あの日の出来事を、結局銀時は誰にも言わなかった。白昼夢だと思ったわけではない、狐に化かされたと思ったわけでもない。ちゃんと現実であると認識していたにも関わらずの行為だ。
実際は、松陽にだけは言おうとしたのだが、言葉にならなかった。だからこそこのまま自分一人の秘密にしておこうと思ったのだ。
自分勝手に定めた秘密という言葉は、共有する相手が例え姿形の見えぬ者であろうと蜜よりもとても甘く、銀時の口を塞ぐのには十分過ぎるほどであった。



今日も銀時は町中の人間から侮蔑と嫌悪の視線を投げ付けられながら町を歩く。いつも変わらない銀時の外見を囃し立てる子供達の声を聞き流しながら、一人あの森へと続く道に足を進めた。
擦り減ったわらじ越しに湿った草木の感触が伝わる。今日もこの森は太陽の温もりを跳ね退け、外界と遮断されていた。幾重にも覆い繁り空を隠す濃い緑色を見上げながら銀時は覚束ない足取りで歩く。
上ばかり見ているけれど不思議と木にはぶつからなかった。首が疲れては俯き、また見上げを繰り返す。方向は気にしていない。自分がどの道を歩いてきたのかも把握していない。
あのときだってそうだった。あそこは意図して行ける場所ではない。そう悟っていた。だから全ては足が向くままだ。不意にたった一枚葉が揺れた。波がさざめくように、その揺れが拡がって森全体が音をたてる。
『アホ面晒してなにやってんだ?』
あの日の声が響いた。指摘されて銀時は薄く開いていた口を故意に閉じた。上を向いていたために自然と開いてしまっていたのだ。敢えてきつく唇を噛み締める。それすらも姿を見せぬ彼には愉快に映ったらしい。くつくつと笑うと共鳴するかのように枝葉が音を立てた。
『また迷子かァ? それとも遊びに? 前にも言ったが此処は餓鬼の遊び場じゃねーんだよ』
言外に帰れと告げてくる声の方向を探ろうと銀時は辺りを見回した。だが銀時を取り囲む木々の葉は360度全てが揺れている。気配もなにも感じとることは叶わなかった。
それでも抗うようにひたすらに視線を彷徨わせる。
「何処にいんだよ」
『どうでもいいだろうが。さっさと帰んな』
音もなくまた火が灯る。先日はただ驚きをもって見つめるだけだったその明かりも、二度目の今回はさしたる感情もなく手を伸ばした。やはり熱くない。手にも火傷は出来ていなかった。
再び辺りを見回すが、もう風も動いていない。
「なぁ」
何処に向けてということもなく声をあげてみるが、なんの反応もなかった。少しだけ唇を尖らせて溜息を吐く。
そのまましばらくその場に立ち竦んでみたが、灯火はただぼんやりと道を照らし続け消える気配がない。銀時が一歩踏み出すと初めて消えた。
どういう仕組みになっているのかさっぱり分からないが、今日のところは大人しく帰ることにした。



「今日も出掛けるんですか」
家を出ようとしたとき、掛けられた声に銀時は足を止めた。それは咎めるような響きのないものであった。
今まで銀時は自分から積極的に家を出ようとはしなかったためだろう。それが今では毎日のように出かけている。突然の銀時の変化に松陽は不思議そうにしながらも何処か嬉しそうにしているのを銀時は感じていた。
「あぁ」
振り向かないままの素っ気ない返事をする。正体も知らぬ相手との秘密は松陽に対する隠し事に他ならず、銀時の小さな胸はちくりと痛んだ。だが、まだ言えそうにない。
「気をつけて」
松陽はただそれだけ言った。何処に、と問わないのは信頼の証だった。銀時は松陽を見ないまま家を出た。
いつものように感覚に見を任せて森を歩く。一度しけって食べられたものではないあられを撒きながら歩いたことがある。だが次にこの場に入ったとき、淡い色をした菓子は食べられてしまったのか見つけられなかった。
何度も足を踏み入れているためいろいろ試みているが、最近は声が聞こえぬまま帰り道だけが示されることも少なくない。それでも銀時は飽きもせず足しげく通い続けていた。
今日も同じだろうかと思っていると、不意に風が動いた。銀時は足を止めて口を閉じる。
彼が、来る。
『てめぇも懲りねーな。此処には鬼がいるっつったろう?』
言葉の途中で銀時はそっと片耳を塞いでみる。聞こえ方に変化はなかった。
「鬼なんざ怖くねーし」
そう言い放てば空気が震えた。彼が笑っている。
『ほぉ。そいつぁ剛毅なこった』
明らかにからかいを込めた声にも銀時は表情ひとつ変えないまま、ただひたすらに虚空を睨み据える。挑発には乗らずに問いかけた。
「鬼はてめぇか?」
『さぁな?』
「なんで姿見せねぇ?」
『餓鬼ビビらせて愉しむ趣味はないんでね』
「ビビんねーよ」
『どうだか』
どうやらまだ彼は姿を見せる気はないらしい。
今しがた銀時が発した言葉に嘘はなかった。鬼が出ようが蛇が出ようが、怯えないと銀時は思っていた。こっちだって鬼の子だ。同族に会って、怯むはずがない。
「そっちこそ、姿も見せずに俺を喰えんのかよ」
『喰えるぜ? 今すぐにでもな』
「なら喰ってみろよ」
そう言いながらも、そんな気など銀時には欠片も無い。腰の刀に手を添えて注意を辺りに向ける。物音一つ聞き逃さぬように耳を澄まして息を詰める。
先程まで軽々しく返ってきた言葉が来ない。沈黙が辺りを支配していたが、もう彼が去ってしまったとは思わなかった。木々が揺れている。
何十秒か何十分か、それともほんの数秒か、感覚の狂っている銀時には判断の付かぬ時の経過の果てに、少しざわめく葉の音が強くなり、
『………ったく…』
止んだ。
「剛毅な餓鬼だ」
「………っ!」
左の耳元で直接鼓膜を震わせた音に向かって刀を抜いて切り付ける。それはコンマ何秒の反射の世界の行為であった。空を切ったと銀時が己の動作を意識化に収めたとき、銀時は違和感に気がついた。
刀を握っている腕が、軽い。
銀時の掌には何もなかった。確かに刀を抜いたはずで、腰にもそれはない。ならば何処へと混乱する銀時をからかうような、低いよく通る噛み殺した笑い声が背後から聞こえてきた。
「何処見てやがる?」
耳を塞いでも聞こえた声が、今度は実体を伴って銀時の元に届いている。今まで姿を見せなかった存在が今、背後にいる。
その事実は銀時の心臓を握り鼓動を速めさせた。呼吸が浅くなって口内に渇きを覚えた。それとは対照的に噴き出した汗が顎を伝う。
鬼など怖くない。そのはずだった。今銀時の身体は強張っていて、それは無いはずの感情故であると自覚もしていた。こんなはずじゃなかった。
故意に瞬きをして一度喉を鳴らすと、油が切れてしまったような軋んだぎこちない動作でゆっくりと振り向く。
「望み通り、喰ってやろうか?」



『鬼』が、いた。



この時抱いた感情を、一体なんて呼ぶべきだろう。
恐怖? それとも…