自分の指先を見つめている高杉に、銀八は視線だけ向けていた。買い物に行こうとしていた身体はすっかり戸口に向けられている。
「………」
引っ掛かっているだけに近い細い指先は今にも外れてしまいそうで、高杉は少し身動くと銀八の服を掴み直した。その手が白いのは元からか、それとも服にしわの跡がつきそうなほどに握り締められているせいか。
額に汗を浮かべて痛みに体を強張らせている様子は、何も出来ない銀八が側にいるよりも病院に、病院が嫌ならせめて薬か何かを飲むべきだと銀八は思うのだが高杉の指先は銀八の服を掴んで離さない。
銀八は高杉を見下ろしてその様子を伺ってみたが、高杉は俯き気味で前髪に隠れており、その表情は見えなかった。自分を引きとめる力に逆らわず、銀八は引き寄せられるままベッドサイドに腰を下ろした。
すると服を掴んでいた手が離れて、すぐさま腰のあたりを抱き締められる。高杉はわずかに体をずらして、額を銀八の腰とも尻ともつかない位置に押しつけた。逃がす気はないらしい。
「今日、だけでいいから」
小さな声が銀八の耳に届く。銀八を抱き締める腕にさらに力が込められた。それが少し震えていることに銀八は気付いていたけれど、何も言わずに訥々と紡がれる消えそうなほど小さな言葉に耳を傾ける。
「今日だけでいいから、側にいろよ」
少しでも力を緩めたら逃げてしまうと思っているのか、単に痛みに耐えているだけなのか、震える腕の理由は銀八にはわからない。
「………」
ぴったりと寄り添う高杉を見つめながら、銀八は銀八は桂の言葉を思い出した。
『言えなかったんだ』
今なら桂の気持ちがよくわかる気がする。言えるはずもない。拒絶の言葉なんて。こんな、これほどにも頼りなく縋るような手を、振り払えるはずがない。
銀八は手を伸ばして自分を抱き締める高杉の腕に触れた。振りほどかれると思ったのか、びくりと震えた腕にさらに力が込められる。銀八は腕を撫でながら、もう片手を伸ばして高杉の髪を撫でた。
「何処にも行かねぇから、安心しろよ。な?」
「………」
言い聞かせるような銀八の言葉にも高杉はしばらく力を抜かずにいたが、間もなくしてゆるゆると腕の力が抜けていく。不自然に力がこもっていた身体も少しずつベッドに沈んでいった。完全に高杉の腕の力が抜け切った頃には、すーすーと安らかな寝息が銀八の耳に届いた。
銀八は高杉の腕をベッドに下ろし掛け布団に入れると、ベッドから腰を上げた。何処かに行くつもりはない。何処にも行かないと高杉に言ったのだ。彼が目覚めるまでは傍にいるつもりだ。ベッドのすぐ側に膝を突いて高杉の顔を覗きこむ。
顔を隠す前髪を指先でどけて、無防備であどけなさの残る寝顔を眺めた。
「どーすりゃいいんだろうなァ…」
無意識に零れおちた言葉は誰に向けて問い掛けているのか自分でもわからなかった。
ただ銀八の呟きに返るのは高杉の寝息だけで、時計の音すらしないこの部屋は夜の静寂に満ちていた。リビングから差し込む光と月明りだけで電気をつけていないにも関わらずこの部屋は十分明るい。単に暗闇に目が慣れただけかもしれないが、不自由なく動けるだけの明るさがある。
汗が滲む額を濡れタオルで拭いてやろうと立ち上がって、銀八の視線はベッドの傍にある机の上に向けられた。綺麗に片付いている机の上にはぽつんとひとつ筆立てが置かれている。けれどその中に刺さっているのは筆記用具ではなかった。
銀八の目を引いたのは、古く毛羽立ち色褪せつつある風車と、真新しい色鮮やかな風車だった。
新しいほうは銀八がこの間行った祭りで高杉に買ってやったものだろう。見覚えがある。ではもうひとつは?
風車を買ってくれとごねた高杉を思い出す。高杉は金銭に困っていない。本当に欲しいのならあの時渋る銀八になど頼まず、自分で買えばよかった。それなのに敢えて買ってくれと駄々を捏ねたのは、買ってもらうことに意味があったのだろう。其処まで思いいたると、この古びた風車を高杉に買い与えた人間は一人しか思いつかなかった。
だが正解を知る気は、ない。
「………」
銀八はひとまずリビングに出た。すると今度はチカチカと光る電話に目がいった。留守電があると知らせるそれに近付いて、銀八は一瞬の逡巡の後、留守電の再生ボタンを押した。
電子音がして留守電の件数を合成の音声が告げる。銀八が掛け続けた回数と一致した。
「………」
銀八は黙ってそれを消した。自分が吹きこんだであろう言葉をこの世から消し去る電子音が部屋に響く。
高杉がまた夜遊びを始めたのはわかっている。わかっていて、何も言わなかった。そのくせ電話だけはかけ続けていたのだから自分でも何をしているのか、何がしたいのかよくわからない。
学校で高杉を捕まえて説教することは簡単だっただろうが、そうしたら学校にすら来なくなるかもしれない。そう考えた、なんて言い訳にすぎないことは分かっていた。
元々血色がいいとは言えない白い肌がさらに青白くなっていて、目の下にくっきりと出来ているクマを見ればロクな生活を送っていないことくらい見て取れる。
その結果がこの事態を招いているのだと思うと、己の無能さに溜め息が零れた。
再び足を動かすと、間取りの知らないマンション内をうろうろしてそれでもなんとか洗面所に辿り着くと、適当な棚を開けてタオルを取り出した。
風呂場を覗きこんで桶を手に取るとそれに水を張る。其処にタオルを沈ませて銀八はまた高杉の部屋に戻った。濡らしたタオルで額を拭い、畳み直して首筋も拭う。
「ん…」 高杉は冷たさに小さな声を上げて首を竦めたが起きる様子はない。布団の中で丸くなってよく寝ている。
銀八は少し湿っている前髪を指先で梳くとベッドに寄り掛かるようにして床に座った。 今日は傍にいるよ。
心の中で呟くと、銀八も目を閉じた。



翌朝、耳元で鳴らされた大音量のアラームに銀八は飛び起きた。 「うをあ?!」 聞きなれない音に何事かと辺りを見回す。見覚えのない周囲の景色にますます困惑が募ったが目の前に人がいることに気づいて視線を上げた。
ベッドの上で高杉が無感動な顔をして慌てふためいた自分の醜態を見下ろしている。あぁそうだ。自分は昨日体調の悪そうな高杉を送って、そのまま泊まったのだ。
全て思いだした。床に座り込んで寝ていたせいでお尻が痛い。ベッドに頭を乗せ、天井を見上げる格好で寝ていたせいだろう。首も痛い。おまけに今の驚きで心臓は高鳴っている。
そんな状態で高杉を見つめれば、彼はしばらく口を閉ざしていたがやがてぽつりと言った。
「起きたか?」
「うん、起きた。ってかマジビビった」
「あっそ」
素気ない高杉の顔色は相変わらず良くはなかったが、苦痛に歪められている様子はない。一晩寝たことで多少は回復したらしい。
そんなことに内心ホッとしながら銀八は床に座り込んだまま一つ伸びをしてから立ち上がった。やはりお尻が痛い。
「調子はどうよ」
「今は平気」
「そっか。飯…、なんか買ってくっか。何食いてェ?」
「何もいらねェ」
「そう言うなよ。じゃあなんか適当に買ってくっから」
「俺も行…」
背を向けて部屋を出ていこうとしたが高杉が追ってこようとするのを視界の端に入れて足を止めた。振り返り、ベッドから降りようとしている高杉を制止する。
「オメーは休んでろ。まだ顔色が良くねェ。今日は学校も休んどけ。で、平気そうなら病院行け」
「………」
ピシャリと言いつければ、高杉は床につけた片足をまたベッドに戻した。不満そうにしながらもごろりと横になる。やけに素直で気味が悪いくらいだったが、昨日の痛みの記憶もあるのだろう。素直に言うことを聞いてくれるのなら申し分ない。
せめてもの抵抗と言わんばかりに銀八に向けられている背中を見て、銀八は気付かれぬように笑うと部屋を後にした。
再び高杉の家に戻った時、高杉はまた寝ていた。顔色は相変わらずよくはないが、その顔に苦痛の色は見えない。高杉を起こさないように気配を殺し息をひそめながら買ってきた食材を冷蔵庫に入れる。自分用の買い出し以上に買い込んだ。これで自分はまた今月質素な生活を強いられることになるが、いたしかたない。
自分の胸ポケットからメモとボールペンを取り出すと机に書置きを残した。
『食物は冷蔵庫ん中に適当に入れといたから、食える時に食え。食いたくなくとも一日二食は絶対食っとけ』
其処まで書いて少しだけ考える。考えた結果、それから下の方に小さく、『今日学校終わったら行くから、ちゃんと家にいろよ』と書き足した。
嫌がられるかもしれない。放課後、ここに来たら玄関に靴などなくて誰もいないかもしれない。いや、そもそも鍵が閉められていて入れないようにされているかもしれない。呼び鈴を押しても反応はなくて、拒絶するように閉ざされた扉の前で立ちすくむ自分の姿が容易に想像できた。
だが書かずにはいられなかった。それでもいいと思いながら、それでも彼が此処にいて、自分を受け入れてくれることを心の隅で祈る。
どちらの空想も現実にならないことを、この時の銀八はまだ知らない。



高杉のことを頭の隅にとどめながら、あっという間に一日の授業は終わり、後はHRを残すのみとなった。
先程まで授業があった教室から一度職員室に戻る。教科書や資料集を置いて、出席簿を持って、連絡事項はあれやこれでとこれからの予定とも言えない自分の行動を脳内でシュミレーションする。だが今日の銀八のそういう行為は全て一人の男子生徒の存在のおかげで泡沫に帰した。
坂本が誰かと話している。見れば自分の席に知っている後頭部を見つけて、思わず驚き混じりの声を上げた。
「高杉ィ? なんでおまえがいんのォ?」
今日は休んでいろと言ったはずだし、なによりもう学校の授業は既に終わっていて今から出席するものなどない。ふわりと視界が曇って、くわえていたまだ火をつけたばかりの煙草の存在を思い出した。あぁ、消さなければ。銀八の意識が一瞬高杉から煙草に向けられる。
銀八の声に反応して高杉はそこに座ったまま、顔だけ銀八に向けた。その顔色に銀八は少し眉を潜めたが、高杉はじっと銀八を見上げて口を開いた。
「泊めろ」
机上の灰皿に手を伸ばしていた銀八であったが、その言葉に怪訝そうに眉を寄せた。今、この子供は何と言った?
「はァ?」
「てめーが母親の会社に電話したせいで母親が帰って来ちまった。家帰れねェ。だから泊めろ」
高杉の言葉に、昨日彼が保健室で寝ている間に彼の母親に連絡をしたことを思い出した。実際、連絡の電話を入れたのは陸奥だったのだが、高杉の中では自分の行為にされてしまっているようだ。
連絡を受けた母親は一日遅れで息子のために仕事から戻って来たらしい。面倒を見てくれる人がいるのなら自分は傍についていてやる必要はないなと思ったのだが、どうやら彼にとって母親がいることはプラスにはなりえないようだ。
母親がいる家にはいられない。今家にいれないのは銀八のせいだ。だから責任持って家に泊めろと言ってくる。
そんなことを言われても、母親が体調のすぐれない子供の面倒をみるために家にいることは世間一般的に見てもおかしなことでもなんでもない。むしろ看病などやったことのない自分より母親の方がまだ段取りもわかっているだろう。
母親と何があったのか知らないが、恐らく高杉が一方的に苦手意識を抱いているのだろう。反抗期や、思春期特有の感情もあるのかもしれない。
虐待などで高杉を保護してやる必要性があるわけでもない。銀八に出来ることなどないように思えた。
「なんだそれ。ママがいるから家にいれない? ざけんな。家帰れ。どしても嫌ならヅラん家にでも誰ん家にでも、他の奴頼れ。うちは無理。却下」
おまえいると煙草吸えねーしと言いながら、銀八は灰皿を探す。高杉もすんなり泊めてくれるとは思っていなかったのだろう。食い下がってきた。
「ヅラん家になんか泊まるか。泊めろ。おまえん家がいい」
「いーやーだ。絶対ェ泊めないね」
無理。やだ。ダメ。を繰り返す銀八に高杉が焦れたのだろう。苛立ちを隠さず噛みしめられた唇が何を意味しているのかなど銀八の知るところではなかった。銀八は高杉を視界に入れず、探していた灰皿を見つけると煙草を押し付けていたため、彼の額にじんわりと滲んだ汗にも青ざめていく顔色にも気付いていなかった。
銀八の、坂本とは逆隣りの席の服部が授業を終えて戻って来た。何ごとかと二人のやり取りに目をやっている。服部だけではない。職員室中の人間の視線を一度は集めていた。だがそれが銀八と高杉であると分かると特別気にすることもなく目を逸らすのだ。
「じゃあパパに電話する」
思わずそんな言葉が高杉の口からこぼれ落ちた。進展のない押し問答の末、勢いのまま言ってから高杉は自分の言葉を認知した。けれどもう遅い。
銀八の鼓膜を揺さぶり、言葉としてそれは認知された。その意味を銀八の脳はきちんと理解する。
高杉の言葉に、銀八はすぅっと表情を消して自分を見つめている高杉を見た。
この子供は自分が何を言ったか分かっているのだろうか。自分の置かれている状況を、自分が何をしているのかを分かっているのだろうか。
きっと何一つ分かっていないからそんなことが言えるのだろう。いつかの保健室で覚えた感情がさざ波のように押し寄せて銀八の心に凍みていく。ふつふつと滾っているはずなのに酷く冷たかった。
救いようのない気分だった。何が救えないのか分からないが、とにかくどうしようもなく失望していた。
しばし視線を拮抗させた後、銀八は閉ざしていた口を開いた。
「…そうすれば? 優しいパパに頼めば超高級ホテルのスイートに泊まれんだし。うちの狭くてきったねぇアパートの何百倍もいいじゃねーか」
そう言い放って銀八は手にしたままだった教科書類を机に置くと、代わりに出席簿を持って帰りのHRを行うべく高杉に背を向けた。
「………っ!」
白衣を掴まれる。引き止められて、銀八は足を止めると冷ややかな目を高杉に向けた。その視線を受ける高杉の顔色も、何か言おうと懸命に開かれては結局閉じる唇の色も酷く悪かったけれど銀八の取ってそんなことはもはや気にもならなかった。
「なんだよ。さっさとパパに電話しろよ。『今日家に帰れないの。お願いパパ、何でもするからホテル用意して』って」
「………っ」
苛立ちを隠さない銀八の言葉に高杉は唇を固くかみ締めて、何も言わない代わりに銀八をひたすら見上げた。
突然の張り詰めた空気に、坂本と服部が何がなんだかわからないまま二人を見守っていた。仲介に入りづらい。普段なら気さくに割って入れるだろうに銀八の突き放した表情に言葉もなくただ傍観することしか出来ずにいる。
二人はもちろん、高杉や銀八のいう「パパ」を、高杉の本当のパパだと思っている。まさか高杉の援助交際の相手だとは夢にも思っていない。
銀八は高杉の視線をしばらく黙って受け止めていたが、いつまでもそうしていたところでらちが明かないのでふいと顔をそらして再び教室に足を向けた。
「じゃ」
「待てよ…っ!」
白衣を掴まれたままだったので引っ張られる。だが高杉が掴んでいるのは飽くまで銀八の白衣であり銀八ではない。脱いでしまえば銀八の歩を止めるものなど何もなかった。高杉を顧みることなくするりと白衣を脱ぎ棄てればそれは床に落ちた。
元々薄汚れていたし洗えばいいので特に気にせず戸口に向かう。スライド式のそれに指をかけたところで常にないほど真剣な坂本の声が耳に届いた。
「高杉…! 高杉、しっかりせぃ! 高杉!!」
何が起こっているのかなど対して興味もなかったが、ただ音に反応して銀八は振り返った。いつの間にか自分の席付近に小さな人だかりが出来ている。何か床を覗きこんでいる。何を見ているのだろう。純粋な好奇心だった。
自分の白衣が人込みの中心から伸びている。点々と茶色と赤色の中間色のまだら模様が出来ていて、人込みの隙間からぐったりとしたまま口元を血で汚している高杉が見えた。 「っ、高杉!!」
出席簿を投げ出して、人込みをかき分けた。思い切り膝をついたせいで痛んだけれど少しも気にならなかった。坂本の腕のなかで糸の切れた人形のように動かない高杉の身体を抱きよせて揺さぶった。がくがくと揺れるそれは生気が感じられず本当に人形のようだった。
「救急車、救急車呼べ! 早く!!」
陸奥が駆け寄ってくる。高杉を奪い取られた。一瞬、子供を奪われる親のように高杉を手放すまいとしたけれど、平素無表情な彼女の剣幕にすぐに我に返り一歩離れたところで見守った。救急車の音が近づいてくる。
一体何が起こった? 何故こんなことになっている?
ぐるぐると混乱し続ける頭では思考は飽和して纏まらない。高杉が握りしめている白衣と血、彼の黒髪と学ランの黒が織りなす3色のコントラストだけがやけに鮮やかに銀八の脳裏に焼き付いて離れなかった。



今さら慌てふためくなんて馬鹿みたいだ。傷つけば血が流れるのは当然のことなのに