて抜いた刀で振り向きざまに自分に武器を向けていた敵を斬り払った。
「銀時!」
「ヅラぁ! おめーら此処は戻れ! 此処は俺が引き受ける!」
「だがおまえ…!」
「いいから! 此処はもう駄目だ。おめーだってわかってんだろ?」
「っ…! お前も、すぐに戻れ…っ!」
桂の掛け声で見方は撤退を始める。それを追撃しようとする天人を斬り捨てて銀時は単身数多の軍勢へと走り込んでいった。
地獄など見たことはないけれど、きっと此処よりかは幾分でもマシだろう。
そんなことを考えながら銀時は独り重く沈んだ空を見上げていた。銀時と天の間に遮るものはなにもない。風がいくら動いても暗く淀みきった大気はかき混ぜられることもなく重く其処にありつづけていた。
この場に生者は銀時ただ独りだ。折り重なる亡骸は誰に葬られることもなく此処で朽ち果てるのをただじっと待ち続けるしかない。きっと自分もそうなるのだろうと銀時はぼんやりと考えていた。
最早自分から血が流れていることも感じない。指先は冷え切って少しも動かせそうにない。なんとか動かすことが出来るのは瞼くらいだ。ゆっくりと瞬きを繰り返しながらこれが最期の景色だとひたすらに空を網膜に映し続けた。
不意に自分の中のしまいこんでいた記憶の箱に行きあたる。なんの他意もなくそれを開けば、過去の景色がくるくると古い映画のように、まるで昨日のことのように流れた。これが走馬灯というやつなのだろうか。他人事のように思っていた銀時はいつの間にか瞳を閉じていた。
銀時は森の中を歩いていた。陽の入らない深い森だった。少し湿った草木を踏み歩く。自分はこの道を、森を知っている。強い風が動いた。木々の隙間、いつしか見えなくなってしまった『彼』がいた。
「なんだァ、まだ生きてやがるのか」
「―――」
頭上から降ってきた声に閉じていた目を開く。空と自分の間、入りこんだそれは少し陰になりながら、場違いな笑みを浮かべ銀時を見下ろしていた。知っている、自分はこの存在を知っている。こいつ、は。銀時の唇が震え、喉から消えそうな声を滑り落とした。
「高、杉…」
「ん? 俺の姿が見えんのか? こいつぁ驚いた。とうに俺のことなんて見えなくなってるかと思ってたが、あぁ、もう死ぬからかもな」
記憶の中の姿と寸分たがわぬ姿のまま現れた高杉はどうでもよさそうに銀時から目を離すと辺りを見回した。死屍累々の凄惨な地獄絵図にも口元に笑みを浮かべたまま、くわえていた煙管を離すと紫煙を吐いた。その香りが微かに銀時の鼻孔をくすぐり、染みついた血水の匂いを塗りつぶしていく。懐かしい香りだった。
視界から消えた高杉はふらふらと何処を彷徨い歩いているのか足音だけを響かせている。銀時はぴくりとも動かない身体に鞭を打ち、なんとか頭を傾けてその姿を視界にとらえた。高杉は散歩でもするような気軽さで屍山血河の大地を一回りして銀時のもとに戻ってきた。高杉の香りが強くなる。それはあの森の空気だった。幼い日に包まれたあの森と同じものだった。
肺が押し潰されてしまったのではないかと思うような息苦しさが呼吸のたびに消えていく。心なしか楽になった息をこぼしながら、銀時は高杉に問いかけた。
「何、してんだ?」
「別になにってこたぁねーが、死と血の匂いに誘われてぶらりぶらりよ。たまにゃ外にも出ねーとなァ」
「食事でも、しにきたのかと思ったけどな」
「こんなまずそうなもの、俺ァ食わねェよ。これでも美食家なんでな」
「はっ…、俺の握り飯うまそうに食ってたじゃねぇか」
何処が美食家だと言ってやれば高杉は素知らぬ顔をして「もう忘れた」と鼻で笑った。視界が霞む。自分が変わるのを止められず、彼が見えなくなったのとは違う。死期が音もなくすぐそこまで迫っているのだろう。今目を閉じてしまったら、もう二度と開けないかもしれない。
「生きてェか?」
なんでもない気安さで、その声は銀時に問うてきた。
「まだ、生きていたいか?」
返事をしようと銀時は唇を震わせたが、乾ききりかさついたそれは震えるばかりで、かすかに開いた隙間からは消えそうな吐息が零れても音は出なかった。高杉は微笑したまま、銀時の傍にしゃがみこんだ。手を伸ばして銀時の頬に触れてくる、いつか銀時がそうしたように。
高杉の顔が近づいてくるのがおぼろげな視界の中でも分かった。高杉の唇が動いている。声はもう銀時に届いていない。
今、なんて。
そう問うことも叶わないまま、銀時の意識は闇へと沈んでいった。
その後、桂達が戦場に引き返したとき其処に銀時の姿はなかった。何処を探しても銀時は見つからず、ひとつの噂がまことしやかに広がった。
『白夜叉はやはり鬼だったのだ』と。真相を知る者は、誰もいない。
そして今日も、あの深い森は誰にも侵されずただひっそりと、けれど確かに其処にありつづけている。時を止めて、あの日のままに。
もう、寂しくなんてないな。
僕たちは彷徨いながら 生きてゆくどこまでも 振り返る道を閉ざし歩いてく 永遠に 立ちすくむ 声もなく 生きてゆく 永遠に