銀八からの電話は時間に規則性はなかったが大抵3日開けずにかかってきた。それを受けるために高杉は今まで家にいなかったような時間に家にいるようになった。鳴るかもしれない電話の前で待機するような真似はしないが、高杉が電話を心待ちにしているのは自覚の有無はさておき事実だ。
たまに銀八の電話がやけに早くて、友人と遊んでいたために家を開けているときにかかってきていることがある。誰もいない真っ暗な室内で留守電ボタンだけがまるで「おかえり」とでも言っているかのようにチカチカと光っていて、『帰ったら電話するように』というメッセージが残されていた。
携帯にかけろと言ったのに。そう思いながらも高杉はカバンを放るとすぐに電話をかけた。番号は既に覚えている。最初は携帯電話に登録したっきりで覚える気などなかったのだが、電話代がと銀八が言うので家電からかけていたらいつの間にか指が自然と動くようになっていた。
回線が繋がり、何処にいたのと平素より僅かに堅い声で問い掛ける銀八に『友達といただけなのに。俺って信用ねーなァ』とわざとらしく哀しんで嘆いてみたりした。あるはずの距離がなくなるのは音声だけで姿は見えない。自然と浮かぶ笑みを殺すこともなく、高杉はささいなやりとりを楽しんでいた。
『今日はこんなことがあった』と、その日あったことを言うと銀八がそこから話を広げてくれる。楽しかったことはどんどんと膨らみ、逆に苛ついたことなどはすぐに会話が萎んでしまう。そのため高杉は楽しかったことだけを銀八に言うようになっていた。すると不思議なことに嫌なことはあまり気にとめないようになって、以前より毎日が楽しくなったような気もしてくる。
銀八との会話の話題を探すために学校にもちゃんと通うようになると、クラスメイトとの会話が増える。日常の中で作らない笑みを浮かべることも多くなった。
ある朝、高杉は歩いて学校に向かう途中、後ろから声をかけられた。
「随分とご機嫌だな」
抑揚のないその声に、高杉は振り返った。以前ならばその声を聞いただけで不機嫌そうに顔を歪めていただろうが、今はそんな気分にはならなかった。少しだけ作った笑みで対応する。
「よォ、ヅラ」
「ヅラじゃない。桂だ」
「どーでもいいんだよ、んなこたァ」
「良くない」
高杉は高杉にとってどうでもいいことをいちいち咎める桂が煩わしくて仕方ないのだが、今は特別気にするでもなく、むしろ予想通りの桂の反応にキャッキャと機嫌よく笑った。そんな高杉を見て、桂は表情を変えずに問う。
「近頃何かあったのか?」
「なんもねぇよ」
そう言う高杉の顔には上機嫌を隠そうともしない笑みが浮かんだままで、分かりやすい奴だ、と桂は心の中で呟いた。決して口には出さない。下手なことを言って、折角の高杉の上機嫌を壊す気はない。と言っても無自覚で地雷を踏むことはよくあるのだが。
「最近、やけに真面目に学校に来てるな」
「悪ィか?」
「いや。いいことだ」
「先公みてーなこと言うんじゃねぇ」
不愉快そうに言いながら、それでも桂が肩を並べて歩いても高杉は何も言わなかった。普段の高杉ならこうはいかない。鼻歌交じりで歩く高杉を横目で伺いながら桂は高杉のゆったりとしたペースに合わせて歩く。
一度そこで会話が途切れた。二人は会話のネタを探すでもなく黙々と歩く。二人にとって沈黙は不快なものでもわずらわしいものでもないのだ。
「ヅラぁ」
「なん…」
不意に呼ばれた桂が高杉に視線を向けるその前に、高杉は桂の胸倉を掴んで引き寄せると桂の唇に自分の唇を軽く触れさせた。今、二人がいるのは学校の目の前の公道だ。周囲には同じ場所を目指す生徒達、サラリーマン、散歩中の年配の方などが普通に歩いている。
一瞬目を見開いた桂に対して、数センチの距離で高杉は愉快そうに唇を吊り上げるとすぐさまくるりと桂から顔を背けて桂が連れていたエリザベスによじ登った。
「教室まで走ってけ」
エリザベスの頭を叩きながら高杉は塀の向こうにある校舎をを指差す。傍若無人な高杉に腹を立てたエリザベスは、頭上の存在を払い落とそうかそれとも言う通りにしたほうがいいのか、とるべき行動に迷って桂を見た。
朝から子供のようにはしゃぎ通しの高杉に対し桂は小さく溜め息を吐くと、「連れてってやれ」とだけ言った。エリザベスはその言葉に従い走り出す。高杉の笑い声が遠ざかっていった。
それを見届けて溜め息を吐いた桂の背後から原付の音が近付いてくる。それは真後ろで止まり、次いでよく知った声がした。
「見ーちゃった」
それは台詞とテンションの釣り合っていない、棒読みの低い声だった。桂は背後に視線を向けた。目印とも言える銀髪はヘルメットに押しつぶされて僅かしか見えない。
「…先生か」
桂と高杉は幼馴染で、桂も銀八とは昔からの顔見知りだ。しかしいくら昔馴染があるからと言って桂は高杉のように堂々と教師を呼び捨てにしたりはしない。ほんの少し足をとめて、原付を転がす銀八が横に並んだを見てから桂はまた歩き出した。
「何? おまえら仲悪いんじゃなかったの? ガッチガチの中学生のくせして、ちゅーされたってのに随分と平然としてんなァ」
隠されていた彼女とのデートを目撃したかのような、からかおうとしているのが手にとるようにわかる銀八の言葉にも桂は慌てるでもなく冷静に応じた。
「あんなの高杉の気紛れだ。今に始まったことじゃない」
「そうなの?」
「あぁ」
「へー…」
エリザベスが駆けて行った方向を眺めながら、銀八は意外そうに声を漏らした。自分でも何がそんなに意外だったのか、銀八はよく分かっていなかった。
「んでおまえは文句も言わずにちゅーさせてやってんのか」
「下手に文句を言って、奴の機嫌を損ねさせることはないだろう。寝た子を起こすほどやっかいなものはないからな」
「そりゃ賢明だな。でも好き勝手させると、わがままな子が出来上がんぞ」
「あいつに関して言えばもう手遅れだ」
桂は平然とそう言い放つと、逆に質問をし返すことで話題の方向を変えた。
「先生は近頃の高杉の上機嫌のわけを知っているか?」
「さァ?」
考える気もない即答に桂は僅かに顔をしかめて見せたが、すぐにまた表情を戻した。
桂は知る由もないが、銀八の言葉にはほんの少し嘘があった。高杉の上機嫌の理由に、銀八は全く見当がないわけじゃない。
銀八が高杉の家に電話をかけるようになってからだということを考えれば、もしかしたら自分の電話が少なからず関係ているのかもしれない。
だが、高杉がそんな自分からの電話くらいで喜ぶような可愛らしい性格かと言われると自信がないから白々しくとぼけて見せた。
桂がまた口を開いた。
「最近、風紀委員の3人と仲良くやってるようだ」
そういえば高杉が少し前に電話で言っていたような気がする。近藤、土方、沖田の名前が彼の口から出ていた。銀八は教室で高杉と彼らが会話をしているところを見たことはないが、桂は同じ室内にいる時間が銀八よりも長い。きっとその眼で一緒にいてなにやら話している所を見たのだろう。
「あァ、みたいだなァ。友達が増えるのァいいことだー」
「今は高杉の機嫌がいいからつるんでいられるのだろうがな」
「友情ってのは喧嘩を繰り返しながら深めていくもんだろうが。オメーは余計な心配しなくていいんだよ」
「…先生」
「あん?」
「俺はさっき一つ嘘をついた」
「あ?」
なんら変わらない口調での突然のカミングアウトに、銀八は訝しげに桂を見た。桂は表情を変えぬまま真っ直ぐな目で前だけを見ていた。真一文字に閉ざされていた口が開く。鞄を握る手に少しだけ力がこもっていた。
「本当は―――、」
「おまえってキス魔なんだってね」
『はァ? なに言ってんだいきなり』
前触れもなく切り出した話題に、電話の向こうで訝しがる声があがった。銀八は電話を耳に挟み、今日やった小テストの採点をしながら言葉を続けた。
「今朝ヅラにちゅーしてただろ。見ちゃったんだなぁこれが」
『あー? …あーあー、したした。そういやしたなァ』
記憶の糸を手繰り寄せ目的のものにたどり着いたのか、高杉の声色に確信めいた力強さが込められた。どうやら桂とのキスは意識して思い出そうとしなければ思い出せないくらい高杉は気にも留めていないようだ。
「ヅラによると、おまえ他の奴にもちゅーしてるらしいじゃん」
桂との会話で高杉がキスした、もしくはキスしようとした人物の名前をいくつか聞いた。そのほとんどが同性であった辺り、どう捉えればいいのか銀八は正直よく分からないでいる。それでも会話の流れでつい言ってしまっていた。
『それがなんだよ。単なる戯れだろォ』
「戯れ、ねェ…」
ただ唇と唇を軽く触れ合わせるだけ。
確かにたったそれだけのことだけど、戯れとして済ませていいものかと銀八はつらつらと考える。キスというのはもっと、特別なものではないだろうか。自分の考えが古臭いかとも思うが、やはり軽々しく交わしていいものではないと思う。そんな銀八の考えにも関わらず、高杉はケラケラと笑った。
『センセーも俺にキスして欲しいか?』
愉快そうな声が電話越しに聞こえた。その声から姿を見なくてもわかる。きっと今高杉は楽しくて楽しくて仕方がないといった顔をしているのだろう。
「あー? ガキはお断りなんだよ」
これ以上無いほどめんどくさそうに言って、鼻で笑われてこの話題は終わる。銀八はそう思っていたが意外にも高杉が食い下がってきた。
『ガキの戯れなんだからいいじゃねェか』
「は? 何? おまえ俺にちゅーしたいの?」
『したいっつったらさせてくれるか?』
「させねー」
『なんだよケチ』
まぁ別にしたくなったら勝手にするからいいし、と言う高杉の声を聞きながら、銀八は朝の桂の言葉を思い出していた。
『俺はさっき一つ嘘をついた』
『あ?』
『本当は、高杉の機嫌を損ねないためなんかじゃ、ないんだ』
銀八は一瞬何のことかと思ったが、すぐに高杉の気紛れなキスのことだと気がついた。先程桂は抗議して高杉の機嫌を損ねては面倒だと言った。どうやらそれが嘘だったらしい。今、桂が嘘だと言わなければ銀八はその言葉を信じたままだっただろう。そして信じたまま特別支障もなく日常は過ぎていくはずだった。わざわざ己の吐いた嘘を告白した桂は銀八に目を向けぬまま淡々と言葉を続けた。
『言えなかったんだ。文句なんて』
そう言った桂の横顔に、ほんの少し影が落ちた。少し俯き、視線を下げたせいだ。銀八は何を言うでもなく黙って桂の言葉に耳を傾けた。
『初めて、あいつが俺にキスしてきた時、俺はあいつを怒鳴りつけてやろうと思った。何をするふざけるな、と』
『うん』
『しかし、俺に口付けてすぐに距離をとった高杉の顔を見たら、俺は何も言えなくなってしまった』
『うん』
『あいつは、高杉は今まで見たこともないような顔で笑っていて、俺が何も言えずにいると、そのままいなくなってしまって』
『うん…』
『あの時言えなかった文句を、今更言えるわけもない。文句を言うべきなのか、したいようにさせるべきなのか。俺はあいつに口付けられる度考えるのだが、まだ答えが出ないのだ』
そう言った桂は、まっすぐ、何処か遠くを見るような目をしていた。きっと同じ方向を見ても、桂の目に映るものを見ることは出来まい。銀八はなんとなくそう感じていた。
『銀八?』
高杉の声に、意識を引き戻される。反応がなくなったことを訝しんだのだろう。銀八は高杉が電話越しで唇を尖らせてる姿を想像した。
『聞いてんのかよ』
「あー、悪ィ悪ィ。お天気お姉さんの天気予報見てた」
付けっ放しのテレビでたまたま天気予報をやっていたので適当にそう答える。高杉はやはり機嫌を損ねたようで次々と文句を並べたが其処は大人の余裕で躱しておく。銀八にとって高杉は昔から少しばかり気が短く接するのが難しい子供だったが、基本的に分かりやすく扱いやすいと思う。基本的に、だ。
『悪いと思ってんなら今度なんか奢れ』
「またかよ。おまえ幾ら俺の財産搾り取る気?」
『絞れるほどあんのかよ。干涸び切ってるくせによォ』
それはからかうような声色でつい先ほどまでの不機嫌さはもうナリを潜めている。テレビを見れば週間天気が映っていた。今週はくるくると変わる不安定な天気のようで、晴れも曇りも雨も全てのマークが散らばっている。高杉の機嫌はこれから7日間の天気と同じだ。よく変わる。
けれど雨は雨、曇りは曇りと目で見て取れるように高杉の機嫌の善し悪しも一目見れば分かったので銀八はそれ以上彼の心に踏み込もうとはしなかった。表面を撫でるだけで、全てわかっているような気になっていたのだ。傲慢だった。振り返って思う。けれどそれは飽くまで未来から今を振り返って思うことだった。
高杉が今この瞬間、機嫌よく笑っていたとしても、変化の激しい仮面の奥にある変わらず存在する深く暗い感情に、銀八は気付かないでいた。
ごめんな、もっと踏み込めばよかった。なんて、なんの意味も持たないな