見てあの髪の色。鬼よ、鬼の子よ。ねぇ聞いた? あの子が人の死肉を貪るのを見た人がいるんだって。
まぁ怖い。あの男もなんだってあんな鬼子を匿っているんだか。やだこっちを見たわ。あの青い目、普通じゃない。
呪われてしまう。とっとといなくなればいいのにあんな化け物。いつかこの村の全員が喰われてしまうわよ。
大人達の囁きは全て銀時に聞こえていた。侮蔑と悪意、敵意に満ちた視線を小さなその身に受けながら銀時は町を歩く。その手には僅かな小銭が握られていた。
銀時が物心ついた頃にはもう死臭漂う戦場にいた。刀一本を頼りに生きていくため、なんだってしてきた。親といた記憶はない。だから町の大人達が言う「鬼の子」というのは、もしかしたら間違っていないのかもしれない。
戦場で銀時を拾い町に連れてきた男、吉田松陽のお使いで銀時は今豆腐屋に向かっている。足音に反応して愛想よく振り向いた店主は銀時を見ると顔をしかめた。あからさまな負の感情が染み出ていた。用事が済んだらさっさと店から離れろと犬猫でも追い払うように手を振る。
それでも厚揚げ豆腐を売ってくれたことを銀時は感謝した。その外見だけで銀時を忌み嫌い、商品を売ってくれない者もいるからだ。おまえに売るものはないと金切り声を浴びせ掛けるだけでなく、水と塩を撒いてくる輩も中にはいた。
傷付かないと言ったら嘘になるけれど、銀時はそんな仕打ちにももう慣れてしまっていた。
小銭を握りしめていた手に今度は厚揚げ豆腐が入った袋を下げて歩く。何を邪魔するでもなく、何に危害を加えるでもなく、ただ道の隅を歩いていた。村の外れにある松陽のいる家に帰るためだ。
不意に、後頭部に衝撃を感じて勢いのまま銀時は倒れ込んだ。砂埃が宙を舞う。何事かと顔をあげて振り返れば遠くに子供達がいた。その手に握られている石粒を見て、あぁ石を投げられたのかと理解した。どろりと生温い液体が頭部を流れる感触が気持ち悪い。触って見れば砂にまみれていた手が赤く染まった。
「出てけよこの化け物!」
「早く出てけ! この町におまえなんかの居場所はないんだよ!!」
子供は残酷だ。大人から滲み出ている汚い感情のままに行動する。無垢な分、あまりにも染まりやすく短絡的だ。
口々に聞くに堪えない言葉を並べられても、銀時はぼんやりとした表情のまま何事もなかったかのように身体を起こした。服に付いた砂を払う。手についていた血が服に移ったが気にしなかった。
少し距離を開けている子供達が再び腕を振り上げるのを、銀時は確かに見ていた。目だけ子供達に向けながら、鯉口を切る。悲鳴が上がった。
それは子供達が銀時に危害を加えているのを発見した大人のものだった。血相を変えて飛んできた。大人が恐怖したのは異質なものを平気な顔して迫害する子供の様ではない。銀時が子供達に何かするのではないかと震えたのだ。
子供が石を握り締めていることなど咎めもせず、大人は銀時に侮蔑に満ちた一瞥をくれると早々に子供達を連れてその場から去っていった。
銀時は一人、その場に残された。手が何も持っていないことに気づき、地面を見れば袋が砂塗れになって落ちていた。中を覗けば厚揚げであるため粉々とまではいかなかったが、ぐちゃりと潰れてしまっていて溜め息を吐く。松陽はこれを咎めたりしないだろうが、頼まれたものを満足に買ってくることさえ出来ない自身の不甲斐なさに銀時の心は重い碇を下ろされたように沈み込んだ。
少しだけ消沈を滲ませる足取りで道を歩く。途中には森があった。普段なら気にも止めず通り過ぎるのだが、その日銀時は初めて森の前で足を止めた。視線の先、木々の隙間は鬱蒼とした薄闇が広がっていた。銀時はしばらくそれを見つめ、まるで導かれるようにその中へと入って行った。
迷った。銀時はそう思った。行けども行けども景色が変わらない。衣を裂くような鳥の泣き声も、この覆い被さってくるような木の葉が生み出す闇も、銀時にとって恐怖すべきものではなかったのがせめてもの救いだ。
ただ宛てどなく方向感覚を失ったまま森を彷う。日の射さない森のなかは時間の経過すら分からなくさせた。
早く帰らなければ。その思いだけで動かしていた足が止まる。
―――あの男もなんだってあんな鬼子を匿っているんだか。
銀時がいない方が、松陽も謂れのない中傷や批判を受けなくて済む。このまま帰れない方が、松陽のためになるのではないか。未発達の手で拳を握る。存在を主張するかのように袋が揺れた。銀時は少し俯いてそれを見た。
松陽に頼まれた夕飯の厚揚げ豆腐は落として崩してしまった。もしこれを届けずとも、他の食材で夕餉は間に合うだろう。これがないからといって、松陽が餓死するような事態にはまかり間違ってもならない。
「………」
銀時は下げていた視線を上げて天を仰いだ。心のなかで誰にということなく問い掛ける。
俺はもう、このまま此処にいた方が―――。
風が、吹いた。
『なんだ餓鬼か。迷子かァ?』
「!」
声が響いて銀時は目を見開くと刀に手を添えた。四方八方に目を配るが、何処から聞こえてくるのかが分からない。空気が震えている。森全体がくつくつと笑っているようだった。
『ほォ、随分いいモンぶら下げてんじゃねぇか。ボロボロの小汚ねぇナリして生意気だな』
木の葉が揺れる。今まで沈黙を守っていたことが嘘のように木々はざわめいた。その間にも銀時は忙しなく視線を配る。小さな子供は獰猛な獣の目をしていた。
『…フン、まぁいい。おまえ、村の餓鬼か? なんだってまたこんな処まで入り込んできた。此処は餓鬼の遊び場じゃねーんだよ』
興味が尽きたかのように素っ気ない声が響いたかと思うと銀時の顔の真横、目と鼻の先で炎が灯った。咄嗟に目をつむり腕で顔を覆えば気配がからからと機嫌よく揺れた。
宙に浮き、揺れる炎はまるで熱を感じない。銀時が目を丸くして呆然とそれを眺めていると灯火は次々と増えていき、やがて一筋の道を作り上げた。
『それを辿っていけ。てめぇの行きてぇ場所まで連れてってくれる』
「てめぇはなんだ」
『餓鬼に名乗る名はねぇよ』
さぁ行きな。
そう促されて銀時は一歩歩き出した。すぐ傍にあった灯が消えた。木々はまだ揺れている。何者かの気配も色濃く満ちていた。
『あぁ、そうだ』
さも思い出したかのような声に構わず銀時は歩みを止めない。持っている袋が不自然に揺れた。何かが後頭部に触れる。
今度ははっきりと、耳元で声がした。
「此処には鬼が住んでんだ。迂闊に寄ると喰われるぞ」
「…っ!」
ぞわりと背筋が凍るのと同時に銀時は肘打ちを繰り出していた。それはもはや反射の域であったのだが、銀時の肘はなにも打つことなく宙を切った。嘲笑うかのように葉が一枚銀時の足元に落ちた。
「………」
心臓の鼓動が高鳴っているのを銀時は自覚する。冷や汗が顎を伝った。確かめるように刀を握り締めて銀時はその場に立ちすくみ気配を伺ったが森は再び静謐を取り戻していた。
行く手を見れば明かりはまだ揺らいでいる。最後にもう一度だけ振り返ると、銀時は意を決して示された道を進んだ。
何処へ繋がっているかも分からない道を行く。遠く、揺れない明かりが見えた。自然と歩が速くなる。急かされるように駆け出して森を抜ければ松陽の小さな自宅が見えた。帰ってきた、戻ってきたのだ。
銀時が森を顧みたときにはもう、何事もなかったかのように道標は消え失せていた。
「………」
釈然としないものを感じながら、家の戸を開ける。味噌汁のいい匂いが鼻腔をくすぐる。包丁がまな板を叩く音のする方に向かえば見知った後ろ姿があった。
銀時はしばらく声をかけずにその姿を見つめていた。切っていた具材を鍋に入れようとして、松陽は初めて銀時に気がついたとでもいうようにお帰りなさいと言った。
「厚揚げ豆腐、買ってきてくれましたか」
「…買って、きてけど」
不格好になってしまった。それは告げずに銀時は袋を突き出した。松陽から目は逸らしたままほんの少しぶすくれているような、尖らせた唇が言葉以上の何かを語っていたけれど松陽は礼だけ述べるとそれを受け取った。
「おや、随分と大きいの買ってきてくれましたね。お金は足りましたか?」
「?」
松陽は何を言っているのだろう。銀時は松陽の手から袋を取り上げて中身を覗いた。そして目を丸くする。
ボロボロになっていたはずのそれは綺麗に整い、おまけに大きくなっていた。何が起こったのだろう。自分は確かにこの目で崩れた厚揚げ豆腐を見たし、地面に落としたのだ。
「おや、襟元に血がついている。怪我でもしたんですか」
「え、あ、あれ?」
言われて頭を抑えれば傷は綺麗になくなっていた。銀時は目を丸くしたまま口を開閉させたが、言葉にはならず松陽はただ首を傾げただけだった。
何がなんだか分からない。狐か何かに化かされたような錯覚に陥った。
―――此処には鬼が住んでんだ。
耳元で聞こえた声が蘇る。触れられた頭、豆腐が揺れた感覚も鮮明に思い出した。
―――迂闊に寄ると喰われるぞ。
「…鬼…?」
銀時の呟きがぽかりと浮いた。
この頃も決して恵まれた環境にいなかったけれど、本当の地獄なんて何も知らない、俺はただの、無垢で無知なガキだった。
だからおまえに逢えたんだ。