高杉が保健室に運ばれた。銀八がそう聞いたのは3時限目と4時限目の間の休み時間だった。
銀八のクラスの3時限目は体育だった。最近高杉はきちんと体育の授業にも参加していると体育教師の松平から聞いていたので出席日数に関してはひとまず安堵していたところだ。
聞けば今日の体育はバスケットボールだったそうで、ウォームアップのためのパス練習中余所見をした高杉の頭にバスケットボールが当ったらしい。打ちどころが悪かったのか倒れたまま起きないのでちょっとした騒ぎになったと高杉のことを教えに来た土方は言っていた。
ボールを当てたのは沖田で、高杉が余所見をした原因を作ったのは桂だそうだが二人は罪悪感を感じている様子もないらしい。平然としている二人の様子がありありと浮かんできて銀八は少しだけ苦笑した。伝えに来てくれた土方に礼を言って持っていたペンを唇に当てながら考える。
土方と入れ違いで松平が入ってきたので、銀八は松平に声をかけて問いかけた。
「今日の高杉、ちゃんと出席扱いにしてもらえます?」
担任である以上、保健室で眠りつづける受け持ちの生徒を放置するわけにもいかない。保健室に運ばれてから眠りつづけている高杉のことを養護教員から聞かされて銀八は保健室に向かった。
とっくに下校時刻は過ぎている。廊下に生徒の姿はない。廊下どころか校舎内の何処にもいないだろう。教師すらもう減っている時間だ。養護教員である陸奥ももう帰るというので鍵を預かった。高杉が世話になった礼を言えば素気なく「別に特別なことはなにもしていないき」と返された。彼女らしいと苦笑した。
一つだけカーテンの仕舞っている一角に近づく。声をかけたが反応はなかった。無造作に開け放つ。人型に膨らんだ布団と、眼の閉じられた顔が見えた。
「高杉ー。高杉起きろー」
「ん…」
銀八の声に反応して眉間にしわが寄る。無意識だろうか。鬱陶しそうに顔を歪めたまま寝がえりをうち銀八に背を向けると布団に潜り込んでいった。銀八はそれ以上声をかけることなく僅かに覗く黒髪を見下ろしている。
ほんの少し間が空いて、布団が銀八の視界を舞った。勢いよく高杉が上体を起こしたのだ。見開かれた右目は現状を掴めてはおらず、そのため高杉は酷く無防備な表情をしていた。珍しいものを見た。銀八がそんなことを考えながら高杉の様子を見守っていれば次の瞬間には高杉の顔は先程とは違った意味合いを持って歪められた。
「っつー…」
高杉は頭を押さえて俯いている。ぶつけたところが痛むのだろう。たんこぶが出来ているから大丈夫だろうと陸奥は言っていた。そのこぶに当てられていたであろう保冷剤は枕元に置き去りにされている。
「大丈夫かぁ? ほい、着替え」
「…あ?」
教室の机の上に置いてあったそれは桂の手で鞄に詰められていた。そのため銀八は鞄ごと高杉に差し出した。差し出されたそれを、高杉は顔を歪めたまま見つめた。その表情は普段とはまた違った険呑さを持っていたが銀八がそれにひるむことはなかった。当然だ。今銀八の目の前にいるのは、ただ傷を痛がっているだけの子供なのだから。
「よく寝てたなぁ。今もう7時過ぎだぞ」
「………触んな」
指先でこぶに触れれば手を叩き落とされた。睨まれたので首をすくめてみせる。
高杉はまだ難しい顔をしていたが欠伸を噛み殺すと溜め息をついて何処ということもなく視線を彷徨わせた。それからノロノロと着替え始める。
銀八はその様をしばらく眺めていたが、高杉が体育着を脱いだところでふいと顔を逸らした。同性の着替えシーンなど見ていても面白くもなんともない。これがせめて異性だったら正直心惹かれるものがあるが、その場合銀八は此処にはいないだろう。ちゃんとこの場から自分が離れてから着替えをさせる。教え子をいやらしい目で見る気など銀八にはなかった。あんまり女生徒に評価してもらえないが、銀八はきちんとそういった分別を持っている教師であった。
「俺ァもう帰るから、送ってってやろーか」
保健室の天井を見上げながら、高杉にそう問いかける。
「あぁ」
「あぁじゃなくてよろしくお願いしますだろうが」
「うっせ」
銀八は視界の隅で白いシャツが揺れたのを捉える。もそもそと人が動く気配を感じながらぼんやりと今日の夕飯について考えていた。昨日はスーパーの総菜で済ませてしまったから今日は何か作ろう。冷蔵庫にはなにがあっただろうか。そんなことを考えている間、銀八は高杉のことを思考の外に置いていた。だから気づいていなかった。いつの間にか高杉が着替えるのをやめ、銀八を見つめていることに。
「…銀八」
名前を呼ばれて、今日の夕飯から週末の掃除洗濯にまで飛んでいた意識を引き戻される。
「ん? 着替え終わっ…」
銀八が振り向ききるより早く、言葉の全てを紡ぎ終わるよりも早く、唇に弾力を感じた。かつてないほどの距離に高杉の顔があった。
あぁ、キスされたのか。驚きに目を見開きながら頭は冷静に現状を把握する。だが回転しつづける頭とは裏腹に身体はぴくりとも動かず、瞬きひとつ出来なかった。もう一度口づけられる。
先程のはほんの一瞬であったが、今度の唇はすぐに離れなかった。キツく押し付けられ、喋っていたために開いていた唇の隙間から舌が入り込んでくるのが分かった。銀八の頭は何処までも落ち着いていて身に起こっていることの全てを処理し、理解した。だが理解に現実味は伴わず、銀八は何処か他人事のようにそれを受け取っていた。
肩を掴まれ、身体を高杉の方に向けさせられる。銀八は特に抗うこともなく高杉のしたいようにさせていた。思考回路は正常に働いている。自分が今何をされているのか分かっている。突然の予想外に出来ごとにも、人はこんなに動揺しないものなのかと考えるくらい、動揺していた。
だが不意に額縁の向こうのことのように思えていた全てが現実感を伴い、津波のように押し寄せてきた。夢から覚めるようにベッドの上にあった銀八の指先がぴくりと動く。
高杉は唇を離すと銀八をやや上目遣い気味にじっと見つめた。今までにない表情だった。無垢なような、ふしだらなような、よく分からない色をしていた。銀八はその視線をまっすぐ受け止める。浮かんだ薄い微笑みは無意識だった。
「…なんなの? いきなり」
「したくなったらするっつったろ」
「したくなったんだ?」
「あぁ」
平然としたまま高杉は妖しく笑い、銀八の耳元に口を寄せて囁いた。
「気持ち良ければよ、どうでもいいと思わねぇか? 男でも女でも」
そう言ってぴたりと銀八に身体を寄せて、銀八の頬に添わせた手をそのまま輪郭に沿って滑らせる。頬、顎、首筋、肩、胸を撫であげて高杉は銀八の首筋に口付けた。
銀八はただ黙って浮かべていた笑みを消し無表情で高杉を見つめていた。ぼんやりと考える。今の今までこんな気配はなかったのに、一体何がどうしてこんなことになっているのだろう。全く思いつきもしない。自分の身に起こっていることがまた夢のように感じられた。
このまま高杉のしたいようにさせたら、どうなるのだろう。そんなことを思いながら笑みを浮かべて問いかける。
「何? 溜まってんの?」
その言葉に高杉は今度こそ意図的にいやらしく唇を吊り上げてみせたのが分かった。
「溜まってんのはてめぇだろ。あぁ、それとも一人で寂しくAV使って処理してんのか? わびしい野郎だなァオイ」
「俺ァ…」
自分でも何を言おうと思っているのかわからないまま口を開く。頭では何が起こっているのか理解しながら、心が現実を受け入れていない。そのため今このやり取りすらも他人ごとのように銀八は感じていた。今此処にいるのは自分ではない。あぁこうやって二重人格は生まれるのかもしれないなと場違いなことを考えるほどに銀八の思考は現実から乖離していた。
高杉の指先が銀八の唇に触れる。
「っと男じゃ勃たねぇなんて言うなよ。俺が」
「………」
「ヨくしてやるよ」
酷く性的な笑みだった。見るものを煽ってその気にさせる、淫靡さに満ちたものだと銀八は思った。それが、高杉のものでさえなければ。
意識が現実に引き戻されていくのに比例して自分の心が急に冷えていくのを銀八は感じていた。そして黙ってしばらく高杉を見つめる。高杉の指先が服越しに滑り落ちていくのを感じていた。ベルトに触れられる。
酷薄な笑みがこぼれたのは、本当に無意識だった。
「そうやって、オジサンたちを虜にしてたんだ?」
「―――………」
高杉から表情が消えた。そんな高杉の目に映る自分からも笑みが消えたのを銀八は目視した。笑みが消えるだけではない、自分の目には嫌悪すら浮かんでいるように銀八には見えた。再び意識が銀八の支配下から逸れていく。それでも今度の場合、身体は、口は、勝手に動き続けた。
「おまえさ、世の中のオジサン皆が皆おまえに引っ掛かると思ってんの?」
今まで聞いたことのないような冷やかなこの声は一体誰のものだろう。銀八は他人事のように思う。表情を無くした高杉の顔色が少しずつ青ざめているのが分かった。だが次々と唇から滴る言葉は止まらない。止める気もなかった。
「ナメんなクソガキ」
そう言い放ってズボンに仕舞ってある財布を取り出して紙幣を一枚高杉に突き付けた。高杉の視線がぎこちなくそちらに向けられる。
「返す」
シワだらけのそれは一番最初、この保健室で高杉に声をかけた日に連れて行かされたラーメン屋で高杉に押し付けられたものだ。使うに使えなくて、どんなに生活が苦しくても財布に入れたままにしてあった。
見つめるだけで受け取ろうとしない高杉の反応を待ったが、ついに高杉は動こうとしないので目の前の置いて銀八は腰を上げた。そのまま振り返ることもなく保健室から出ていく。
人もまばらな職員室に戻って自分の席に腰かけた。背もたれに身を預けて深い深い溜め息を吐く。頭痛に耐えるように額に手をやった。
今起こったのはなんだ? 一体何が起きた?
分かっている。高杉にキスされた。恐らくあのまま高杉のしたいようにさせていたら、それ以上のこともされただろう。いや、自分がすることになったのだろうか。その辺は曖昧にしておく。心の防御反応かもしれない。
机に両肘をついて、組んだ指先に額を乗せる。落ち着けと自分に言い聞かせる。先程まで淡々としていた心臓が妙に暴れているのを感じた。
「おんや金八ィ、おんし帰ったんじゃなかったんか?」
声のした方に目を向ければ湯気の立つマグカップを持って坂本が立っていた。不思議そうに見つめてくる彼の姿に妙に安堵した。こんなにもこの男に癒しの効果を感じたことはない。
「や、ちょっとな。そっちこそ帰んねーのか」
「ちっくと仕事を溜めこみすぎてのー」
今日は残業だと豪快に笑う坂本に、銀八はゆるゆると強張っていた頬の筋肉をゆるめた。もう一度溜め息を吐いて背もたれに身をゆだねる。先程は聞こえなかった椅子の悲鳴が今度はちゃんと聞こえた。
高杉はなんのつもりだったのだろう。溜まっているのかと問いかけたのは自分だが、そうではないだろう。冷静に、冷静に思い返せば彼の指先は震えていた。挑発的な笑みもどこかぎこちない。
思えば思うほど、先程の自分の態度は失敗だったなと今度は自分を責める溜め息を吐いた。ころころと変わる銀八の表情に坂本が首をかしげているのは気にしない。
だが、あの高杉の態度に裏切られたような心地がしたのは確かだった。銀八の中で高杉は幼い小学生のころの彼の影を色濃く残していた。援助交際をしていると、していたと分かっていても何処かでそれを受け入れていなかった。穢れを知らない子供の彼を、今の高杉に重ねていた。だから、裏切られたように思った。
あんな高杉を自分は知らない。あんないやらしく男を誘う笑みを浮かべる高杉を自分は知らない。知らない。
「………」
高杉は、どうしただろう。
そこに思考が至り、銀八は腰を上げた。パソコンに向き合っている坂本に軽く挨拶をして再び保健室に向かう。閉じられた扉についている曇りガラスの向こう側は真っ暗だった。一応開けて中を確認しても、そこにはもう誰もいない。ご丁寧に保健室の利用届けが机の上に残されていた。
今のは全て悪い夢だったのではないか。廊下の明かりが差し込むだけの薄暗い保健室に立っているとそんな風に思えてきた。けれど違う。あれはまぎれもなく現実だ。
「………」
銀八はしばらくその場に立ちすくんでいたが、保健室から出るとしっかりと鍵を締めた。
赦せないと、正直思った。現実を見ていなかったのは俺の方なのに