夏が終わり秋が来た。そして冬が音もなく迫ってくる。あんなにも近くに感じた空を遠く感じるたび、何故だか心に風が吹く。



鳴り響く電話の音で高杉は目を覚ました。ソファに寝そべって、することもなく暇なので適当なテレビを見ていたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。革張りのそれの寝心地は悪くはないが決して良くもない。
中途半端に寝ていたために頭が重たい。まだ開ききらない目をこすりながら、高杉はソファから体を起こして時計を見た。現在の時刻は午後9時53分。銀八の目の前で携帯電話を投げ捨てたあの夏祭りから、銀八の電話はたいてい9時半すぎにかかってくるようになった。以前はもうちょっと早かったように思う。
その理由を問えば友達と遊ぶこともあるだろうけど、9時すぎたらもう夜遊びだから、駄目だから。銀八がそう言っていた。答えになっていないと思ったが、それ以上深く突っ込まなかったので明確な回答は得られていない。
高杉はソファから足をおろして床を踏みしめると欠伸をひとつしていまだ鳴り続けている電話をとった。寝起きの低い、かすれた声を出す。
「…はい」
『遅ぇよオメーよォ。電話はもっと早く出ろや。3コール以上待たせたらお待たせしましたっていうんだぞ』
名乗りもせず文句を並べた声に、高杉は戸惑うこともなく言い返す。取る前から誰からのものかなど分かっていたので動じたりしない。むしろ違う声がした方が驚いて目が覚めただろう。
「うっせーな。寝てたんだよ」
言いながら高杉はコードレスの受話器を耳に当ててまたソファに戻って寝転んだ。テレビはさっきから全く見ていなかったし、下らなくやかましいだけなので消してしまう。すると途端に室内に静寂が満ちた。温度まで下がった気がするのは、気のせいだとは分かっている。
『今日はなんか楽しいことあった?』
「…特になんも」
『そうなの? 俺なんてなぁ、今日結野先生と…』
「興味ねェ」
『酷っ』
他愛のない会話をしてから電話を切った。切ったそばから何を話したのか高杉はもう思い出すことが出来なかった。支障はないので別に構わない。腕を伸ばして受話器をローテーブルに乗せる。寝返りを打って天井を見上げれば無意識に溜め息がこぼれていた。
「………」
さっきまで確かに銀八と繋がっていたのに、今はもう何処にも繋がっていない受話器を高杉はぼんやりと見つめる。テレビのついていない部屋は本当に静かだ。時計の音すらしない。
こんなにも静かな部屋で銀八の声しか音がしていなかったのに、最近、何故だか回線を通じて聞こえて来る銀八の声がやけに遠く聞こえる。前は銀八からの電話をそれなりに楽しみにしていたのに、楽しかったのに、嬉しかったのに。なのにどうして今の自分はこんなにも気持ちが沈んでいるのだろう。
自問自答する必要もなかった。答えなどとうに自分で出している。
―――ただわからないフリをしているだけだ。



「晋助…晋助?」
「…あ?」
名前を呼ばれて、高杉は自分を呼ぶ声の主に視線を向けた。隣のクラスの万斉が高杉を見ていた。サングラスで視線が何処を向いているのかは分からないが、少なくとも高杉はそう感じた。
「曲はもう終わっているであろう」
万斉の言葉通り、高杉がつけているイヤホンからはもうなんの音もしていない。先程まで鳴らされていた音は確かに高杉の鼓膜を揺らしていたはずなのに、いつ終わったのかも高杉には分からなかった。
「あー…、ちゃんと聞いてなかった」
「晋助…」
溜め息混じりのそれは少しだけ咎めるような口調だったが、高杉は気にするでもなくまた再生ボタンを押した。自分たちと同じ制服を着た学生や、親子連れで満ちたファミリーレストランの喧騒に紛れながら、イヤホンから万斉が作曲した曲が流れ出す。それは確かに先程も聞いたイントロだった。だが、程なくしてまたしても高杉の視線はまたしてもぼんやりと何処ということもないところに向けられる。ちゃんと曲を聞いているようには思えない万斉は高杉に声を掛けた。
「最近やけにぼーっとしておられるな。どうしたでござるか?」
「別に、なんもねーよ」
「ちょっと前まではそれはそれは機嫌がよかったのに」
万斉の言葉に高杉は不機嫌そうに顔をしかめた。万斉はそんな高杉に首を傾げてみせる。
「てめーもか…。どいつもこいつも同じこと言いやがって…」
ここ数日で何人に同じことを言われたのかわからない。ある者にはまた学校に来なくなるんじゃないかとまで言われた。それは親しくなったからこそ出る言葉ではあったが、そんなことなど高杉は考えない。何かあったのか、機嫌が悪いのかと問われても何もないし機嫌が悪いわけでもない。嘘偽りない現実だ。だからそう問われる方が不愉快だった。
高杉はただ考えごとをしているだけだ。ただその思考は堂々巡りを繰り返し、いつしか何も考えなくなりぼうっとしてしまう。それが他人には不機嫌だと映るようだ。そろそろ否定するのも面倒くさくなってきたので、次からはそういうことにしておこうと高杉は心に決めた。
「………」
高杉はほどなくしてまた表情を無くすと意味もなく視線の先にあったMDプレーヤーから伸びるイヤホンのコードを指先で弄んだ。それを万斉は見つめている。
「…晋助…」
「晋助様っ、何か悩みごとっスか?私でよければ相談にのるっスよ!」
ドリンクバーに飲み物を取りに行っていたまた子が片手に自分の、もう片手に高杉の飲み物を持って戻ってきた。途端に場が少し華やぐ。また子は高杉の隣に座ると高杉を真っ直ぐに見つめて熱っぽくそう言った。ここが好感度の上げどころだと思ったのだろう。目が輝いている。
その瞳を、高杉は冷静に見つめ返した。
「…悩みなァ…。…とりあえずおまえがうるせー」
「じゃあおとなしくしてるっス!」
「あぁ、おとなしくしてろ」
「はいっス!」
口を噤んでそれでも高杉をじっと見つめているまた子に構わず、高杉はまた子が持ってきた飲み物に口をつける。流していた曲は結局ちっとも頭に入ってこなかった。



万斉たちと別れて家に帰ってくると同時に電話のベルが鳴った。高杉は荷物を置くよりも先にそれを手に取り通話ボタンを押した。
『おまえ最近機嫌悪いんだって?』
開口一番、つい数時間前に聞いた言葉を高杉はまた耳にした。
「…てめーまで…」
もういい加減うんざりだ。本当に機嫌が悪くなりそうだ。ファミリーレストランで決めた通り、「あぁ悪いよ」とぶっきらぼうに言いやった。どうしたと問いかけてくる銀八と適当に言い交わす。
高杉は顔を顰めながら鞄を漁り、万斉から借りてきたMDをコンポに入れて再生した。一軒家よりもよほど防音機能を備えたマンションなので音量は気にしない。けれど銀八との電話中ということもあって普段の設定よりも少しだけ抑えた。何度も聞いたイントロが流れる。ここまではちゃんと聞いているのだ。ここだけならもう覚えている。
脳内を通り過ぎる音楽を認識しながら、高杉は少しだけ最近自分の脳内を占領していることとは違うことを考える。そしてきっと期待していた。自分が望む答えが返ってくることを。だから高杉は、口を開いた。
「…銀八ィ」
『あー?』
「今度隣の組の河上がライブすんだよ。俺がヴォーカルやるっつったら見に来るか?」
今流している曲をライブでやることになっている。高杉がステージに立つかはまだ未定だがそう尋ねてみた。銀八が見に来るのならば、マイクを握ってもいいと思った。
『河上ィ? あー、あいつね。んでライブ? 行かねーよ、俺あんまロックとか興味ねぇんだわ』
銀八は隣のクラスの国語も担当しているため、万斉のことをちゃんと認識していた。サングラスとヘッドフォンがトレードマークの彼は事あるごとにロックだなんだと言っていた。だからきっと彼のライブはロックなのだろうと銀八は考えていた。
実際、その判断は間違っていない。
「…んだよ馬鹿。天パ。白髪」
『馬鹿ってなんだよ。それに外見の悪口は言っちゃいけないんですー。だって興味ねーもんは仕方ねーだろうがよ』
「あーもううっせー。興ざめだ。つまんねぇ。もう切るぞ。じゃあな」
『あ、オ…』
ぶちりと有無をいわさず高杉は電話を切った。そしてベッドにダイブする。募る苛立ちが止められない。何を期待していたんだろう。銀八に見に来て欲しかった? 馬鹿みたいだ。
握りしめている沈黙した電話を見つめる。自分から電話を切った後の最近のクセだった。見つめていたところで、どんな切り方をしたところで、またかかってきたことなどない。
「………」
夜遊びをやめてからも、変わらずに電話はかかってくる。内容も以前と全く変わらなかった。夜遊びを、不純な同性援助交際を電話で説教されたことなど一度もなかったからだ。
確かにこれからも自分の暇潰しに付き合えとは言ったが、実際付き合ってもらえると不安を覚える。
それが最近の憂鬱の理由だ。
銀八にとって電話をかけるメリットはなんだ? 援交をしている不登校問題児が援助交際をやめて学校に来るようになったこと? また夜遊びを始めてないか把握出来ること?
彼が電話をしなくなったら高杉がまたよからぬことを始めるんじゃないかと銀八は思っているのだろうか。高杉は銀八の胸中を色々と勘繰ってみるが彼にその真意を問い質したことは、ない。
高杉にとって、世の中はギブアンドテイクだ。援助交際なんてものはそのいい例で、自分はお金と暇潰しが出来て相手に身体を差し出す。相手は束の間の快楽に浸れる代わりに高杉に金を差し出す。
何かを相手にしてやる時にはいつだってその見返りを求めてきた。だから見返りを求められずただ行われる銀八の電話が嬉しくもありまた怖くもある。
もちろん皆が自分のような考えの持ち主ではなく、損得感情抜きに他人と接することが出来る人間だっていることくらいわかっている。
桂は口煩いのが煩わしいが幼馴染である自分のことを気にかけ彼が世話を焼くのを、高杉は最早当たり前のように思っている。
万斉やまた子だってそうだ。彼らも高杉に代価を要求したことなんてない。要求されれば何かを返す気ではいるが、きっとそんなことはないのだろうと考えている。
彼らの態度には少しの不安も抱かないのに、なのに何故か銀八だけは違うのだ。
(なぁセンセー。センセーはどうして俺を構ってくれんだよ)
そう聞けたならどんなに楽だろうか。自分の想像ではない、銀八の言葉で答えが聞けたらどんなにも楽になれることか。
「………」
エンドレスリピートに設定してあるコンポから何度目か分からない再生がまた始まる。
高杉は鞄から携帯を取り出すと、アドレスから銀八のものを引っ張り出した。しばらくディスプレイを見つめて通話ボタンに親指を乗せる。この親指にほんの少し力を加えるだけだ。それだけで銀八に繋がる。自分が知りたくてたまらない答えを、もらえるかは分からないが問うことは出来る。
「………」
高杉は眉間にしわを寄せ唇をかみしめると親指を電源に移してそのボタンを押した。銀八の番号を出していたディスプレイが待ち受けに戻る。思わず嘲笑がこぼれた。
「…バッカみてぇ…」
聞けない。なにを自分はこんなにも怖気付いているのだろう。そうしてまた答えに気付かないフリを始める。終わりの見えない一人芝居にも似た愚かな行為だ。観客はいないが、もしいたら自分を指さして笑うだろう。誰も笑わないのなら、いっそ自分が笑うだろう。
「銀八…」
(どうしてそんなに優しいの)
問い掛けは言葉にならぬまま、流していた曲が終わった。



怖い、怖い、怖い。せめてそれだけでも伝えられたらよかったのに