ノックもせず職員室に入ってきた高杉が銀八の隣の席にどっかりと座りこんだので、銀八は書いていた書類から目を離し、彼を見た。高杉は少しだけ笑みを浮かべた口を開く。
「祭りがあるんだとよ。今度の日曜」
そう言って高杉は椅子を前後させる。銀八のものより座り心地がいいであろう坂本の椅子の背もたれに寄りかかって銀八の反応を待っていた。
「ふーん。それがなに?」
銀八はまた視線を書類に戻し、高杉の方を見ずに必要事項を記入する。それを終えると仕舞ってあったノートパソコンを開いた。これから授業で使うプリントを作らなければならない。なかなか忙しい身なのである。それは自分が今まで怠けていたからであるが、そんな事情など高杉の知ったことではないし、そもそも考慮する気も彼にはなかった。だから率直に自分の要件を銀八に告げる。
「連れてけ」
きっぱりそう言った高杉に、銀八はキーボードを叩いていた手をとめた。しかしまた何事もなかったかのように作業を再開させる。高杉の視線は感じていたが、敢えてそちらに目は向けなかった。
「何言ってんの。そういうのは友達と行けよ」
「大人数は好きじゃねェ。てめぇが連れてけ」
「じゃあ他の子と二人で行けばいいだろ。ってか日曜おまえ補習じゃん」
その科目は数学で国語ではないけれど、数学教師からその情報は銀八にもたらされていた。先日のテストで点数が悪かった者に行われる補習であるが、高杉はテスト自体を受けなかったそうだ。学校には来ていたので、保健室か何処かで数学をさぼったのだろう。先日の二者面談で授業には出るよう言ったつもりだったのだが、伝わらなかったのだろうか。それとも体育だけちゃんと出ればいいと思われてしまったのだろうか。思考とは全く違う言葉を羅列させながら銀八はそんなことを考える。
「誰か誘ったら他のももれなくついてきちまうだろォ。祭りは補習終わってから十分行ける。グタグタ言わず連れてけよ銀八ィ」
「先生をつけろー。此所ァ学校だー。やぁだよおまえ、また俺になんか奢れって言うんだろ? 冗談じゃねーよ全く」
「言わねーから」
だから連れてけと食い下がる高杉に、銀八は作り終えたプリントを印刷に回すと溜め息をひとつ吐いた。



「夏はやっぱ祭りだよなァ」
「そう?俺は家の扇風機の前で素麺でも食っててーよ」
二人は夕方、溢れかえる喧騒のなかを歩いていた。やる気のない銀八の言葉に高杉は少し機嫌を損ねたようだが、すぐにまた機嫌よく辺りを見回していた。今にも鼻歌でも歌いだしそうな様子は学校では見られないものだろう。
高杉は先程買ったリンゴ飴を手に、嬉々として人込みをかき分けて進んでいった。そのくせ時折銀八がちゃんとついてきているか後ろを振り返り確認するのだから何とも言えない。
(ガキみてぇ…)
銀八は少し後ろを歩きながらそんな高杉の背中を見てそう思う。そういえば祭り好きだったっけとぼんやりと昔を思い出した。
昔、高杉が松陽に祭りに行きたいと言って、松陽を連れ出していたことがあった。その場に居合わせた銀八も松陽に誘われたが面倒臭いと一緒に行くのを断った。高杉は銀八に来てもらいたくなかったらしく、松陽の誘いを断れ断れと目が訴えていた。松陽の手を引いて急かす高杉は喜びと興奮に満ち溢れていて、なにがそんなに楽しみなんだかと銀八は思ったものだ。
今の高杉は、そのときの高杉と変わらない。祭りだというだけではしゃいでいる。月日が経ち、昔から持ち合わせていた生意気さ、小憎たらしさばかりを育て、幼子特有の僅かにあった可愛らしさを欠片も残していないと思っていた高杉に昔の名残を見出だすと、銀八の胸中は複雑なものがある。
生意気ではあったが無邪気でもあったあの頃と、未だに根は変わっていないのかもしれないと思うのだ。
「銀八ィ、かき氷食うぞ」
「まだ食うのか」
祭りに来てから高杉はじゃがバタ、たこ焼き、お好み焼きにリンゴ飴と食べ通しだ。銀八は銀八で綿飴、チョコバナナ、クレープを食べ続けている。
「さっきまでのは主食で、これからはデザートだろ」
イチゴミルクを頼んで、ミルク多めに、などと注文をつけてる高杉を見ながら、自分も同じものを注文しようとしたら高杉に文句をつけられた。
「てめー、同じもん頼んだらいろんな味が楽しめねーだろォ。他の頼めェ他の」
「んだよ。じゃあオメーが他のにすりゃあいいじゃねーか。イチゴミルクは俺のもんだ」
俺はイチゴミルクしか食わねーと銀八が言い切れば、高杉はグチグチ文句を言いながらもレモンを頼み直した。こぼれやすいかき氷の食べ歩きはこの混雑でこぼしてしまうかもしれないので、二人は人込みから抜けだし道路の脇に腰掛ける。
銀八のかき氷に高杉のストロースプーンが伸びてきた。無断で大サジ一杯をすくい上げる。銀八の視線が追うそれは高杉の口の中に消えていった。
「…っあー、冷て」
そう言いながらも高杉はまた遠慮もなく銀八のかき氷をすくえるだけすくっていく。乗り切らなかった氷がわずかに地面に落ちてすぐ溶けた。
「ちょっとちょっと〜、誰があげるっつったよ」
「あァ? ケチくせーな。いいじゃねーか、ちょっとくれーよォ」
「あっおま何もう一口とろうとしてんの。ってかさっきから俺の買ったのつまみ食いしすぎなんだよオメーはよー」
「みみっちィんだよ一々一々」
結局、銀八のかき氷は高杉に半分くらい食べられてしまった。高杉は自分の分もきっちり食べている。なんだか釈然としない思いを抱えながらも銀八は母親のような言葉を口にした。
「腹ァ壊してもしらねーからなァ」
「ガキじゃねーんだ。バカにすんな」
そうして二人はまたふらふらと歩く。祭りの屋台の外れまで来ればもうヒトも疎らだ。とはいえ祭りから帰るヒト、逆に来たばかりのヒトの往来が激しい。
不意に吹いた一筋の風が、隅にあった風車を一斉に回した。
「―――………」
高杉が足を止めた。そのまま動かなくなる。それに気づかず先を歩いていた銀八は、隣に高杉がいないことに気づくと足を止めて辺りを探した。すぐに見つけて戻る。
急に消えるなと文句でも言ってやろうとしたが、高杉がじっと何かを見つめているのに気付き、銀八は訝しげにその視線を追った。
「どしたァ…?」
銀八の目に風が止み、回るのをやめた風車たちが写る。色鮮やかなそれらはとても華やかであった。美しいと思う。けれどそれ以上の感情を銀八に与えることはなかった。不意に高杉が口を開く。
「銀八」
「あ?」
「あれ買え」
「あァ?」
グイグイと銀八の服を引っ張り高杉は風車を指差した。銀八は眉を寄せ渋ってみせた。
奢れって言わねー約束じゃねーか。
銀八がそう言えば、あれだけ、あれだけ買えと高杉がねだってくる。その様子には常にはない必死さがほんの少しだけ混じっていた。
『高杉は諦めるということを知らない。あいつが駄々を捏ね始めたらこっちが諦めるしかない』
銀八よりも高杉との付き合いが長い桂がそう言っていた。
桂が甘やかすから高杉はこんなワガママなお坊ちゃまになってしまったのではないかとそのとき銀八は思ったが、ただの一介の友人である桂一人を責めるのはお門違いであるため口には出さなかった。
買え買えと繰り返す高杉に、銀八は大きな溜め息をついた。ポケットに手を伸ばす。
「ヒトに物頼む時ァ、買ってください、だろーがァ」



銀八が買った風車を手に、高杉は上機嫌ですっかり暗くなった道を銀八の後ろに付いて歩いていた。何がそんなに嬉しいのだろうと銀八は思うが、喜んでもらえるのは銀八も嬉しい。それはそうだろう。誰だって、嫌な顔をされるより笑ってもらった方が気分がいいに決まっている。
あと数分もしたら花火が始まる。わざわざ人込みの中で見ることもない、という銀八が知っている花火を見るのに最適の隠れスポットに移動中だ。
「俺の極秘スポットだっつのによォ…。間違っても女口説くのに使うなよ」
「てめーが使うから?」
「たりめーだろー。何が哀しくてオメーに教えなきゃなんねーんだ。ったくよォ」
銀八は嘆きながら拓けた地面に腰を下ろした。周りには人っ子一人いない。銀八にこの場所を教えた人と銀八の、二人だけの秘密の場所だ。今はもうその人はいないため、銀八だけの特別な場所となっていた。
そういえばあの人は高杉や桂とも祭りに行って花火を見ているはずなのに、高杉はこの場所を知らないのか。銀八はちらりと高杉に目を向ける。高杉は辺りをもの珍しそうに眺めていた。
『内緒ですよ』
今はいないあの人の微笑がほんの少し懐かしくなった。心にちらついた感情をごまかすように銀八は草の生え茂った地面に寝ころんだ。
高杉は銀八の隣に座り、それとなく目だけで銀八をうかがった。何かを言いあぐねているのが銀八にも分かった。だが何も言わない。高杉が自分から言い出すのを待った。高杉はしばらく視線を彷徨わせ、開いては閉じた口をキツくかみしめると、意を決したように口を開いた。
「…銀八は」
「あー?」
「…なんでもねぇ…」
それでも結局言いかけてやめた高杉に対して銀八がその先を促そうとする前に、高杉はふぅと風車を回した。くるくる、回る風車を銀八も見つめて、それから再び真っ暗な空に視線を移した。星は見えない。
「…花火、早くはじまんねぇかなー」
伸びをしながら銀八がそうこぼせば、すぐに高杉から言葉があった。
「9時からだろ」
「そうだっけか」
会話が途切れた。高杉はもう銀八を見たりせず、銀八も空を見つめていた。祭りの喧騒が遠く聞こえる。昼間の大合唱の蝉の声はもう聞こえない。夜の涼しい空気と静寂が二人を包み込んだ。
不意に静寂は破れる。闇夜を切裂いていく光の筋に銀八が声を上げた。
「お」
パァンと火薬が弾ける音がして、大きな花がほんの一瞬咲き誇る。此処でこうして花火を見るのはいつぶりだろう。時折歓声を上げながら、二人は花火を眺めていた。
緩急をつけながら、それでも淡々と上がっていた花火が急に絶え間なく上がった時、銀八はちらりと隣の高杉を見た。
花火の色に染まったその横顔は真っ直ぐ空を向いていて、視線は花火に釘付けだった。手にはずっと風車が握られたままだ。
「………」
銀八はしばらく高杉を見つめていたが、気付かれる前にまた空を見上げた。
二人の目の前でキラキラと名残を惜しむように空で金色に光りながら、最後の花火が消え失せた。



「やっぱ金魚掬いはやるべきだったな。やらねーと祭りに行った気がしねぇ」
「だーから世話出来んならやればっつったじゃねーか」
街灯が照らす帰り道を歩きながら、満足そうにしていたはずの高杉は不満をこぼした。確かに、高杉は子供たちがキャッキャとはしゃぎながら取り囲む水槽を一歩離れたところから凝視していた。やりたいのだろうと言うこと位銀八にもよくわかった。けれど金魚は生き物だ。すくっておしまいではない。
「バッカ、俺が世話なんざ出来るわけねーだろォ」
「じゃあ諦めるしかねーだろーが」
「銀八が飼えば良いだろうが」
「俺も無理だっつの」
あれだけ楽しそうにしていたくせに終わった途端不服そうに唇を尖らせている高杉に、銀八は苛々と言葉を投げ付けた。
「オメー、祭り連れて来てもらっといて口を開けば文句ばっかかコノヤロー。礼の一言言えねーのかその口はよォ」
「ありがとうセンセー。すごく感謝してんぜ」
「そこまでわざとらしいといっそ清々しいな」
ハァと銀八は溜め息をつくと、改めて高杉に問い掛けた。
「…楽しかったか?」
高杉は風車を一度回して、それが止まるのを見届けてから口を開いた。
「まぁまぁだな」
「こんのガキ…。こういう時は嘘でも楽しかったっつーんだよ」
小言を並べる銀八の言葉を右から左に聞き流しながら、高杉はもう一度風車を吹くと止まるより先に口を開いた。
「楽しかったからお礼に」
ひょいといきなり顔を覗き込まれて、銀八は並べていた文句を途切れさせる。高杉の目に映った少し驚いた顔をしている自分が見えた。ニィと高杉は悪戯に笑った。
「銀八ん言う事、なんでも一つ聞いてやるよ」
からかっているのか本気なのか、底の読めない瞳を銀八はじっと見つめ返す。その真意をはかろうとしたが結局は掴み損ね、訝しげに問いかけた。
「…ホントになんでも聞いてくれんの?」
「あぁ」
高杉はまだ笑っている。余裕の笑みを浮かべる高杉をいつも通りの表情で眺めながら、銀八はなんでもないことのように、それでいてきっぱりと言った。
「じゃあ、パパと付き合うのやめてよ」
「………」
銀八の言葉に、高杉は笑みを消して銀八を見つめた。探るような鋭い目を向けている。銀八も高杉を見つめている。互いにその真意を目で問い、探り合ったが先に現状を打破したのは高杉の方だった。顔を逸らし、また笑ったのだ。
「…今までやめろなんて一言も言わなかったくせによォ、こういう時に言うかァ?」
高杉はついと一歩進んで銀八に背中を向けた。銀八はその背中を見つめるだけだ。追いつこうとも振り向かせようともしない。表情など、見えなくていいと思っていた。
「だってなっかなかオメー自分からやめねーんだもんよ。オメーの人生だから好きに生きろって俺ァ言いたいけどね、けどオメーのしてることはやっぱ良くねーだろ」
「………」
「やめろよ」
車が通り過ぎた。渡っていた橋の中程で、高杉はぴたと足を止めた。
「いいぜ」
「あ?」
「やめてやるよ」
高杉は橋の手摺に向かうと、鞄を漁り白い携帯を取り出した。銀八はそれに見覚えがあった。何時だったか、高杉が「パパ専用」と言っていたものだ。
高杉はそれを握り締め銀八に向かって唇を吊り上げてみせると、銀八の目の前でなんのためらいもなくその携帯を川へ放り投げた。
銀八はそれを目で追った。白いそれは闇の中にぼんやりと浮かびながら弧を描き、ついに消えた。ぼちゃんと少し重い音が川の流れに紛れながら微かに届く。二人とも口を閉ざしていた。間が空く。
「…やけに素直だな」
「いい子だろ?」
ニヤリと笑う高杉に銀八は問い掛けた。自分でもそんなことはないのだろうと思う、あまり意味を見いだせない問いだった。
「他ので連絡とれたりとかしねーよな」
「しねーよ。あれの番号しか教えてねーし、あいつらの番号も控えてねェ」
自分からは掛けない。高杉は川を見つめながら言った。銀八は高杉の左側に立っているので眼帯や前髪でその表情は窺えない。
「…良かったのか?」
あんまりにも高杉があっさりパパとの繋がりを断ち切ったので銀八は思わずそう聞いてしまった。それは失敗だったらしい。高杉が不満そうな目を銀八に向ける。
「んだよてめーがやらせといて」
「だってまさかこんな素直にやめるとは思わねーもんよー」
その言葉に高杉は表情から感情を消し、携帯を投げた川を見下ろした。
「…まぁ、別にもういいかなって思ってたし」
「そうなの?」
「俺がパパと付き合うのやめたからって、もう俺の暇潰しに付き合わねーってのはなしだかんな。わかったな」
じろりと睨み付けてくる高杉に、銀八は真っ暗な川を見下ろして答えた。
「面倒くせーなァ…。ま、また夜遊びし始めねーか、抜き打ち電話はこれからもかけっから」
「…おぅ」
なにやらまだ不機嫌そうに唇を尖らせているが、それはただの照れ隠しなのだと言うことくらい銀八はわかっている。
喜怒哀楽を素直に表現するくせに、嬉しいんだけど嬉しいと思うことが恥ずかしいという複雑な心境になると、途端に口数少なに唇を尖らせる。そんなところも昔と変わらない。
銀八からの電話は嬉しいのだと無自覚かつ遠回しに言っているようなものだ。
(ほんと恥ずかしい奴…)
なんだか銀八まで照れてしまう。高杉から目を逸らしながら、手を伸ばして高杉の髪をかき混ぜる。
少しクセのある髪はそれでもさらさらと指の隙間を流れた。
「…帰ろうぜ」
「ん、そだな」
少し前を高杉が歩き出す。顔を見られたくないのだと知れた。銀八は肩を並べようとするでもなくのんびりとその後ろを歩いていく。
絶え間ない水音に時折通り過ぎる車の音が混ざる。自分より小柄な、大人にはなりきっていない背中を銀八はぼんやりと見つめていた。
ただ「高杉が夜遊びをやめた」ということだけに安堵していた。肩の荷がひとつ下りたような気がしていた。
高杉の心境の変化も、その理由も、全く考えようとはしていなかった。ただそのきっかけが自分であるならいいとだけ思っていた。



祭りの空気に浮かれていたのは俺も同じ