『いつか現れるさ。てめぇの“中身”を見てくれる奴が、外見なんざ気にしねぇダチって奴が、てめぇにもな』
訝しみながら聞いたその言葉は、ほどなくして現実のものとなった。
いつものように、教室の後ろで独り刀を抱えて目を閉じていた銀時の前に一つの気配が佇んだ。銀時は気付きながら、それでも目を開けなかった。少年らしい少し高い声が降ってくる。
「おまえはいつも寝ているな。折角の先生のお言葉を何故ちゃんと聞かない。起きろ。起きてちゃんと授業を受けろ。教室内の士気にも関わるだろう。聞いているのか」
聞いているわけがない。だって自分は寝ているのだから。声には出さず、目を閉じたまま胸の中でそう返事をする。
その後も幾度となく小言は銀時に降り注いだが、銀時は一度も言葉を返すこともしなければ、ついに彼の前で目を開けることもなかった。銀時はいつだって彼の気配が離れてから目を開ける。そのため、銀時は彼の後ろ姿、一つに結われた黒髪が揺れるのをただ眺めているだけだった。
そんなある日、銀時は曲がり角の向こうに人の気配と、話し声を聞いて足を止めた。
「桂ぁ、おまえいい加減にしろよ。あんな奴ほっとけばいいじゃんか。静かに寝ててくれてんだからよー」
「そうだよ、起こして食われたらどうすんだって。俺、あいつが人の肉食ってるの見たって話、聞いたぜ。おまえも近づくと、取って食われちまうかもしんねーぞ?」
聞いたことのある声ばかりだ。松陽の私塾で同じ空間にいる者たちの声だろう。だが、それらの声の主の顔は一つとして銀時の脳裏に浮かばなかった。
どうしたものか。このまま進めば遭遇することは火を見るよりも明らかだ。あえて不愉快な視線を、言葉を浴びせられに向かうことはあるまい。
そう考え、踵を返したその瞬間に向こうからすっかり聞きなれた声が銀時の耳に届いた。
「何を言う、あいつは俺達の仲間だろう。人の肉を食ってた? そんな馬鹿な話があるか。俺は、あいつにちゃんと授業を受けさせてみせる」
「……」
向きを変えたばかりの爪先の向きを再び変えて、銀時は歩き出した。角を流れば4人、同じ年頃の少年たちが立っている。銀時に気付いたらしい8つの視線を銀時は正面から受け止めたが、そのうち6つはすぐに銀時から離れ、去って行った。
残った2つの目玉は銀時に向けられたまま、少しもぶれることはない。後姿ばかり見ていた彼の瞳は酷く澄んでいるのだと銀時はこの時初めて知った。一歩ずつ銀時は歩を進め、距離を詰めていく。少年は、桂は銀時から目を逸らさないまま、すれ違いざまにもうすっかり銀時の耳に馴染んだ言葉を発した。
「明日はちゃんと起きて、先生の授業を聞くんだぞ」
「…眠くなかったらな」
翌日銀時は机に頬杖をついて松陽の言葉を聞いていた。



「で、起きてたら起きてたですげーうるせーんだよ。先生はこうおっしゃっていたが俺はこう思う、おまえはどう思う? とか、知るわけねーじゃんな。どうでもいいっつーの」
「ふぅん」
ぶちぶちと並べ立てていた文句の間に挟まれた相槌のニュアンスが銀時の中で妙に引っ掛かり、銀時は言葉を切って高杉を見た。いつものように煙管をくわえている高杉の口元がほんの少し緩められているのが見てとれて、銀時は逆に唇を固く閉ざしてみせる。
明らかな不快さを示しても、高杉は余裕の笑みを浮かべたまま指先で煙管を弄び、長く細く紫煙を吐いた。そして改めて銀時に視線を向け、言葉を紡ぐ。
「だから言ったろう? てめぇは信じてなかったみてぇだけどなァ…」
「…腹立つ…」
低くそう呟いた言葉は高杉に届いているであろうに、高杉はどこ吹く風で笑みを浮かべたまま、煙管を吹かし続けている。銀時は頬を膨らませながらそんな高杉をしばらく見つめていたが、やがて大きく息を吐くと空を仰いだ。幾重にも折り重なる歯に覆われた天空に、青空は見えない。
ふと、桂の姿を思い出した。いつもの真面目そうな顔だ。疲れを感じてきた首を元に戻せば高杉が見えた。彼をたった独りきりにしているこの森から連れ出してやりたい。そう思うのは傲慢なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、銀時は自分の中にある言葉を何一つ口にすることなく腰を上げた。
桂の知り合い、またその知り合いと銀時と交流を深めていく者たちは少しずつ、しかし確実に増えていった。対してそれに比例するように銀時が森へ足を運ぶ回数は減っていった。
「最近、あまり出掛けませんね」
なんでもないことのように松陽がそう口にしたことで、銀時は初めて自分の行動の変化に気がついた。今でも思い出したように高杉に会いに行くが、最後に朝から握り飯を作って森へと出掛けたのは、いつだっただろう。すぐには思いだせないほど、もう前のことであった。
森へ行けば、高杉は銀時を受け入れてくれた。銀時がこの場所を訪れる回数が減ったことなど言及しようともせず、変わらない様子で彼を受けいれ、景色に溶け込むようにしながらも確かに其処に存在していた。
彼は気付いているのだろうか、銀時の変化に。何度か問いかけようと思ったことはある。けれど言葉はいつも銀時の喉に引っかかり、零れおちることはなかった。高杉は曖昧に微笑したまま何も言わない。言ってくれなければ、銀時に彼の胸中など分かりはしない。
声に出して言わなければ、問わなければ届かないことを銀時は身を持って知っているのに、分かっているのに、問いかけられないまま更に時は流れていた。銀時が森に足を踏み入れる機会は、ますます減っていた。
「…あれ?」
久しぶりに森へ足を踏み入れて、銀時は違和感に首を傾げた。もうそろそろ高杉のもとに辿り着いてもいいはずなのに、彼の姿が何処にも見えない。そもそも今日は最初から何かがおかしかった。
この森は行けども行けども景色は変わらず、さりとて同じ場所を彷徨うことなく常に見知らぬ新たな地へと足を向けているような感覚が付きまとう。それなのに今日は同じ道を何度も繰り返し通っているような気がしてならなかった。
いや、今日だけではない。ここ最近森を訪れるときはそんな感覚が強くなっていた。最初は気のせいだと思い気にも留めなかったが、もう自分の勘違いで済ませられるようなものではない。
やっとの思いで辿り着いた高杉だけは、変わらない姿で其処にある。けれど、彼の気配さえも何処か遠く霞んでいるような心地がして、銀時は高杉に問いかけた。
「なんか、してるのか?」
鬼の子と疎まれ、独りきりだったときは足繁く通いつめて来たくせに、人と触れ合うようになってから高杉のもとへ来る機会が減った自分を、彼は責めているのだろうか。
高杉が何も言わないため、銀時の後ろめたさは此処に来るたびに強くなっている。自分の行為を棚上げしたそんな考えの一端を高杉にぶつけていることに銀時は気付かないまま、訝しげな眼を高杉に向けて返事を待った。
銀時の胸中を知ってか知らずか、高杉は薄く笑ったまま答えは述べず、逆に問い返してきた。
「なんでそう思う?」
「なんか、いつもと違ェ。変わった、気がする」
「…ククッ」
銀時の言葉に高杉は笑みを深くして肩を揺らした。可笑しそうに声を殺して笑う高杉を、銀時はただ少しばかり困惑を滲ませた目で見つめ続けた。
ひとしきり笑いおえたのか、高杉はゆるりと顔をあげて銀時に細められた目を向けた。三日月型の隻眼に、銀時の姿が映り込むのが銀時からも見えた。吊り上げられている唇が開く。
「俺は何もしてねぇし、この森は何も変わっちゃいねェ」
「でも」
「変わったのは、てめぇだ銀時」
森の空気が変わったような気がしたのは、銀時の心の持ちようだろうか。現実はどうであれ、銀時は何処か張りつめたような冷えた空気を覚えながら、それでもじわりと汗が浮かぶのを感じた。
「…俺?」
「この森の時は止まってる。何も生きねェし、何も死なねェ。何一つ変わらないまま、ただひっそりと此処に在りつづけている。永遠にな」
銀時を取り囲む木々のざわめきが音を増していく。姿の見えない鳥の鳴き声が響いた。それでも高杉の低い声は何物にも掻き消されることもなく銀時の鼓膜を震わせていた。高杉は笑っている。探るような笑みは変わらないものであった。けれど。
「だがてめぇは違う」
笑みが消えて、温度は更に下がるのに銀時の頬には汗が伝っていた。透明な一滴の雫が顎から落ちた。
「てめぇは生きてる。生きることは変わることだ。そのままじゃあいられねェ。てめぇは変わるんだ。良くも悪くもな」
「俺は…」
「いつかてめぇの目に俺は映らなくなる。これは変えられねェ。もうおまえは変わり始めちまったからなァ…」
「俺は…!」
「言ったろう?」
見えない何かに押しつぶされそうな圧迫感に耐えきれず、絞り出すように叫んだ声は高杉の一声に掻き消された。理由のない焦燥に駆られている銀時に、高杉は微笑んだまま最後の一言を告げた。
「てめぇは『人間』だって、な」



それから銀時は以前のように毎日森へ通い詰めた。何処へ行くのかと尋ねる友人たちに曖昧な答えを返し、授業に出ろと怒る桂を適当にあしらい、握り飯を持って日々森の奥に住まう鬼のもとへ向かった。
それでも変化は止まらない。流れる水のように掬おうとすれば指の隙間から流れていき、塞き止めようとすれば横から溢れだすように成すすべもないまま、銀時は高杉のもとへとたどり着けなくなるのを、変わらない人を食ったような笑みを浮かべるその姿が霞み見えなくなっていくのを見届けるしかなかった。
この森があって、彼がいたから自分は生きてこれたのだ。口に出したことはなかったけれど、確かにそう言える。此処は銀時にとっての逃げ場だった。銀時を傷つけるものは何もない、傷ついた心を癒すための場所だったのだ。
今はもう必要がないのかもしれない。けれど、もう要らないと切り捨てることなど出来なかった。どうしようもないことに駄々を捏ね、縋りつこうとする自分を惨めったらしいと笑いたいなら笑えばいい。
「高杉…」
銀時はもう懸命に目をこらさなければ見えない高杉に、初めて手を伸ばした。伸ばした手は高杉の視線の先に存在はしたが、彼がその手を取ってくれることはなかった。銀時は更に距離を詰めて、消えかかっている頬に触れた。初めての感触は、冷たくも柔らかく生気は感じ取れないものだった。
これが彼の言う「生きていない、死ぬこともない」者の感触なのだろうか。高杉の表情が変わる。ほんの少しだけ穏やかな笑みになって、それを最後に今度こそ彼の姿は見えなくなった。
その日以降、陽の入らなかったはずの森は木々の隙間から木漏れ日が射し込み、鳥や野生の動物の姿も視界に入るようになった。不変の森が、確かに生きていた。
銀時は何度か独りで、または友人と森へ足を運んだけれど、永久の森に住まう鬼の姿を見ることは出来なかった。そして終にその存在を誰かに語ることもしないまま、いつしか銀時も森に行くことがなくなっていた。



あれは夢幻だったのか。彼を示すものは何一つなさ過ぎて、今や確かめることもできない
彼に触れた感触も、今はもう遠い記憶