初めて見る銀八の真剣な顔つきを、高杉は一瞥するとどうでもよさそうに視線を窓の外に向けた。眼下に広がる校庭に人の気配は少ない。帰路についている生徒がまばらにいるだけだった。地平線の向こうの雲は焼けるような色をしていた。
「センセー知ってんだからな。おまえがホントは賢い子なの」
「…ふーん…」
「ふーんっておまえね、自分のことだってわかってんの?」
「わかってっからどうでもいーんだよ」
高杉は一度目を伏せると背もたれに体重をかけた。椅子の4本の脚のうち、2本だけを使ってゆらゆらと上体を揺らす。酷く不安定な状態のそれに、すぐに銀八から危ないと声が飛んだが高杉はそれを無視した。
教室の片隅で机を向き合わせて、銀八と高杉は向かい合っていた。
今は銀八が面倒くせーを連呼していた面談週間の最終日、最後の面談の時間だ。本来高杉はこの時間ではなくとっくに終わっているはずだったが、本来この時間に面談するはずの土方が部活があると困っていたので交換したため今日まで先送りになっていた。面談の開口一番「優しいじゃん」と銀八はニヤニヤと笑っていたが親切心とは少し違う気がしたので高杉は何も言わず用意された席に腰をかけた。それから殆ど口を開かないまま、今に至る。
「つーか進路調査白紙で出すのやめてくんない? 適当でいいからなんか書いとけよ」
「てめぇが出せっつーから出してやったんじゃねぇか。それ以上を要求される筋合いはねー」
そう言い捨てると高杉はガツンと音を立てて椅子を4本足に戻した。浅く椅子に腰掛けて足を組み、手はポケットに突っ込むというおおよそ二者面談を受けているとは思えない横柄な態度を取る。高杉にとっては、今が二者面談であるということも先生と向き合い自分の進路に関わる話をしているということもどうでもよいことだった。電話でくだらない世間話をしていた方がまだ面白い。
将来に希望や展望なんてない。やりたいこともないし興味のあることも特にない。端的に言ってしまえば、自分に纏わる全てがどうでもよかった。
銀八は手元にある高杉の成績に視線を落とした。先程から何度も眺めているものだ。しかしいくら見たところで、印刷されている内容は変わらない。どうにもこうにも頭の痛い文字に銀八は露骨に顔をしかめてみせた。
「っつーかおまえの場合、成績より何よりまず先に出席日数がなァ…」
「あ? 最近は真面目に来てんだから問題ねーだろうが」
「オメー体育まともに受けてねーだろ。見学か保健室ばっかでよォ」
「………」
それは否定しようのない真実なので高杉は口を噤む。拗ねた子供のようにぷいとそっぽ向いた高杉を見て、銀八は憂鬱そうに溜め息を吐いた。胸ポケットに伸ばされた手が不自然に止まり、机の上に戻される。
それに不自然な動きを視界の端に捉えた高杉はちらりと銀八を見たが、銀八は高杉から視線を外しており気怠げな目を書類に向けていた。
「ま、そんなわけだからこれからは体育もちゃんと出るよーに。残り全部出りゃ日数もギリギリ足りんだろ」
「めんどくせー」
「体育のために留年する気かオメーはよ」
「…悪くねーな」
それは高杉のなかにはない考えであったが、妙な現実味を持ってそれは高杉に響いた。指先を顎にやり、真剣に考えてみる。今言った通り、悪くない案だと思えた。銀八の眉が寄る。
「オイ」
「一年長く高校生でいれるわけだし? いろいろ使えるオプションなんだよ高校生ってのは」
「馬鹿なこと言ってんじゃねーよ」
満更でもなさそうににやりと笑った高杉に対し、言い出した銀八がその案を却下した。高杉も本気で留年する気はないため、肩をすくめると足を投げ出した。なんの意味も見出せない不毛なやりとりにはいい加減飽き飽きしてきた。ただでさえ順番を待たされ続けてきたのだ。もう帰りたいと呟いた。
それは銀八も同じ気持ちだった。高杉とのこの面談で長かった面談週間も最後だ。生徒は1回だが、銀八は受け持ちの生徒分二者面談をこなしている。もういい加減終わりにして帰りたい。とはいえ、生徒の将来に関わるそれなりに大事な時期だ。このときの決定で人生の全てが左右されるとは銀八自身思ってはいないが、この選択が後々後悔に繋がるようなことにはしたくなかった。銀八だってそれなりに責任感をもってこの仕事をしている。
しかしいくら考えても高杉の心を動かすような言葉が思いつかず、行き詰った銀八はがしがしと頭をかくと投げやりに言った。
「あーもうとにかく進学か就職かだけでも決めろよ」
「じゃあ就職」
「おまえが社会に出て働けるとは思わねーけどな」
「うるせぇ。当てはあっからいいんだよ」
「え、なに? 当てあんの?」
思いがけない高杉の言葉に銀八が意外そうに高杉を見た。銀八は大学に進むことが必ずしもいいことだとは思っていない。勉強もせずただモラトリアムを楽しんで時間をつぶす為だけに行くのなら無駄だとも思っている。そのため高杉がちゃんと社会に出て働ける環境があるのならそれでいいと考えていた。だがそんな淡い希望は次の瞬間打ち崩されることになる。
「パパの愛人」
きっぱりと言い切った高杉に、銀八は一瞬動きを止めた。瞬きをして、それから視線に込める温度を下げた。
「それは職業とは言わねーの」
「サービス業だろ」
「ちげーよ馬鹿」
銀八は疲れを色濃くにじませた深い溜め息を吐いた。肺の中の全ての空気を吐き出す長い息だった。ごく自然な動作で懐に伸びた手がまた不自然にピタと止まり、今度は頭に回される。高杉は今度もその手を目で追っていた。
銀八はそんな高杉の視線に気づかず、少し俯きがちに頭を掻いて高杉に尋ねた。
「…おまえ今何人パパいんの」
「あ? 今は一人」
「へー、案外少ないんだな」
「おまえがいつだか見たスイートの奴以上に羽振りのいい奴が、『自分だけにしてくれ』っつーからなァ」
「素直に言うこと聞いてんだ」
「一番払い良いし、相手すんのも楽だしな」
「ふーん…」
しばし沈黙が落ちる。互いに目も合わさない。赤く染まる教室で校庭の部活動の声が遠く聞こえた。
銀八の手が迷いなく懐に伸ばされ、指先がそこにしまわれている煙草の箱に触れたが、触れただけでまるでそれ以上を制止するように握り締められた。
先程から幾度となく繰り返される行為が何を言いたいのか、高杉には分かっていた。そのためそれをじっと見つめていた高杉はついに口を開いた。
「…吸やいいじゃねーか」
「あ?」
銀八の目が高杉に向けられる。何を言っているのかと目が問いかけていた。
「煙草。さっきから吸いてーんだろ」
「あー…まぁ。吸いてぇけど、吸わない」
授業中だろうが幾ら生徒が文句を言おうが決して煙草をやめない銀八がそんなことを言うことに、高杉は眉をひそめた。高杉が教室に入った時に窓は開いていた。しかしいくら窓を開け放っていようと、教室にはいった瞬間わずかにした煙草の香りで高杉の前までは煙草を吸いながら面談していたのだろうということくらい簡単に予測がついた。
それなのに高杉が教室に入り向き合ってからは一本も煙草を吸っていない。幾度となく手は煙草に伸ばされているというのにだ。
高杉はふと、銀八が今まで二人でいる時に煙草を吸っていないことに気がついた。教壇に立っている銀八がいつも煙草を吸っていたから気付かなかったが、最初に援助交際をしていることを指摘されたときも、ラーメンを食べにいった時も、ホテルから出て来たのを掴まった時も、高杉が牛丼を食べてる時も、銀八から高杉に話しかけるときはいつだってその口許に煙草はなかった。
「センセーは、俺といるときは煙草吸わねーのな」
「ん? んー」
「なんでだよ。別に吸やいいじゃねーか」
「…そういうわけにもいかねーだろうが。おまえ仮にも喘息持ちだろ」
「…あー? …あー」
さらりと言われて一瞬なんのことかと高杉は思ったが、すぐに銀八が何を言っているのか思い至った。高杉は子供の頃は気管支が少し弱くて、そのくせ暴れ回り埃を舞いあげるものだからしょっちゅう咳をして、酷い時は発作を起こしていた。
今でも煙草の煙やあまりにも埃っぽいと軽い咳が出るが、成長して丈夫になった気管支はそうそう発作など起こさないし、そんなに注意を払う必要もないと高杉は思っている。実際、なんの支障もなく生活していた。それに高杉の前で遠慮なく煙草を吸う人間などごろごろいる。
「別に、んな気にすることじゃねー」
「こないだの大掃除で一人バンダナ口に当ててたじゃねーか」
「ありゃヅラが…」
幼馴染みの桂も高杉の体質を知っている。だから大掃除のときなどは何も対策を講じようとせずはたきで埃を落としている高杉にバンダナを押しつけ口に当てているよう申し付けたのだった。
最初は高杉もしぶっていたが、割り当てられた場所の余りの埃に仕方なく言われたとおりにバンダナを三角に折って鼻と口が隠れるように巻いた。事情を知らない沖田に見られ、「気合い入ってんねィ。掃除のオバサンみてぇだ」とからかわれたりしていたのだが、どうやらそれを銀八は見ていたらしい。
「とにかく、今は平気だし。さっきからうぜーから吸えよ」
「やだね。吸わねぇって決めてんだ」
「………」
拗ねてる子供のような言い方に高杉の眉間にシワが寄る。そしてついつい口調がきつくなった。
「吸え」
「吸わない」
「吸えよ」
「吸ーわーなーいー」
「………」
それなりにヘビースモーカーであるくせに意地でも吸わない気らしい銀八に高杉が先に臍を曲げた。勝手にしろと言い放ってぷいと顔を背け足を組む。
勝手にするよ、と何でもない風に銀八は言うと今のやり取りなどまるでなかったかのようにまた面談に話を戻した。
「とにかく、オメーの進路さっきのは却下だから。とりあえず進学ってことにしとけ。大学いってからなんか適当な人生探せばいいじゃねーか。親御さんは反対しやしねーだろ?」
銀八の言葉に高杉は少し顔を険しくする。それは些細な反応であったが、自分でも顔を歪めたのが分かった。反応してしまった自分に舌打ちをする。そして難しい顔をしたまま銀八と目を合わせずに投げやりに言った。
「…しねーだろ。進学するって言やァ金くらいいくらでも出すだろうよ」
「なんだァその言い草ァ。金出してもらえるだけ感謝しろー」
俺なんてバイトと奨学金で受験料から学費まで賄ったの苦学生だぞと言う銀八にも構わず、高杉は眉間にシワを寄せ唇を尖らせる。
高杉の家は放任主義で、両親は高杉のことにあまり関わっていない。そんなことは銀八も知っているはずだ。
昔、高杉は桂と塾に通っていた。そしてその塾に銀八は住んでいた。だから三人は顔見知りであるわけだが、当時の関係は教師と生徒ではなく、塾に住んでいる高校生とそこに通っている小学生にしかすぎなかった。高校生だった銀八は子供好きということもなく、塾に通ってくる子供たちと積極的に関わることはなかったために特別親しかったわけではない。
小学生だった高杉はよく授業後に「此処に泊まる」とごねていた。先生である松陽になだめすかされ桂と帰ったり、雇われの家政婦に迎えに来られたりしたが実際、泊まったこともある。銀八は松陽から簡単な経緯を聞いていたのだろう。文句こそ言わなかったがとても面倒くさそうな目で高杉を見ていたので高杉は銀八を睨み返していたおぼろげな記憶がある。
あの頃から対して変わっていない家庭環境を銀八は悟ったのだろう。銀八は重い空気を振り払うように普段と同じ気怠げな声をあげた。
「…んじゃ、まぁ、とりあえずそういうことで。面談終わりー」
ガタリと椅子を引き席を立った銀八を高杉は座ったまま見上げた。赤く染まった銀髪をぼんやりと見つめて問いかける。
「センセー、この後もう帰るだけか?」
「ん? や、まだ他にもやることあんのよ」
「…っそ…」
高杉は一度俯いて銀八から視線を外すと横に置いてあった鞄を掴み、黙って教室を後にした。下唇に少しだけ歯を立てる。もし銀八に用がなかったら、自分は何を言うつもりだったのだろう。その先を高杉は考えないようにした。
校門に向かう途中、鞄の中に振動を感じ高杉は鞄を覗いた。筆箱と借り物のノートをよけると、光り震えて着信を告げている携帯が目に入った。白い携帯だった。
「………」
高杉は取ろうともせずしばらくそれを見つめていたが、やがておもむろに手に取り通話ボタンを押した。知っている声が聞こえてくる。それは高杉になんの感慨も与えることなく鼓膜を震わせ通り過ぎていく。
「…もしもし。ん、………平気、大丈夫。ん、んー。じゃ」
ぱちんと音を立てて携帯を閉じると無造作に鞄にしまいこんでまた歩き出した。しかしすぐに足を止める。視線は斜め下に向けていた。振り返ってみれば教室が見えるだろう。担任はまだあの部屋にいるだろうか。あの窓際に座って、自分を見ているだろうか。そんなことを考える。
けれど高杉は振り返らなかった。再び歩を進めると校門から出て行く。だから銀八と目が合うことはなかった。高杉が一瞬思い描いたまま、教室で高杉の後ろ姿を見つめていた銀八と、目が合うことはなかった。
目的の場所に辿り着いた高杉よりも先に、其処には高杉の就職先候補がいた。
高杉に気付き微笑んでくる。高杉も微笑み返す。それはもはや条件反射にも近い。作り笑顔もうまくなったもんだと我ながら思う。しかしその美醜を問われれば、自分では最悪だと答えるだろう。そんな仕様もない笑みでも、男達の目にはそうは映っていないことを高杉は分かっていた。
誘われるままにその後ろをついて歩く。高杉はふと、足を止め振り返った。聞こえていない声が、聞こえた気がした。人込みのなかに視線を彷徨わせる。高杉自身、何故そんなことをしているのか分かっていなかった。けれどその眼は明確な意思を持って何かを探していた。
「………」
「どうかしたのかい?」
「いや、別に…」
そう言って開いた距離を埋めると男もまた歩き始める。
「………」
高杉はまた、今度は足を止めずに後ろを振り返った。ネオンが輝く眠らない街の人込みのなかに、全てを反射して何色にも染まらない銀色を見つけることは出来なかった。
きっと呼び止めてほしかった。手を引いて、安価なレストランでどうしようもない嘆き文句を聞きたかったんだ