高杉は午前の段階で授業を放棄し、保健室で惰眠を貪っていた。薄いカーテン越しに怪我をしたり具合が悪くなったりした幾人もの生徒がやってきては立ち去って行ったがその音にはなんの反応も示さず眠りつづけて数時間。 しかしベッドに意思を持って近付いてくる足音に不意に意識が覚醒して、高杉が目を開けたところで背後のカーテンが断りもなく開く。誰だなんて疑問に思う間もなかった。
「高杉ィ、起きろー」
担任の間延びした声が聞こえる。高杉はそれを無視した。頭上の窓から差し込んでいたはずの太陽光が目に映らない。そんなに寝ていた気はなかったが時間は瞬く間に過ぎ去ったのだとぼんやり考える。
「オイコラ無視してんじゃねー。おまえが起きてんの先生わかってんだからな〜」
「…何が先生だ。笑わせんな」
頭上から降り注ぐ銀八の声に、高杉は振り返らずに言葉を返した。目をつむりさらに布団に潜り込む。大きく息を吐いた。
「人と話すときはちゃんとそのヒトの顔を見ろー」
「じゃあ話さねェ」
「ムカツクなコノヤロー」
まぁいい、と銀八はため息交じりに咥えていた煙草の煙を吐き出したので銀八の視界が曇る。煙草の匂いが保健室のほんの少しだけ隔離された空間に広がった。布団越しでもその匂いが高杉のもとにも届いた。それでも高杉はずっと銀八に背を向けたままだった。
「もうとっくに帰りのHRまで終わってんだよね。おまけに最終下校時刻まであと少しなの。さっさと帰れ」
「ダリィ。帰れねー。学校に泊まる」
「オイオイオイ。んなこと出来る訳ないでしょうが」
「………」
それ以上の反応を返すことをやめた高杉に、銀八は溜め息を吐いた。ガリガリと無造作に切られた短い爪で頭をかいて何処と言うこともなく視線を彷徨わせる。 そうして布団からわずかに覗く高杉の黒髪を見つめた。眉一つ動かさず、普段と何も変わらない様子で口を開く。
「一日寝潰すなんて、そんなに疲れた? エロ親父のお相手は」
「―――」
さらりと発せられた銀八は言葉に、高杉は閉じていた目を開けた。だがそれだけだ。それ以上の反応はせず、布団を被ったままであるために銀八にそれは伝わらなかった。 銀八はしばらく高杉の反応を見逃すまいと黒髪を見ろしていたが、一度高杉から視線を離すとその声色のまま世間話でもするように言葉を続けた。
「昨日さ〜、俺見ちゃったんだよねェ。おまえがオジサンと二人で歩いてんの」
「………」
「おまえのパパってあんなんだったっけ? あんま覚えてねーけどよ、もっと堅っ苦しいイメージがあったんだよなァ」
銀八と高杉は、二人が教師と生徒と言う関係になる前からの顔見知りだ。年の差もあり、本当にただお互いにその存在を見知っているだけで深いことは何も知らない。その頃に一度だけ銀八は高杉の父親を見かけたことがあったが、記憶の中の男と昨日の男は似ても似つかなかった。 ちらりと、銀八は再び高杉の様子を伺った。高杉は黙り込んだまま、やはりなんの反応も返さない。高杉に視線を向けたまま、その先を口にした。表情はないに等しい。声色だけがからかうような、その場と言葉にそぐわない軽い、それでいて何処かいやらしいものだった。
「肩なんか抱かれちゃってー。なに小遣い稼ぎ? 割に合うだけもらってんの?」
不意に高杉の肩が震えた。初めての反応だった。続いて殺しきれていない声が零れる。銀八はそれを認めて一旦口を閉ざした。
もぞりと布団が動く。高杉は上体を少しだけ起こし頬杖をついて銀八を見上げた。銀八の目を見つめる。上目遣いはわざとだった。 感情のない顔を見ながら微かに妙な違和感を感じる。死んだ魚の目と言われるその目の奥に、正体の掴めない何かが透けて見える気がした。
その何かはわからないまま、ニィっと唇の端を吊り上げて高杉は言葉を紡ぐ。
「あんなんだよ、俺の“パパ”は。俺にはパパがいっぱいいっからなァ…。てめーが昨日見たのは、そろそろ俺に家でも買ってくれそうなパパだ」
高杉は挑発的な笑みを深くして言葉を続けた。今度は銀八が何の反応も示さない番だった。
「別にうちの学校はバイト禁止じゃねーだろォ? 俺ァ汗水流して働いてるだけだ」
「ベッドの上で?」
「それがどうした」
悪びれた様子もなく高杉は平然とそう言い放つと、また銀八に背を向けて布団に潜った。小さな山が出来上がる。
高杉が背中で拒絶の意を示せば、銀八は此所に来て2度目の溜め息を吐いた。ほんの少し眉を寄せる。ここにきて初めて表情を変えたが、当然高杉はそれを見ていない。
「あのなァ…、俺ァおまえのことガキの頃から知ってっし、それに一応俺おまえの担任だから、心配なわけよ」
「てめーの進退が? 心配しなくても問題は起こさねーよ」
「俺のことじゃなくておまえが。っていうかお前のしてること自体が既に問題だってわかってんの? オイ」
「知るかよ」
もう聞く耳持たない、とでも言うように高杉は耳辺りにあった布団を頭まで上げた。 銀八はそれを無理やりひっぺがそうとはしない。
保健室の区切られた空間内に沈黙が落ちる。それを破ったのは最終下校時刻を告げるチャイムの音だった。 その音に反応して銀八は視線を上げる。無意識に時計を探したが、銀八の視界に目的のものはなかった。
「…あーぁ、鳴っちまった」
「………」
「おまえ、マジ泊まるなんて無理だかんな。見回りの警備員のおっちゃんに捕まって追い出されっから。んじゃ」
そう言って踵を返し銀八はその場から離れようとした。しかし白衣が何かに引っ掛かって足をとめる。
振り返れば、いつの間にか布団から伸びていた手が銀八の白衣をがっちり掴んでいた。布団や白衣の白さに比べればいくらか色があるものの、それでも白いと言って申し分ない指先を見下ろして銀八は問いかける。
「…なに?」
「………」
高杉は頭をあげるとベッドに寝そべったまま銀八をじっと見上げた。それを銀八は見つめ返しながら、見つめていると深く堕ちてしまいそうな、底の見えない瞳だとぼんやりと思っていた。



「はぁ〜…」
ざわめく喧騒の中、銀八は憂鬱そうに溜め息をついた。それに反応して隣に居た高杉が銀八を見遣る。
「なに溜め息なんざついてんだ」
「おまえね、俺今月ピンチなのわかってんの? 絶対ェおまえより貧乏な自信あっから」
「今月も、ピンチだろ」
胡麻団子を口に運ぶ銀八の横で、高杉はずるずるとラーメンを啜った。口を動かしながら、カウンター越しにいる店員に、此所の勘定をもつ銀八の許可も得ず慣れた様子で餃子を一枚追加する。
「おまっ…!何してんのォォオ!!」
「うっせーな。腹減ってんだよ」
そう言って高杉は烏龍茶に口をつけた。胡麻団子に水だけの銀八に対し、彼に遠慮というものは欠片もない。
高杉は今日昼食を寝過ごして取り損ねた。朝は食べない主義であるため、このラーメンが今日初めてありつく食事だった。しかしそんな高杉の事情など、銀八の知るところではない。
出て来た熱々の餃子を辣油をたっぷり入れた醤油につけて食べる。無表情で特別おいしそうに食べているわけではないが、いい食べっぷりであることに違いはない。 そんな高杉を、銀八は情けなく眉を下げ諦めたように水を飲みながら眺めていた。
数十分前のことだ。ラーメンを奢れ、と保健室で高杉が言い出した。奢ってくれなければ帰らない。銀八の白衣を掴んだままそう駄々を捏ねた。それに対し銀八は眉を寄せて見せた。
「なんで俺がオメーにんなもん奢んなきゃなんねーんだよ。ざけんなコノヤロー」
「なんでって食いてェからに決まってんだろうが。いいじゃねぇかラーメンくらいよォ」
「いーやーだ。手ェ離せ」
「………」
白衣を引いて解放を求める銀八に、高杉はふてくされたように銀八を一睨みするとあっさりとその手を離した。そして枕に額を押しつける。
「銀八センセーが意地悪言うー」
「何が意地悪だ。カワイコぶってんじゃねー」
「センセーは俺のことが嫌いなんだー。あーあー俺ァ哀しいなー」
感情のない棒読みの台詞がくぐもりながらも銀八の耳に届く。今日日子供でももっとうまくやるような、下手な芝居だった。
「そーそー、聞き分けのねーガキぁ嫌いだよ」
銀八の言葉に高杉がパッと顔を上げた。
「死んでやるよ」
「あ?」
「今から屋上行って、手首切って血で遺書書いて飛び下りて死んでやるよ。『俺は銀八センセーに嫌われました。もう生きていけません。この世の皆さんサヨウナラ』って書いといてやる」
「はんっ。やれるもんならやっ…」
言いかけて銀八は最後まで言わず其処で言葉を切った。
やりかねない。コイツなら。
「………」
「やれるもんなら? そっから先言ってみろよ」
ニヤニヤと高杉は悪戯な笑みを浮かべている。
放っておけば良かった。『高杉がまだ保健室で寝てる』なんていう保健医の言葉なんか。
銀八がそう思った時にはもう時既に遅い。
ずずーっと汁まで飲んで満足そうに息を吐いた高杉に対し、銀八は溜め息をついて自分はおかわりした水で満ちていたコップを空にした。
「どうしてくれんだ。これでまた松平先生に金返せなくなっちまったじゃねーかコノヤロー」
文句を垂れながら銀八は伝票を掴んで自分の財布を取り出した。安物のそれは使い古され大分みすぼらしく、薄かった。
銀八の言葉に反応して、高杉は銀八に目を向けた。
「金…? いくら借りてんだ?」
「3000円。明日耳揃えてかえせって言われてんだよ。何言われるかわかったもんじゃねー」
ブツブツと文句を言う銀八を尻目に、高杉は少し考えるように銀八から目を逸らした。そして間をおかずポケットから無造作に諭吉を取り出し銀八に突き付けた。
「ほらよ。貸しといてやる」
「…あ?」
銀八は突き付けられたしわくちゃになっている一万円札を見て眉を寄せた。高校生がぽんと、それもポケットから出す金額ではない。訝しげな表情のまま高杉を見れば、高杉はなんでもないような顔をして銀八がそれを受け取るのを待っていた。
「とりあえずその3000円は俺が立て替えてやるよ。これだけあれば余裕でここの会計も松平センセーに借りてる金も足りるだろ。そのうち返せ」
利子は付けないでいてやると笑う顔はどこか悪戯な子供めいたものではあったが、その指先の紙幣が如何せんアンバランスだった。銀八は眉を寄せたまま突き出されている紙に目をやり、再び高杉を見た。
「なにその金。昨日パパにもらった金?」
「だったらなんだよ」
「………いらね。生徒に施し受けるほど落ちぶれちゃいねーよ」
銀八は目を逸らして伝票を手に椅子から立ち上がる。離れていく存在に高杉は機嫌を損ねたように目を鋭くするとその背中を追った。
会計を済ませた銀八の横に立ち、銀八に万札を押し付けた。
「ガタガタ言わずに受けとれよ、万年金欠ダメ教師が」
それでも頑として受け取らない銀八に高杉の苛立ちが募る。最終的に無理やり銀八のズボンのポケットに金を捩じ込んで「ごっそさん」と一人すたすたと帰路についた。銀八が引きとめる隙も暇もなかった。
銀八は高杉の後ろ姿が人込みに紛れたのを見届け、ほとんど押しつけられたも同然で借りることになった一万円札を見た。
シワだらけなのは間違いなく高杉のズボンのポケットにそのまま入れられていたからだろう。あまりにも無造作な扱いだ。きっと高杉の手に渡ったときはこいつはもう少し立派な姿をしていたに違いない。価値は変わらないけれど、だいぶよれてしまったそれはとてもみすぼらしく見えた。
「ったく…」
銀八はとりあえずその一万円札を財布に入れると、だらだらと家路についた。



おまえにもっと大切にしてほしいものがたくさんある。それはお金だけじゃなくて。