欲望に満ちた獣じみた行為をするためだけに借りるには余りにも広いホテルの一室にシャワーの音が響いている。その部屋のベッドで高杉は片手で携帯をいじりながら俯せに寝そべっていた。なんの感情もない瞳に見つめている画面が映っている。
この部屋に入ってから脱いだのは着ていた薄いセーターだけだ。ワイシャツもズボンも靴下も身に着けている。まだ。
自分からさっさと脱いで裸で相手を待ちはしない。高杉に露出の趣味はないし、相手は自分の手で高杉の服を脱がせたいのだと知っているからだ。その時の男の表情と手つきは素直に気持ちの悪いものだと思う。思うのは自由だ。口に出して言ったことはない。
高杉が今いる此所は安いラブホテルなんかではない。高級ホテルのスイートルームだ。手触りの良いふかふかのベッドで寝そべって雨音にも似たシャワーの音を聞いていると眠くなってくる。欠伸をひとつするとくっつこうとする瞼をこすった。
早く出て来いと思っていたら水音が止まった。次いで扉の開く音がして、ヒトの気配が近付いて来る。
「待たせたね」
掛けられた声に高杉は携帯を閉じた。それを中身が入っているとは到底思えない薄いスクールバッグが置いてある近くのソファに向かって弧を描くように投げ、体を起こそうとした。それを肩を掴まれて中断させられる。
その代わりゆっくり仰向けにされて、目が合うと微笑まれた。その目には欲望に彩られた本能がありありと見てとれた。そしてその仕様もない瞳に映る自分の顔も見て、高杉は目を細めると唇の端を吊り上げた。我ながらどうしようもなく不細工な笑みだった。
男の顔が近付いて来て、唇が高杉の首筋に触れる。そのまま覆い被さられ、器用にワイシャツのボタンが外されていくのにも構わず高杉は笑みを消すとぼんやりと影の中でも真っ白な天井を見上げていた。
柔らかくもない手が肌を撫でる感触は本当に気持ち悪い。近すぎて直にかかる吐息もだ。けれどそれらを嫌悪したことはない。
この行為に快楽など高杉は求めてはいない。普段頭の中を占める何もかもをこの瞬間だけは箱にしまって、何も考えないでいられれば他の何がどうでもよかった。
奉仕しろと言われればそれだけに集中すればいいし、啼けと言われれば女優顔負けの演技をすることだけを考えていればいい。腰を揺らめかせて相手を翻弄してやるくらいには慣れた行為になっていた。
どれにしても、日常から離れることができる。たとえ束の間のことだとしてもだ。
ホテルの室内に、また水音が響いていた。
今日の男が二度目のシャワーを浴びているその間、高杉は今度はベッドで待つなんて真似はせず服を着込むとトイレに向かった。そしてそこで指で喉の奥を突き、胃の中のものを全部吐き出す。
すべてが終わった後は何時だって胸がムカついてどうしようもないほどに気持ちが悪く、男が行為の前に奢ってくれる高級レストランの料理が消化されるのを待つことも、飲めと言われて飲まされた生臭い白濁を胃の中にとどめておくなんてこともとても出来ない。
どうせ全てを栄養として取り込むことなく排出してしまうのだから奢ってくれなくてもいいのだけれど、金は向こう持ちなので文句を言ったことはない。ただ、手の込んだ料理を前にするとそれを作ったシェフや、食材を作った人たちにはほんの少しだけ申し訳ない気持ちになる。
胃の中が空になると大分気分がすっきりした。生理的に浮かんだ涙を指先で拭うと口をすすぎ、机に置かれた現金をズボンのポケットに無造作に突っ込んだ。そして男がシャワーを終えるのを待たずにホテルを後にした。
ふらふらとホテルの敷地から出たところで後ろから知った声がした。
「よォ、問題児」
ぴたと足を止めて、高杉は表情を変えることなく振り返った。銀色の髪が夜のネオンを受け色付いているのが見えた。
「銀八…」
「先生をつけろー。先生を」
「なんでいんだ」
「ん?んー…。いやね、生徒が夜遊びで補導されたら呼び出されてめんどくさいなァって思って」
後つけてったらオジサンとこんないいホテル入っちゃうでしょ? こっから先入るに入れなくて此所で待ってたの。
そう言いながら銀八はおもむろに高杉に近付いてその横に立った。高杉は銀八の目を見上げたまま黙り込む。自分を抱く男達は鼻で笑いたくなるほど分かりやすい目をしているのに、銀八の目はいくら覗いていてもその真意が見えず高杉はほんの少しだけ眉を寄せた。
銀八は本当に些細な高杉の反応に気付いたのか気づいていないのか、何食わぬ顔をして高杉の頭に手を乗せほんの少しだけ髪を乱すと高杉を追い越し歩いて行く。
「さ、さっさと帰んぞ」
高杉はその場に突っ立ったまま、その後ろ姿に声を投げた。
「俺が泊まったらどうする気だったんだよ。朝までいる気だったのか? あ?」
馬鹿にしたような響きを含ませれば、銀八が振り返った。
「泊まらねーだろ。おまえは」
至極当然といった顔でそう断言されて、高杉は銀八の後頭部を睨み付けると駆け寄って空に近い鞄を銀八の背中を思いきり叩き付けた。銀八の状態が傾ぐ。足もたたらを踏んだ。そのまま転ぶなどという無様なことにはならなかったが、突然の凶行に銀八は高杉を信じられないものを見るような眼で見つめた。
「いっ…! おっまえ、教師に暴力ふるっていいと思ってんの?」
「腹減った」
「あ?」
会話が完全に食い違い、銀八は眉をひそめた。高杉は銀八に一撃を食らわせたことなど忘れたように前を見たまま言葉を繰り返し、かつさらに一言付け加えた。
「腹減った。なんか奢れ」
「………」
高杉の言葉を正しく理解した銀八の顔がみるみる険しくなる。
「ざけんなよ。なんで俺がまたオメーに奢らなきゃなん…」
「そうだな。今日は牛丼が食いてェ。吉牛行くぞ吉牛」
銀八の言葉を遮り、高杉は銀八の服を引っ張って街中を歩いていく。銀八はろくに抵抗もせずただ引きづられるように歩きながら、自分の手を引く高杉の頭をじっと見つめて声だけはいかにもめんどくさいという色をこめて文句を垂れ流した。後ろに目などない高杉が銀八のその表情を見ることはない。
それでも結局二人で牛丼屋に入り、券売機の前に立っている。
「オメーここは豚丼だろォ。今牛は高ェんだぞ」
「俺ァ牛丼っつってんだろうが。あと味噌汁もな」
「…てめ、自分で買えやァァア! ってか味噌汁欲しいなら松屋に行きゃよかったじゃねーか!」
「うっせーな。吉牛が食いてぇんだよ。…ったくわーったよ」
銀八の言葉に高杉は煩わしそうに顔をしかめ、ポケットに手を突っ込んで先程の一万円札を取り出した。それを券売機にいれようとしたところで銀八に手を掴まれた。
「んだよ」
「やめろ。その金は使うな。な?」
険を込めた目で見上げた銀八の表情が思いの他真剣だったので、高杉は何も言わず素直にまたポケットに諭吉を戻した。
それを見て銀八は哀しげな溜め息をつくと相変わらず薄い財布を取り出し、紙幣を取りだした。豚丼と味噌汁の食券を押す。銀八の指先が牛丼を押そうとしたとき、高杉が声を上げた。
「大盛りがいい」
「…おまえね、ホントマジ調子に乗んなよ?」
「大盛り」
頬を引きつらせている銀八を高杉は平然と見つめ返す。二人の間の静かな攻防戦はしばし続いた。
「あーあー、オメー、これで俺が糖分買えなくて動けなくなって働けなくなって、働けないから給料ももらえなくなって糖分買えなくての最悪スパイラルになったら恨むかんな」
豚丼を出されたお茶で食べながら銀八は恨みごとをだらだらと述べる。
「んなことになったら俺のヒモにでもなるか? 養ってやるよ。稼いでるから」
高杉は牛丼を食らいながらなんでもないように言った。その言葉に特別な他意はなかった。むしろ親切心にも近いもので、するりと喉からこぼれおちた言葉だった。
「おまえね…」
銀八が呆れ顔で自分を見ていることに気付き、高杉は自分の言葉を鑑みて銀八の胸中を悟ると味噌汁に手を伸ばしながらニヤリと笑ってみせた。
「冗談」
「笑えねーんだよ。オメーの冗談は」
高杉はそれ以上何も云わず、口元に笑みを湛えたまま湯気の上がる味噌汁に口付けた。そしてまた牛丼に手を伸ばした高杉を銀八はしばらく見つめてから、自分もまた豚丼に箸を付けた。
黙々と食べて、先に食べ終わった銀八は水のグラスを手で弄びながらまだ食べている高杉に視線を向けずに口を開いた。
「おまえさー、こんな時間にんなに食ったら太るぞ」
「若いから平気」
「甘く見てっとクルんだよ。だいたいパパになんか奢ってもらわなかったわけ? あそこレストランあるじゃん」
「なんだっけか、食べたけど、…今ァ牛丼な気分なんだよ」
「あそこって普通の部屋も高ェよな。…スイート?」
「スイート」
「うっわ。俺も入ってみてェー…」
「窓からの眺めが最高だな。街を一望出来んだ。ま、3回も見りゃ飽きる」
「ふーん。…実際どんぐらい金貰ってんの?」
「秘密」
高杉は味噌汁を飲み干して一息ついた。そしてまた丼を手にする。
銀八は丼を手に持ち子供のように食べる高杉を眺めながら世間話をする軽さで言葉を紡いでいく。
「パパと付き合う目的はなんなの? やっぱ金?」
「金もあるな。まァ、金になる暇潰しだ」
「やめる気は?」
「ねェ」
高杉がきっぱりと言い放てば、銀八はしばらく黙り込んでから片手を紙に、もう片手を懐に伸ばした。ボールペンを取り出してなにやら書いている。
「?」
「オラよ」
銀八に差し出された紙を高杉は首を傾げながら見た。そこには数字が並んでいた。配列からすると電話番号のようだ。
「センセーん家の電話番号。オメー連絡網つくんの拒否したから知らねーだろ。どうしようもなく暇ならウチに電話でもかけろ。生徒思いのセンセーはオメーの暇潰しに付き合ってやる」
「…センセーと話すことなんかねーなァ」
そんな高杉の言葉にも構わず銀八はさらに言葉を続けた。
「んでもって、毎日とは言わねーけど抜き打ちでおまえん家電話すっから。俺が電話したときいなかったら、あーっと、あれだ。とにかくなんかすげーことになるからな」
覚悟しとけよ、と告げる銀八を高杉は黙ったまま見つめ、それから机の上の電話番号に目を向けた。
「家電じゃねーか。センセー携帯持ってねーの」
「持ってっけど」
「そっち教えろよ。俺がかけた時センセーがいなかったらどうすんだよ」
「まぁ、そんときは諦めろや」
「諦めてパパんとこ行けって?」
「あ? なんでそうなんだよ」
「だってセンセーが掴まらないんじゃ、暇潰しの相手はパパしかいねーだろォ?」
試すような笑みを浮かべて高杉は銀八を見つめる。
「それがダメなら教えろよ。別に減るもんじゃねーだろォ?」
教えろ教えろと繰り返す高杉に、銀八はついに仕方なさそうに携帯を取り出した。プロフィールを開いて高杉に差し出す。それを受け取った高杉は画面を一瞥すると、携帯電話の外装をくまなく見た。
「赤外線ついてねーのかよ」
「ついてねーよ。いつ買ったやつだと思ってんだ」
めんどくせーとぶつぶつ文句を言いながら高杉は鞄から携帯電話を取り出した。
ちらりと銀八の視界に入った高杉のスカスカの鞄にはもうひとつ携帯電話があった。高杉が今手にしている黒い携帯とは真逆の、白い携帯だった。
「なにおまえ、携帯二つも持ってんの?」
「あー、使い分けてっから」
「うっわ。あんだよそれ」
「こっち普通用。もう一個パパ達専用」
高杉は銀八を見ずに銀八の携帯電話と自分の携帯電話を交互に見ながらかしかしと電話番号を打ち込んでそう言った。
「ふぅん…」
「出来た」
ぱたんと携帯電話を閉じる音が響いて、銀八に携帯電話を返しながら高杉は通話ボタンを押した。しばらくの間をおいて、銀八の携帯電話が震えて着信を告げる。
高杉が携帯を切ると同時に切れたことで、銀八はディスプレイに表示された見知らぬ番号が高杉のものだと知る。
「銀八ィ、俺が家にいなかったらこっちかけろや」
「はァ?携帯になんかかけるわけねーだろうが。電話代馬鹿になんねーじゃねぇか」
「着信残しといたらこっちから折り返しかけ直してやるよ」
高杉は目も唇も弓のようにして笑っていた。何がそんなに面白いのか本人にもよくわかってはいないが、それは作り笑顔ではなかった。
「それなら文句ねーだろ」
「んー…まぁ」
銀八はまだ何か言いたそうにしていたが、高杉があまりにも嬉しそうに笑うので言葉尻を曖昧にして喉まで出かかった言いたいことを飲み込んだ。それに満足して、高杉はさらに笑みを深くする。
店を出て銀八と別れて、高杉は自宅に戻ると鞄をソファに無造作に放り投げ、黒い携帯電話を握り締めたまま自室のベッドにダイブした。
ごそごそとポケットをまさぐり、銀八の自宅の電話番号のメモを取り出す。それは大分よれてみすぼらしくなってしまっていたがちゃんと番号はとどめていた。携帯電話に数字を打ち込んで、通話ボタンを押す。
8回目のコールの後、回線が繋がる音がした。
『はい、坂田ですけどォ』
「お。繋がった」
『高杉ィ? おま、なんだよ何の用だこんな時間に。ってかさっきまで会ってたじゃねーか』
「いやァ? 用はねーがてめぇのことだから番号間違ってんじゃねーかと思ってよ」
『はァ? 自分ちの電話番号間違えるわきゃねーだろォ』
「おまえ自分のこと誰だと思ってんだ? 十分有り得るだろーが」
『おまえどんだけ俺のこと馬鹿にしてんだオイ』
「馬鹿を馬鹿になんかしねぇ。まぁいい。試したかっただけだから。じゃ」
『オ―――』
最後まで聞かず、ぶつ、と高杉は一方的に電話を切った。携帯電話を握り締めた手をベッドに下ろして頭も枕に押しつける。
「………」
ごろりと一度寝返りをうって仰向けになると、窓の外に目をやった。透き通った月の光が差し込んでいる。
妙に弾む気持ちが胸を占めている。こんなのは何年振りかもわからない。何かに似ているこの感覚は遠足前の高揚感に近いものがある。それに気づいた高杉は一人苦笑した。
(…ガキかよ…)
自身を鼻で笑いながら、見慣れた天井をしばらく見つめる。だんだんと吊り上っていた口元は下がり、表情が消える。ゆっくりと目を閉じ、そのまま眠りについた。
それは本当に些細な、すぐに切れてしまう繋がりだったけれど。何故だかとても、嬉しかった。本当に