高杉が目を覚ました時、真っ先に目に入ったのは見知らぬ天井だった。本当は白であろうそれはほんの少し影を帯びていて薄暗い色をしていた。
「………」
高杉はまだぼんやりとする頭でどうしてこんなところにいるのかと考える。現状が全く掴めなかった。
どうして自分は此処にいる? そもそも此所は何処なんだ?
視線を巡らせると、カーテンがあった。保健室に良く似ているけれど、何かが違う。さらに視線を動かせば自分の左側に点滴を見つけた。その管を辿ると自分の生白い腕にたどり着く。
のろのろと腕を持ち上げて針が挿さっている左腕を見つめた。なんだこれは。どうなってる。
混乱を極める頭が状況を把握するよりも早く小気味好い音がして、そちらに視線を向けた高杉は目を見張った。
ふわふわとした銀髪がカーテンを開けて入って来たのだ。
「あ、起きたか。良かった〜」
こんな調子の声を、前にも聞いたな。そんなことを思いながらも突然の銀八の登場に高杉は動揺を隠せなかった。
自分の置かれている状況すら把握できていないのに、何故この男が現れるのだろう。
そんな高杉の動揺など気にも留めぬ様子で、銀八はやはりいつかのように勝手にベッドサイドに椅子を持ってくると其処に腰掛けた。
改めて視線を向けられ、高杉の動揺が酷くなる。警戒心をあらわにしたまま銀八を睨みつけてみるが、銀八は柳に風と全く意にも介さぬ様子でそのぼんやりとした瞳に高杉を映した。
「職員室で血ィ吐いて倒れたの覚えてる?」
「血…?」
言われて高杉の瞳に困惑が浮かぶ。何の話をしているのだろう。何時の話をされたのだろう。記憶の糸を手繰り寄せれば、それは今朝の目覚めから始まった。
今朝、目覚めたら銀八がいて酷く驚いたのを覚えている。確かに傍にいろと言ったのは自分だったが、目覚めたときに銀八はもういないものだと思い込んでいたからだ。
他愛ないやり取りを経て銀八が部屋を出ていき、今度こそ本当に一人になって考えた。
また、前みたく構ってくれるんだろうか。前みたく電話でも付き合ってくれて―――。
其処まで考えて、横になっていた高杉は再び身体を起こすとリビングに向かった。そして視界に入れないようにしていた電話の方を見る。留守電が入っているなら点滅する赤い光は、点滅することなく光っていた。
「………」
煌々と光っている赤に落胆している自分に気が付いた。何を期待していたんだろう。馬鹿みたいだ。
今ちょっと優しくしてもらえているのは彼が目の前で倒れているのを見つけて、放置するのはなけなしの良心が痛むから。それだけのことだろう。倒れているのが自分ではなくても、きっと銀八はその人に優しくするのだろう。労わってみせるのだろう。
チクリと痛む気がするのは、心か体か。
(…どちらでもいいか)
高杉は布団に潜り込むとまた目を閉じた。それからしばらく眠っていた。再び目覚めたときはもう昼過ぎで、思いがけず熟睡していたようだ。久しぶりにちゃんと寝た気がする。自宅だから、というわけではきっとないだろう。
何か食べようと台所に向かう途中、ふと見たテーブルの上には見覚えのないメモが残されていた。
「?」
手にとってそこに書かれた文字を読む。簡潔で素気ない言葉だったけれど、何度も何度もその文字の羅列を視線でなぞった。
「………」
銀八は何のつもりなんだろう。優しくなんてしないで欲しい。自分のことなんて気にしないで欲しい。構わないで欲しい。どうせまた突き放す気なら、最初から手など差し延べないで欲しい。
ぐしゃりとメモを潰すとゴミ箱に投げ捨てた。素足でフローリングを歩きキッチンに辿り着く。冷蔵庫を覗けばまるで魔法にでも掛かったかのような、昨夜とは比べ物にならない程の充実ぶりだった。
「………昨日は給料日か?」
こんなに買い込む余裕がよくあったなと思いながら、フルーツヨーグルトを取り出す。
(あれ、腹痛いときヨーグルトってダメなんだっけか、…まいっか)
高杉はスプーンを取り出すとそのままキッチンのシンクに寄り掛かって食べ始めた。自分では買うことのない甘いそれはおいしかった。不意に玄関の扉が開く音が聞こえた。
銀八だろうか? 忘れ物でもしたのだろうか? だが今は授業中のはずだ。銀八のはずがない。…誰だ?
高杉が考えを巡らせている間にも足音は近付いて来る。ガサガサとビニール袋が擦れる音も聞こえた。リビングに辿り着いた足音がゴドンと重たい音を響かせてテーブルに何かを置いた。それから高杉の耳に届いた吐息に、高杉は嫌な予感がした。
いや、予感などではない。今は死角になっている位置にいる人物が特定出来た。ただ信じられない、信じたくないだけだ。
どうか違うヒトであれ。そんな高杉の願いは続いて響いてきた声に無残にも打ち砕かれる。母親の声がした。
高杉は母親が苦手だ。昔からあまり接することがなかったせいで、血が繋がっている分他人よりも遠くに感じている。今さらあれこれと世話を焼こうとしてくれるのも煩わしかった。
腹痛が酷くなった気はしたけれど、居心地の悪さに大丈夫だと言い張って学校に向かった。1年次に担任だった坂本と会話をして、そこで銀八に泊めろと言って断られて、また銀八を怒らせて、引き止めようとしてそれで―――。
「………」
もう一度視線を巡らせる。保健室ではない。となると保健室によく似たここは何処かの病院の病室か。
高杉の沈黙をどう受け取ったのか、銀八がぽつりと口を開いた。
「…胃潰瘍だって」
告げられた病名に高杉は鼻で笑った。
「胃潰瘍…? ………だっせー…」
言いながら高杉は腕を額に乗せて自分の視界を塞いだ。ついでにごろりと寝返りをうって銀八に背を向ける。あまりにも情けなかった。胃潰瘍なんて、ストレス社会に生きる中年がかかる病というイメージしかない。それもストレスに負けるような駄目な奴らがなるイメージだ。
それが合っているのか間違っているのか高杉は知る由もないが、どちらにせよ死にいたる病ではない。自分を取り囲んだ喧騒はなんとなく覚えている。あんな大騒ぎされるほどの病でもなかったなんて、恥ずかしいにも程がある。
痛み止めが効いているのか今痛みは治まっているが、高杉は無意識に腹を撫でるよばつの悪さに眉を寄せて舌打ちをした。そんな高杉の拒絶するような背中を見下ろしながら、淡々と説明を続けた。
「でもだいぶ重症で、もうすぐ穴が開いて腹膜炎起こすかも知れなかったって。こないだの貧血も、ずっと胃からじわじわ出血してたせいらしいよ」
「………」
「なんでこんなに放っといた! ってお医者さんにキツーク怒られるかもしれないけど、まぁ自業自得だから」
「………」
まるでHRのときの事務連絡のように語る銀八の声を聞きながら、高杉は耳を塞ぐようにさらに布団に潜り込んだ。
「お袋さんはまた仕事に戻ったよ。一応病状とか報告はしたけど、側にいない方がいいかと思って仕事に行ってもらうよう説得した」
「………」
「俺がついて面倒見るからっつってあっけど、お袋さんのが良ければまた連絡し…」
「余計なことすんなよ」
高杉は銀八に背を向けたまま銀八の言葉に声を重ねた。母親から逃げるために学校に行って倒れたというのに、冗談じゃない。
「…ごめん。でもってついで言うとおまえのパパとも話つけてきちゃいました。もう高杉と付き合わねーってことになったから」
「はァ?!」
銀八の言葉に高杉は跳ね起きて銀八を見つめた。今この男は何を言った。危うく聞き流してしまうような口調で、この男は何を言った。
信じられないようなものを見ている高杉の視線を気にも留めず、銀八は平然と高杉に告げた。
「昨日夜街歩いて、俺結構あそこ知り合い居るから聞き込みでおまえのパパ誰か特定してよ。おまえ基本一夜限りでとくちょく付き合ってる特定の人って1人だけだろ? だから糸切ってきました」
銀八は指先で鋏を作り、それを動かしてみせた。ピースサインにも見えるそれになど目もくれず、高杉は銀八を驚愕の眼差しで見つめ続ける。
「ちなみにおまえが倒れてから丸一日経ってるから。相変わらずよく寝るねおまえ」
などと飄々と告げてくる銀八に、高杉は唇を震わせた。感情が暴走して言葉にならないが、なんとか思考を束ねて言葉を織り上げる。
「ざけんな。なにしてんだてめー。余計なことすんじゃねーよ」
高杉は銀八の胸倉を掴みあげて睨み付けた。対して銀八は小さく手をあげて見せたが、怯むだとかそういったものとは無縁だった。
「胃潰瘍ってさ、ストレス溜めちゃいけないんだって。だからさ、もう一度全部リセットしちゃえよ。それがいいよ、うん」
「てめーに余計なことされるほうがストレスなんだよ。…マジ、信じらんねぇ…」
銀八の言葉に嘘がないのだと感じとると、高杉は手を離してベッドにうなだれた。別に彼らとの関係に未練があるわけではない。顔も合えばわかるが、思いだせないような存在だ。だがそれでもそれなりに高杉には必要な逃げ場だった。それを失ってしまったとなれば、今度からあてどなく何処を彷徨えばいいのだろう。
「………」
「………」
室内に沈黙が落ちた。カーテンよりさらに向こう側、個室のドアの外にお見舞いに来た家族に子供でもいたのだろうか。場違いなほど無邪気で明るく幼い声が聞こえた。俯いている高杉に、銀八が口を開いた。
「俺も俺なりに考えてよ。俺さ、反省したわ」
「………」
突然の銀八の言葉に、高杉は俯いたまま視線を銀八とは逆方向に逸らした。銀八は相変わらず淡々と言葉を続ける。独り言ではない。高杉が聞いていなくても構わないなどと考えているわけでもない。高杉がちゃんと聞いていると知っての言葉だった。
「俺おまえに酷ェこと言った。おまえはパパじゃなくて俺頼ったのに、俺はおまえに酷ェこと言っておまえのこと思いっきり傷つけた」
「………」
「そんなこともうしない。誓う。だからもう、パパと付き合うのはやめてくれ。何かあったら、また俺のこと頼って欲しい。もうこりごりだとか思ってるかもしれねぇけど、調子がいいって思うかもしれねぇけど。俺は金ないからパパみたく金でなんか頼むことできねぇけど、おまえがパパとか他の奴等と付き合うの、俺が嫌だ」
真っ直ぐに言葉をぶつけてくる銀八を見られないまま、高杉の瞳が一瞬揺らいだが、高杉は小さく自虐的な笑みを浮かべるとぽつりと呟いた。
「…それは、俺の担任だからだろ?」
受け持ちの生徒が援助交際をしていて、それを容認するだなんて、洒落にならないから。社会での面目が保たれないから。高杉のためではないのだろう。そう思った。
高杉の言葉に、銀八はきっぱりと言い切った。
「違ぇよ。俺が、嫌なの。担任とか生徒とか、んなのもうどうでもいい」
俺が、を強調した銀八に高杉の視線はさらに揺れる。
どうしてそんなことを言うのだ。そんなことを言って、どうせ、どうせまた。
「どうせまた、俺のこと突き放すくせに…」
気付いたらそんな言葉がこぼれ落ちていた。そして一度防波堤を超えてしまったら、その波はもう止まらなかった。ぼろぼろと堰を切ったようにずっと隠していた心が零れていく。
「そうやって、優しくしといてどうせまた俺を突き放すんだろ。男に色目使って気持ち悪いとか思ってんだろ。気紛れなら、やめろよ。おまけにあいつと会って話しつけた? 冗談じゃねぇよ。勝手なことばっかりして俺のこと振り回してんじゃねぇよ!」
崩れていく。今までの虚勢の城がさらさらと音もなく壊れて行く。今さらそれを立て直すことなど高杉には出来なかった。
滲む景色が不快だ。頬を伝いシーツに染み込んでいく液体の生ぬるさが気持ち悪い。なにより、意地もへったくれもなく銀八の前で泣く自分が酷く惨めでたまらなかった。
「も…どっか行けよ…」
喉が引きつって、詰まったような声しか出ない。それでも銀八には届いたはずだ。それは確信していた。それなのに銀八は動こうとしない。こんな自分など見ないで欲しいのに。むせび泣く自分の声が嫌なのに止められず、それがまた自己嫌悪に繋がる悪循環だ。
「…どうしたら、俺はおまえを安心させられんだろうな」
降ってきた声と、肩に銀八の手のひらを感じて高杉はびくりと肩を竦ませた。そして拒絶するかのようにさらに丸くなって銀八と距離をとる。それでも銀八はもう一度高杉に触れて、ゆっくりと高杉の上体を起こさせた。
優しい手つきにも高杉は涙に濡れた顔を伏せて、視線も銀八には向けない。
しゃくりあげながら銀八の手を弱々しく振りほどこうとする高杉に、銀八は手を伸ばしてその幾重にも重なりキラキラと光る線を拭った。それにも高杉は一々びくりと反応する。
「おまえが欲しいのは何? 言葉? ならどんな言葉? それで安心出来るなら幾らでも言ってやる。それとも態度? どんな態度ならおまえは安心出来んの?」
「………」
そんなことを問われても、高杉の頭に答えなど浮かばなかった。それでもなんとか答えようとするけれど、高杉の唇は震えるばかりで声にならなかった。目も合わすことなどできない。不規則なしゃっくりを返すだけだ。
「俺さ、職員室で倒れてるおまえ抱きしめてさ、おまえ死ぬかもって思ったとき、すっげー怖かった。頭真っ白になったよマジで。ストレスで胃に穴開きそうだったとかさ、ホント自分何やってたんだろって思った。俺、もう逃げねぇよ」
銀八は真っ直ぐに高杉を見つめると口を開いた。
「好きです。君を守らせてください」
「………っ」
高杉の顔が歪んで、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。銀八はそれを飽きもせず何度も何度も指先で拭い取っていく。
「嫌、だって、言ったくせに…」
「うん」
「泊めろ、っつったとき、俺泊めんの、嫌だって、言った、くせに」
「あぁ言ったな」
「ま、えに、俺が誘っ、た時、ナメん、なって…断った、くせに…」
「あぁ断ったな。あんときは言い過ぎた。ごめんな」
「…ふ……ぅ…っ」
それ以上はもう声になどならなくて、高杉はただ啜り泣いた。銀八の頭を撫でる手が優しくて、涙が止まらない。悲しくもないのに、人は泣くのだと言うことを高杉は初めて知った。
「ごめんな、傷つけて」
「…っ」
抱き寄せた腕に逆らわず、高杉は銀八の腕の中に収まるとひたすらに泣いた。髪をすく手が心地よかった。
(もう一度だけ、信じてもいい?)
ぎゅうと銀八を抱きしめた手は、もう振り払われなかった。
側にいてね。今日だけじゃなくずっと。