本当は多分、いや、確かに、全部わかってた。
「あのクソ兄貴出せよ」
名刺に書かれた住所に来れば、いつものおっさんが面倒くさそうに俺に応じた。
「団長は今いねーよ」
「いつ戻る。どこ行った」
「さぁ? 最後の打ち合わせにクライアントんとこ行ってるが、んなに時間のかかるもんじゃねーし、そのあとどっかで飯でも食ってるかもしれねーし、もしくは」
そこでおっさんは言葉を止める。んだよ最後まで言えよ。こっちはガチで頭に来てんだよ。
イライラしてるのを隠さない俺におっさんは困ったように頭を掻く。ドアの向こうに見えたのは積まれたダンボール。まるで引っ越すみたいな。
俺の視線に気がついたおっさんが言う。
「俺たちゃもう戻るんだよ。仕事場に。こちとら戦場が生きる場所だ。あそこでしか、生きられねぇ。とくにあのすっとこどっこいはな」
たまにこの国に戻ってくることもあるが、すぐに飽きてまた戦場に戻るのだとおっさんは言う。
哀れなもんだと。
そんなの、こっちは知ったこっちゃねーんだよ。あのクソガキの人となりがどんなもんであろうと、それが妹傷つけて泣かせる理由になるか。ふざけんじゃねえ。
ふと、俺の頭に閃く姿があった。あいつだ。あのガキがここにいないのなら、きっとあいつのところだ。
「高杉…」
俺は走り出していた。廊下に響いた俺を制止する声なんて俺の頭に届かない。
俺の頭のなかで、あいつがずっと笑ってた。あのどうしようもなく性悪で、淫乱なクソビッチ。きっと、いや、確実に、神威はあいつのとこにいる。
息を切らしながらマンションのドアの前に立って、呼び鈴は押さずに鍵をあける。靴があった。見慣れた高杉のものと、知らない靴、十中八九神威のだろう。
いる。あいつはここにいる。
俺は家のなかに上がり込んだ。静まり返っている廊下を歩く。あの性悪淫乱アバズレクソビッチの根性がどんだけ捻じ曲がってるかも考慮せずに。リビングには誰もいなかった。仕事部屋にも。部下の奴らが使う仮眠部屋にも。何処に、なんて、考えるまでもない。この家に残る部屋はあと一つだけだ。高杉の、私室。高杉以外では、俺しか踏み入れることのない、俺の、微かな聖域。
俺が知らないだけで、他の奴を連れ込んでるかもしれないなんて何度考えたかわからない。でも、高杉が言ったんだ。ここに入れるのは俺だけだって。
色んな手練手管を使うふしだらな奴だけど、そんな嘘は吐かないって知ってるから、だから、そこに入るのは俺だけで、そこで、あいつを抱くのも、俺だけなんだよ。
高杉の部屋に目を向ける。少しだけドアが開いていた。まるで俺を手招きするように。心臓が、全力疾走直後とは違う、嫌な脈打ち方をする。それでも俺は、ドアに、一歩、また一歩と近付いた。
声が、衣擦れの音が聞こえてくる。よく知っている、2人の声。ベッドの軋みが混じってる。覗き込んだ薄暗い闇で見たものを、俺は多分一生忘れない。
分かってたんだよ、高杉が気持ちが良ければどうだっていい、快楽主義の誰とでも寝る尻軽クソビッチだってことくらい。分かってんだよ、嫌ってほど。
でも、跡は見ても話には聞いても、実際その現場のデバガメなんざしたことなかったしさ、したくもなかった。だから、まだ耐えられたし、あいつを気持ちよくさせるためだけの恋人でしかない奴らのなかでも俺は特別なんだって自惚れもあった。馬鹿だな。
「あれー、来てたの? なんて、白々しいか」
リビングで座ってた俺に声がかけられる。おもむろに目を向ければズボンは履いてるが、上半身裸のままの神威が上着を片手に笑いながら立っていた。
返事をしない俺に、ちょっと目を丸くしたと思ったらまた高杉の部屋に消えて、カメラを持って戻ってきた。
「今、すごく良い顔してる。ねぇ、撮っていい?」
子供みたいな無邪気な顔で、神威はカメラを構えてる。なんかもうなにもかもがどうでもよくて、俺はぶっきらぼうに言った。
「好きにしろよ」
シャッターがきられる音が静かな部屋に響き渡った。ありがとう、と笑う神威は何処までも嬉しそうで、どこか違う世界の人にしか見えなかった。
「今までで一番、最高に醜くて綺麗な顔してるよ」
あぁそうかい。天才カメラマンさまの感性は凡人にゃ理解できねーし、したくもねぇ。
風呂入って帰るのだと言って、浴室に向かう神威は浴室の背中に声をかける。素直に足をとめて振り返った神威に、俺は一言だけ、怒りが削ぎ落とされてもなお言ってやりたかった言葉を口にした。
「神楽を、妹を、もっと大事にしてやれよ」
おまえがかつて育てた花みたく、花よりも。自分以外の愛し方を、おまえは確かに知ってんだから。
俺の言葉に、神威は少し目を丸くして、それから少しだけ目を細めて唇の端を釣り上げた。それは、俺が初めて見る、「兄貴」の顔だった。
「一つだけ、伝えておいてくれないかな。あの駄目な妹に」
水は、あげすぎても駄目なんだよ。
それだけで言って、奴は浴室に消えた。ほど無くしてシャワーの音が聞こえてくる。
「んなこと自分で言えよ、クソ兄貴…」
つぶやいて、俺はなんとなく、その音に耳を傾けていた。雨音にも似たそれは俺の心を沈めていく。
そして遂に、俺の前に奴が現れた。
「出歯亀たぁおまえも随分無粋な真似するようになったなァ。どうせなら一緒に混じれば良かったのに」
楽しそうな響きを隠そうともせず俺に向けられた言葉を受けて、俺はまた、ゆっくりと視線をそちらに向けた。この家の家主が愉悦に満ちた瞳を細めてこちらを見つめている。近付いて俺の前に立って、伸ばされた指先が俺の頬に触れて顔をあげさせた。抵抗せず、されるがまま、目と目を合わせればより深く高杉は笑った。
「なァ? 銀時」
悪魔の顔って、きっとこんな顔。
普段の俺ならもうブチ切れてその面殴ってたかもしんねぇ。でも今の俺はそんな気分とは程遠くて、ただガラス越しの世界で起こってることみたいな、他人事の感覚でいるから頭にも来なかった。あぁ、楽しそうだなぁこいつ、って、客観的に思うばかりだ。
廊下から神威が戻ってくる。今度はもうきっちりと身支度を整えて、あとは帰るだけですって格好で、俺と高杉を見て、邪魔しちゃった? なんて笑った。
「じゃあね、また、縁があったら撮らせてよ」
バイバイって、神威は俺に手を振って、高杉はそんな神威を玄関まで見送ってやって、最後にキスの一つでもしたのかなってのはリビングの椅子に座り込んで動かない俺の想像。高杉はなんやかんや年下に甘いから、さよならのキス位しててもおかしくはないだろうよ。
そんなことを考えていたら高杉が戻ってきた。カチリとライターに火を付けて煙草を吸う。玄関に続く廊下への扉近く、壁にもたれて白い煙を吐きながら、高杉はニヤニヤと玩具でも眺めるように俺を見ていた。
「高杉」
そんな高杉を見返しながら、俺はかつてないほど真剣に、それでいてぶっきらぼうに、奴の名を呼んだ。高杉はそれに応じる。俺の反応が楽しくて仕方がないというのが見え透いてる。隠す気もねーんだろう。俺の言葉を待つ高杉に、俺は静かに言った。
「別れよう」
もう、無理だわ。高杉からは何度も口にされ、その度に俺が拒否し続けてきた言葉、でも俺だって今まで何度も言いかけた言葉だ。それでも口に出せなかったのは、まだ、俺には縋れるもんがあったから。俺は違う、こいつの特別なんだって、そう思えたから。
だけど、最後の縁も失って、これ以上、苦しむだけだって分かってんのにこんな関係続けてなんてられねぇだろ。俺は、そこまでドエムでもなんでもねーんだよ。もうこれ以上耐えらんねぇ。
俺の言葉に、高杉は薄く笑みを浮かべたまま、俺に近づいてきた。テーブルのうえの灰皿に煙草を押し付けて、肺に残ってた煙を吐き出して言う。
「おまえがそう望むなら、それでも俺は構わねぇ」
俺はおまえを愛してるから、おまえが本当に望むことなら俺はそれを叶えてやる。
なんて白々しいことを言いながら、高杉は俺の頬に両手を添えた。慈しむように、大切そうに触れてくる手は確かに慈愛に満ちていて、その片方がするりと俺の首を肩を腕を撫でて俺の手に辿り着いた。握られる。
高杉は俺を見下ろしたまま、静かに問いかけてきた。
「おまえは、俺をどう思う?」
「……」
俺の視線は高杉に絡め取られて目が離せない。高杉の目に映る俺を見つめていると、それは唇を震わせながらも言葉を紡いだ。
「好きだよ」
どんな仕打ちを受けたって、こいつがどんなに性悪で淫蕩でインランでアバズレなクソビッチだって、俺はどうしようもなくこいつのことが好きで、好きで、好きなんだよ。
瞳のなかの俺の顔が歪む。高杉の指が、俺の頬が濡れていく。濡れていく。仕方なさそうに微笑しながら高杉は俺の目元を指先で拭うけれど、次から次へと溢れ出す涙を前にそんなものは無意味だった。
「好きなんだよチクショウ…」
絞り出した声は震えてた。高杉の服を掴んで、その腹に頭を押し付けてやれば俺の髪に高杉が触れた。頭上から高杉の声が降ってくる。
「俺が好き勝手して、おまえがキレて俺を殴りつけるときのおまえの顔が好きだ」
怒りに任せて欲望をさらけ出してる姿が好き、我に返って自己嫌悪で死にそうになってる姿が好き、俺のことが好きでいるのが苦しくて仕方ないくせにそれでも好きでいることにやっぱり苦しんでる馬鹿なおまえのことが好き。
滔々と挙げられる点を、高杉がどんな顔をして言っているのか、俺には見当もつかなかった。だから、俺は顔をあげて、高杉を見上げた。
高杉は、笑っていた。残虐な、愛に満ちた微笑を浮かべて、絡み合った手が俺の手の甲に爪を立ててくる。
「おまえの本当の望みを、俺は叶えてやる」
別れるか? 問われて、俺は高杉を見上げたまま無意識に呟いていた。
「別れない」
頭を、抱きしめられた。両腕でしっかりと、頬を寄せられる。情愛に満ちた声が俺の耳に届いた。
「救いようのない馬鹿だな」
それでも、馬鹿で愚かで哀れで可哀想なおまえを、俺は愛してる。
そんな言葉を聞きながら、俺は高杉を抱きしめ返していた。
分かってる。こんなの不毛だって。高杉は変わらない。むしろこれからも、俺が苦しむ姿を見たいがために俺以外の男とふらふら遊び歩いて身体を開いて存分に楽しんでまた俺を見て笑うんだろう。分かってるよ。
でも。でも俺はこいつが好きで、どんなに苦しくても辛くても悲しくても、こいつを失いたくないから。
結局俺は、おまえのすべてを許して愛し、こんな俺であることを許されたいそして愛して欲しい。馬鹿な俺らは何処にもいけない。それでもいい、それでいいから、どうかこのまま、生きていきたい。
それ以上はもう、望まねぇよ。