カチン、カチンと何かが始めるような音がする。銀時は静寂に満ちた部屋に響くそれに反応して音源をちらちらと見たが、この部屋に居るもう一人の人間である高杉は無反応でいた。
高杉は何処を見るでもなく、ただぼんやりと一所に視線を落ち着かせている。焦点の合わない瞳に映るのは部屋に敷いてあるカーペットとフローリングの境目だが、きっと脳は何一つ認識してなどいないのだろうということが見て取れた。
事実、高杉は今現在何も考えていなかった。どのような言葉が今の彼に当てはまるのだろう。無心、無我、どれも近いようで決定的に何かが違っていたがそんなことはこの場にいる誰にとってもどうでもいいことだった。
腕を引かれて、高杉は瞬きをひとつしてそちらを見た。驚きを隠さない見開かれた目は嫌そうな顔をしている銀時に向けられた。露骨すぎる感情を向けられても、高杉には何故銀時がそのような顔をしているのか、何故いきなり自分の腕を引きよせたのか見当もつかず、静まり返った室内に高杉の問いかけがぽつりと浮いた。
「んだよ」
「爪」
「あ?」
「止めろよ」
「………」
銀時の言葉と視線に、高杉は掴まれている自身の左腕、その指先に目を向けた。みっともなくぎざぎざになっている爪はほんの少し濡れていた。今まで部屋に響いていた音の正体は、爪が噛み切られる音だった。
「あー…」
指摘されるまでそれは全くの無意識の行動であった高杉だったが、されど指摘されたからといって特に気にするでもなくただぼんやりと刺々しい深爪を眺め、不格好で格好悪いなと他人事のように思った。それよりも銀時の溜め息に意識を奪われる。
「今ふぉは何が不満ですかぁ。言ってくれなきゃわかんねーよ」
「別に、不満なんざねぇ」
「嘘ばっか。じゃあなんでこんなことになってんだよ」
腕を揺さぶられ、高杉は未だに掴まれていることに気がついた。眉を寄せ、振りほどけば銀時は案外あっさりと手を離した。
「しつけぇ。なんもねぇっつってんだろ」
「…そうかぁ?」
銀時は不服そうな顔をしていたが、それ以上深く追求してくることはなく、乗り出していた身も戻し、元居た位置に再び腰を下ろした。それを見届け、高杉は噛んでいた爪を他の爪先で弄った。いつからか身につけてしまった癖のようなものだ。欲求不満が原因だと言うが、今の自分に不満など無い。松陽を失ったこと以上の不満など、この世界にあるはずもなかった。
今度こそ部屋は完全に無音になった。時の流れる音すらしない。以前置いてあった時計は、高杉が静寂に流れる針の音が不愉快だと壊してしまったため、今は音のしない時計が黙って時を刻んでいる。
お互いに沈黙を気にする性分ではなく、高杉はまた銀時の存在も忘れて自分の思考とも言えない思考に耽っていた。しばしの時をおき、声をあげたのはまたしても銀時の方だった。
「ならよォ」
「あ?」
独り言にしては大きすぎる声に高杉はそちらを向いた。面倒くさそうに顔を伏せ、頭を掻いている銀時が見えた。
「なにが望みだよ」
「…は?」
「何がしたい?」
死んだ魚のような目をまっすぐに向けられて、高杉はその両の目を右目1つで見つめ返した。不満など無い。嘘ではない。そして望むこともなにもなかった。それも嘘ではない。だからそう口にしようとして、されど音になったのは別の言葉だった。
「雪が見てぇ」
「雪?」
「雪」
短いオウム返しを続けて、高杉はほんの少し唇に笑みを乗せた。予想もしない答えだったのか、銀時はまだ少し不思議そうにしながらも問いを重ねた。
「スキーってことかァ?」
「雪」
別に滑りたいとは思わない。一面に広がる銀世界が見たいと思った。東京でも雪は降るが、もっともっと沢山の雪に触れたいと今思った。
高杉の言葉に銀時は露骨に顔をしかめてみせた。文句しかないと表情が語っている。そしてその文句は音になって高杉に向けられた。
「別に連れてってもいいけど、おまえ絶対寒いの嫌っつーじゃん。出掛けたって絶対引きこもるじゃん、目に見えるようなんですけど」
「でも行きてぇ」
薄く微笑んだまま高杉がそう告げれば、銀時は押し黙った。ここ最近、高杉は不満は口にすれど希望を口にしたことはなかった。癇癪を起こして感情のままに暴れて、物を壊して自分も傷ついて変えようのない現実への不満を口にし続けていた。
自分が問いかけたとはいえ、久しぶりに聞いた高杉の願いに銀時はしばらく難しい顔をして頭を働かせた後、覚悟を決めたように深い深いため息をついた。銀時をぼんやりと見つめていた高杉は、そんな銀時の様子すら何処かおかしく感じられて微笑を湛えたままでいた。
高杉の視線の先で、銀時が伏せていた顔を挙げる。堅く閉じられていた口が開いた。投げやりな声が響いた。
「ヅラや辰馬はどうする。誘うか? 車は辰馬から借りんだけど」
「好きにしろよ」
「そこは二人きりがいいって言っとけ」
男心が分かってねーなと零された不満に高杉はくつくつと肩を揺らし、銀時は携帯電話のアドレスから目当ての人物を探し出し、車の手配に取り掛かる。
そんな銀時の横顔をしばらく高杉は見ていたが、やがて興味をなくしたように顔を逸らすと、ふと気がついたように自分の爪に目をやった。深爪しすぎた小さな爪は、きっと誰が見ても格好悪い。自分でもそう思うので指摘されても特別気にはしない。爪先で爪をなぞればガタガタとして仕方がなかった。
再び銀時に目を向ける、電話の向こうの相手に何やら怒鳴っている。銀時の声は高杉の耳に入るけれど、それは音でしかなくて何を言っているのかあまり理解出来なかった。どうでもいいことだからだろうか。
机に頬を押し付けて目を閉じる。
「…高杉?」
銀時の声がした気がしたが反応は返さなかった。暗い暗い瞼の裏、白銀の世界が見えたような気がした。