怒り、苛立ち、悲しみ、憎しみ。そんな感情に任せて何度となく言おうとして、言えなかった言葉がある。何度も、何度も飲み込んだその言葉は、ある日するりと俺の喉元を滑り落ちた。
「別れよう」
それはもう、呆気無いほどに。
その日、俺は簡単な仕事をこなして家に戻った。玄関のドアを開ければ女物のローファーが2つ並んでいる。別にいつものことだから気にも留めずに中に入った。けれど俺を出迎えたのはこまっしゃくれた小娘などではなくてちょこんと置かれた植木鉢が一つ。
なんだこれ。そう思ってよくよく見れば、神楽が育ててる植物だった。なんでこれが此処に。俺は首を傾げながらこいつの定位置である軒先に目を向けた。
神楽がいた。
窓の外を向いてこちらに背を向けている。神楽の体に隠れながら、神楽が大事に育ててる植物が俺の目に映った。あれ? なんであんだ? 改めてテーブルの上の鉢を見る。よく見れば神楽が育ててるものと鉢が違った。別に興味ねーからちゃんと見たことなかったけど、現物と見比べりゃ、違うことくらいわかる。
なんだ新しいモン買ってきたのか。だったら別の種類買やぁいいのによ。
そんなことを思いながら俺は神楽に声をかけた。
「神楽ァ、テーブルのこれどかしとけよ。ってか、一応飯食うところなんだから土は置くなっつの」
「…うん」
俺の言葉にも、神楽は振り返らない。それでも無視はせずにぽつりと返事を返してきた。なんだ? さすがの俺でもなんか変だなって気づく。
「神楽?」
「ねぇ銀ちゃん、前に兄貴がいるって話したの、覚えてる? 今カメラマンしてる、家を出てった馬鹿兄貴」
「…おぅ」
覚えてるってか、まぁ適当に知ってる。すげー嫌だけど、うん、知ってる。けど俺があいつに付き纏われてることなんて神楽にゃ話してないし、野郎も此処には近づかないのかこのへんでは会ったことがねぇ。
外を向いたまま、神楽は滔々と言葉を続けた。
「その植物、兄貴と一緒に育ててたヨ。庭の隅に花壇作って。ウチ、あんまりお日様が出ない地域だったから植物が育ちにくいんだけど、兄貴、すごく上手で、綺麗なお花、咲かせたりしてたネ。兄貴優しいネ、喧嘩になれば情け容赦なく叩くけど殴るけど何度泣かされたかわからないけど私のご飯取るけど、本当に、優しかったネ」
俺は適当に相槌を打つ。なんだ、さっきから違和感しか覚えない。並べられた恨みつらみも虚ろに響くばかりでそこに感情がない。神楽の言葉は続く。
「でも、兄貴出ていったネ。こんな所になんて用はないんだって。家を狂気もない真理もない、生ぬるいだけの場所って言って、パピーのこと、くだらないしがらみに囚われて本質を忘れた腑抜けだって言って。いなくなっちゃった。全部捨てて、兄貴、行っちゃった。兄貴がいなくなって、私、一生懸命笑ったけど、マミー励ましたけど、マミー寂しそうで、一生懸命お水上げたけど、お花も全部枯れちゃった」
最後、震えた声に神楽が泣いてるのかと思った。けれど、ようやく振り返った神楽の頬は濡れてなんかなくて、表情の抜け落ちた無感動な目が机の上に乗っている植物に向いた。
「それ、兄貴が持ってきたネ。いきなり来て、押し付けてったヨ。兄貴覚えてたヨ。私達と一緒に過ごしたときのこと、だから、また、前みたいに、家族みんなで、って思ったのに、思ったのに」
神楽の唇が震える。眉間にシワが寄って、少し鼻が赤くなっていた。瞬きをした拍子に、膜ははじけて涙がその白い頬を流れた。
「要らないって、私達家族なんて。私達に興味なんかないって、あの日みたいに笑って、笑って…」
一度こぼれた涙は幾重にも筋を重ねていく。耐え切れなくなったみたいに泣きじゃくりながら、神楽は俺に尋ねてきた。
「もう戻れないアルカ? 前みたいに、みんなで御飯食べて、くだらない話をして、お花育てて、そういうのって全部くだらないこと? 私、私は、あの頃のすべてが大切なのに」
「もういい」
開いていた距離を詰めて、俺は神楽を抱き寄せた。俺の胸にその小さな頭を押し付けて、震える体を抱きしめる。かける言葉は見当たらない。いや、言葉なんてかけようもなかった。だからただ、あやすようにその背中を小さく叩いてやる。
そんなことをしながら、俺の胸中は冷め切っていた。怒りの炎がメラメラと燃え上がっているのに、極めて冷静になっていくのを感じている。
俺のこたぁいい、いやよくねーけど、無邪気な瞳で人の胸切り裂いてその中身を暴いてやろうってするの、まぁ自衛もしようと思えばなんとかできなくもないし。でも、なんで、どうして、神楽が傷つかなきゃなんねーんだよ。ふざけんなよ。ふざけてんじゃねーよ。
落ち着いた神楽に温かいココア出してやって、俺は机の引き出しを開けた。綺麗な写真の入った名刺を奥から引っ張りだす。ちらと見下ろして、握り潰して家を出た。通り道のコンビニに捨てる。そして俺は、走りだした。