銀時は今日も森へ来ていた。自分で握った握り飯を、自分よりもはるかな時を生きているであろう大樹のふもとに腰を下ろして頬張る。指先についた米粒をなめとって、膝の上に乗せていたもうひとつに改めて手を伸ばした。
その様子を、この森に住む鬼は何を言うでもなく見つめていた。指先で支えている煙管をくゆらせながら、溜め息のように紫煙を吐いている。銀時もまた鬼のそんな様子をちらりちらりと視線を送り、見ていた。
彼が姿を現して以来、銀時は毎日のように此処に通い、彼と会っている。彼は自分の姿を見ても何も言わない。ただ意味ありげな含み笑いをしたまま、その口元を煙管で塞いでいる。
高杉と、彼は名乗った。銀時が名を尋ねたからだ。高杉はしばらく考えるように銀時を見つめ、それから視線を少し彷徨わせて「高杉晋助」と名乗った。それが本当に彼の名前なのか、そもそも彼に名前などあったのか銀時には知る由もない。
二人の間に会話はない。時折ぽつりぽつりと言葉を交わすが、ほとんどお互いに沈黙を保っている。短い会話と相反するような静寂、木の葉のこすれる音が銀時にはなにより心地よかった。
腹を満たして、ほんの少し目をつむる。高杉は何も言ってこない。うとうとと心地よいまどろみに意識を任せ、船をこぐ。ふと眼を開けても、同然そこは変わらない森のなかだった。
どのくらい自分が寝ていたのか、いつも分からない。この森の中はいつだって同じ明るさだった。朝から来て何をするでもなく過ごし、森から出る。そうするといつだって世界は赤く夕焼けに染まっていた。どんなに長く森にいても、逆にすぐに出た気になっても、結果は変わらない。
(時間の感覚狂うよなぁ…)
そんなことを思いながら、銀時は来る日も来る日も、森と家を往復し続けていた。
「よくもまぁ、こんな処まで来るもんだ」
ある日、いつものように煙管を指先で弄びながら高杉は呟いた。その声に反応して銀時がそちらを見れば、高杉は悪戯な色を含ませた右目に銀時を映していた。
常にはない意地悪さをにじませる唇が言葉を紡ぐ。
「友達いねぇのか」
あまりにもあんまりな直球に、銀時は眉を寄せた。そんな銀時の表情にも構わず、高杉は少し首を傾けてニヤニヤと楽しそうにしている。
「…うるせぇな」
「どうせその身なりを馬鹿にされんだろォ?」
銀時は低く威嚇するように唸ったのに、高杉は全く意にも介さず、更なる言葉を重ねてきた。
此処は外とは隔絶された世界であり、此処には銀時を傷つけるものなど何もない。そう思い込んでいた銀時は唇を固く結び、それ以上応えなかった。いや、応えられなかった。肯定も否定も、銀時には酷く難しいことだった。
返ってきた沈黙を高杉がどう受け取ったのか、それは銀時には分からない。高杉はしばらく銀時の反応を受け取っていたが、ふと笑みを和らげて煙管をくわえながら銀時から視線を離した。
「鬼の子、ってとこか? くだらねぇな」
「おまえは、」
「あぁ?」
「おまえは、俺見ても、なんとも思わねぇのかよ」
無意識に零れていた呟きを拾い上げて、高杉は銀時に目を向けた。俯き、唇をかみしめる子供を見て、高杉はほんの少し目を細めてみせたが俯いている銀時が高杉の表情を見ることはなかった。
高杉の唇が煙管で塞がれる。深く吸い込んだ煙を細く長く吐き出して、沈黙を周囲に満たした後で高杉は銀時から目を離し言った。
「思うことはあるぜ?」
「………」
「小汚ねぇ餓鬼だ、とかな」
「そういうんじゃ…」
「じゃあなんだ?」
顔をあげ、文句のために開いた口から出かかった言葉は、高杉に向けられた視線一つで喉の奥へと引っ込んでしまった。開いたままの唇は幽かに震えるばかりで、銀時の声帯はなんの音も紡ぎださない。
そんな銀時を、高杉は一笑して視線を逸らすと再び視界を白く染めた。ふわりと、煙と共に言葉を放つ。
「おまえは人間だよ。間違いなくな」
「………」
自信ありげな笑みを浮かべて紡がれた言葉は、銀時の記憶と胸に刻まれ、煙よりも素早く消えた。
鬼の子だと、忌わしいと、正面から後ろから囁かれ指さされ、蔑まれて生きてきた銀時にとって、その言葉は正負のあらゆる感情をかき混ぜて銀時の胸の中で膨らんだ。
人間は銀時を鬼の子だと言う。けれど鬼である高杉は銀時を人間だと言う。
どちらの言い分が正しいにしても、結局どちらからの受け入れられることがないということではないか。この世界の何処にも、彼を受け入れる存在はないのではないか。
言いようのない感情が銀時の胸を塞いでいくのを、銀時は何処か他人事のように感じていた。
どの位の時が経ったのだろう。ふわふわと浮遊していた自我がすとんと銀時に戻ってきて、高杉を見つめていた自分に銀時は気がついた。
先程の言葉以降、高杉はずっと沈黙を守っていた。所作の一つ一つを見つめながら、銀時はふと胸に湧いた疑問を言葉にするため口を開いて呼びかけた。
「なぁ」
「んん?」
問いかければ、先程のことなど何もなかったかのように高杉はいつもの笑みを銀時に向けてきた。それを受けながら、銀時はまっすぐに見つめ返して問いかける。
「あんた、いつから此処にいんの?」
「さぁ? 覚えちゃいねーよ」
「ずっと独り?」
「まぁな」
寂しくない? とは、聞けなかった。中途半端に開いた口は、また結局何も言えないまま閉じられる。
寂しいと言われたら、自分はどうするのだろう。寂しくないと言われたら、自分は何を思うだろう。仮定ばかりを組み立てて、答えを求めず胸に沈める。
銀時は腰を上げて高杉に言った。
「帰る」
その言葉を合図にして、いつもの篝火が灯る。この明かりが違うところに繋がっていれば、銀時は永遠に森から出れず松陽の元に帰れない。
自分の命を灯火の道にゆだねる危うさをいつも感じながら、それでも銀時はこの幽かな火の子に頼るほかない。今のところ、この熱のない光はきちんと銀時を松陽の元まで送り届けてくれていた。
高杉に背を向けて、銀時は一歩歩き出す。いつもなら森が息を引き取るかのように静けさが忍び寄り、銀時だけの世界になるのだが今日はいつまでも静寂は訪れなかった。
その代わりに、一つの声が銀時の背中に投げられた。
「いつか現れるさ」
銀時は踏み出したばかりの足を止め、振り返る。いつの間に移動したのか、木々の隙間に隠れるようにして高杉はひっそりと立ち、銀時を見つめていた。
「てめぇの“中身”を見てくれる奴が、外見なんざ気にしねぇダチって奴が、てめぇにもな」
「………」
銀時が見つめる前で、高杉の姿が消えていく。いつしか銀時の目にその姿が映らなくなっても、銀時はしばらくその場に立ちすくんでいた。
自分が迷い子のような、泣きそうな顔をしていたことに、銀時は気付いていない。それでも震える唇に軽く歯を立て、握る拳に力を込めた。見えない何かを振り払うかのように、銀時はその場から駈け出した。
何処にもないと思っていたものが、存在すると彼は言う。
泣いてしまいそう、なんて、絶対言えない