此所のところ乾燥してカサカサになっていた唇に不意に痛みが走った。 「いっつ…」 痛む唇に指先で触れれば指先が赤茶に汚れた。ついでに唇を舐めれば血の味がじ わりと広がり、染みて痛みが増す。 高杉は忌々しそうに眉を寄せて席を立った。 「ヅラ、ティッシュー」 「ヅラじゃない桂だ。…どうした?」 「唇切れた」 渡されたポケットティッシュを一枚唇にあてながら高杉は答えた。離せば真っ白 なティッシュに赤い点がぽつりと滲んでいる。 ジクジクと痛む唇にまたティッシュを当てれば桂と席が近い沖田が声を掛けてきた。 「痛そうですねィ」 「痛ェよ」 高杉の痛みは高杉だけのものだ。まるで他人ごとと言わんばかりの呑気な沖田の 口調に高杉は苛立ちを込めて沖田を見下ろすが沖田は平然として高杉を見上げて いる。 「これやりましょうかィ?」 沖田のポケットから取り出されたリップクリームを見て、高杉は変わらず剣呑と した態度で応じる。自己主張する傷口に機嫌を損ねているのだ。 「いらねーよ。舐めてりゃなおんだろ」 高杉の言葉に、沖田は明らかに馬鹿にしたように溜め息をついてちっちっちと舌 を鳴らした。 「舐めるのは逆効果でよけい唇が荒れるんですぜィ。んなことも知らねーなんて、 馬っ鹿だなァ」 「てめ喧嘩売ってんのか。買うぞコラ」 「高杉」 挑発的な沖田の態度に高杉は苛立ちを募らせたが直ぐさま桂からたしなめの声が かかる。 沖田の態度は普段と変わらないのだが高杉がイラついてしまうのは単に唇の痛み に気が短くなっているだけだ。 高杉の苛立ちにつられて腹をたてるような沖田ではなくマイペースのまま手のリ ップクリームを高杉に押しつけた。 「姉上が自分の買うついでに買ってくれたんだが、俺ァ使わないからアンタにや りまさァ」 まだ使ってないからと付け加えた沖田に高杉はまだ険しいままの表情で小さく礼 を述べてティッシュを丸めてゴミ箱に捨てると席に戻った。 沖田の姉が買っただけあって女物のリップクリームだったが、まぁいいかととり あえず塗ってみる。 それから何故こんなにも唇が荒れてるのかと首を傾げる。 確かに乾燥しやすい質ではあるが、毎年この季節はまだここまで酷くない。 高杉がその原因に思い至るのは当たり前のように居着いている銀八の家でだった。 唇を重ねて舌を絡めあう。 「…、唇、なんか付けてる?」 「…ん、ん?」 呼吸の合間に尋ねられた言葉を高杉は一瞬聞き流しかけたが、ふとその意味を掴 み取って次の呼吸の合間に答える。 「あー…沖田にもらった、リッ、プ…」 「リップ?」 「…唇、荒れてて、切れっ、から…」 「…ふぅん」 「ん…」 思考が溶けていく感覚に身を委る。 離れる間際にごく自然な動作で唇を舐められ、数瞬遅れて高杉は我に返った。 「…あっ!」 「うぉびっくりした…何なの?」 腕の中でとろんとしていた高杉が急にあげた声に銀八はびくついて高杉を見た。 高杉は先程までのぼんやりとした目は何処へやら。普段の鋭い目を近距離から銀 八に向けていた。 「てめーがそうやって人の唇舐めっから俺の唇がこんなに荒れてんだ」 「はぁ?」 沖田が言っていた。唇を舐めるのは逆効果で余計に唇が荒れるのだと。 自分ではそんなに唇を舐める癖などない。毎回キスをする度に銀八が唇を舐める のを当たり前のように受け入れていた高杉はようやく合点がいったと一人納得した。 だが納得いかないというか、釈然としないのが銀八だ。 「え、何?んで、だからなんなの?」 「舐めんな」 「はぁ?」 きっぱりと言い切れば銀八が眉を寄せる。 「俺の唇のために、舐めんな」 「舐めんなって、俺だって舐めようと思ってるわけじゃねーし」 「じゃあなんなんだよ」 「…癖?」 キスするとつい唇舐めちまうんだからしょうがねーだろうがと言う銀八に高杉は きっぱりと言い放つ。 「じゃあキスすんな」 「………いいけど」 やけにあっさりと身を引いた銀時に高杉の方が唇を尖らせた。 それを見た銀時が悪戯に笑う。 「やだ、とか言って欲しかった?」 「…んなことねぇ」 「あっそ。…俺なんか塗ってる唇嫌なんだよね。んで高杉は唇舐められるのが嫌。 確かにキスしないのが一番ベストだよな」 「………」 口付けの代わりと言わんばかりに額に押しつけられた唇を高杉は不機嫌そうに押 し退ける。 別に嫌だとかキスしたいとか言ってもらいたかった訳ではないが、あぁもあっさ りキスしないことを了解されると気に食わないのは事実だ。 なんだか無償に苛々して、高杉はふてくされたように銀八に背を向けてごろりと 横になった。 「あ、リップしなくていいの?」 「…うっせぇな。するよ」 銀八とのキスですっかり落ちてしまったリップをまたつけるためにポケットから 取り出して無造作に塗り付ける。 唇に感じる違和感に意識を向けて苛立ちから気をそらす。 ずっと付けっ放しになっていたテレビの音がやけに大きく聞こえて、何時までキ スしないつもりなんだろうとぼんやり考え始めた。 自分からキスするなと言っておきながら明確な期間を決めなかったことに今更気 付く。 この冬だけ?それともこれからずっと? 「………」 銀八は何も言ってこない。銀八がどんなつもりでいるのか高杉にはわからない。 背を向けてしまったせいで銀八の表情も伺えず、失敗したと後悔する。 「ははっ」 バラエティ番組に銀八は小さく笑ったが、高杉はちっとも笑えないままおもむろ に身体を起こした。 背を丸め顎を机に押しつけてテレビを見たが、銀八が気になって少しも楽しめな い。 視線だけ銀八に向けても銀八の視線はずっと高杉の家のものより小さいインチの テレビに注がれている。 この間高杉が気紛れにテレビをブラウン管から液晶に買い換えたことを羨ましが っていたことを思い出す。 高杉の家に以前からあったテレビは銀八の家のものより新しくて大きい。だから 捨ててしまうテレビをやろうかと高杉は銀八に言ったが、銀八は俺ん家にはデカ すぎるからいいと散々迷った末にそう言った。 だから銀八の家のテレビは小さくて古びたテレビのままだ。 テレビと銀八に視線を何回か往復させて、結局斜め下から銀八の輪郭のカーブを 見上げる。 「………」 高杉は上体を起こして銀八に手を伸ばした。 「なに?」 わかってるくせに意地悪く笑いながら問い掛けてくる銀八の唇に口付けようとし て、額を押さえられて止められた。 「唇荒れるからキスしないんじゃなかったの?」 「うっせぇ」 「俺リップ塗ってる唇好きじゃないっつったよね」 「………」 自分から言い出したことを自分から破る高杉の自分勝手さと、先まで全て見通し た上で高杉の言葉を了解し悪戯に意地悪をする銀八のヒトの悪さを天秤に掛けて どちらが質が悪いかなど考えるだけ無駄だろう。 銀八の言葉に高杉は黙ったまま左手の甲で乱暴に唇を拭うと銀八の唇に己の唇を 重ねた。 普段のかさついた感触ではなく、拭いきれてない質感を二人の唇は確かに感じ取 っていた。それでも唇を啄むように触れさせあって、唇を離す時、銀八は故意に 高杉の唇を舐めあげた。 「また唇荒れちゃうね」 「キスしないときに塗るからいい」 そう言って高杉はまた銀八の唇に自分の唇で軽く触れる。 その仕草に銀八は小さく笑った。 「おまえがキス大好きなのは知ってたけど、まっさかこんなに早く自分が言った こと破るとは思わなかったよ」 「はんっ」 「唇荒れても、俺とキスしたい?そんなに俺とキスすんの好き?」 「………」 いやらしい笑みを浮かべたまま問い掛けられて、高杉はしばらく唇を尖らせて銀 八を睨むように見つめていたが、ちょいと背筋を伸ばして銀八の下唇を甘噛みし 耳元で囁いた。 「好きだよ悪ィか」 すぐまた背筋を丸め気味にして上目使いで銀八を見れば、銀八は一瞬呆気にとら れたような顔をして、それから笑った。 「反則だよなァ。なにその素直さ」 「文句あっかよ」 「ないよ」 そう言うと、銀八は高杉の手を取り引き寄せまだ塗れているその唇に口付けた。 |