暑かったから。寝起きでまだ寝ぼけてたから。
口にしない言い訳を心の中で並べて、らしくもないことを考えてみたりする。
「なんだよ」
銀八の視線に気付いた高杉が銀八を一瞥する。銀八は布団に寝そべったまま、ごろりと寝返りを打った。そしてまた少し離れたところに座っている高杉を見上げる。高杉はそんな銀八の行動を注視していたが、やがて銀八の行為に意味はないのだと結論づけたのか、興味を無くしたように銀八から目を逸らして先程から見ていた本に視線を戻した。
「何読んでんの」
「そろばんの本」
「あぁ、集中力アップのあれ」
高杉がそろばんなど、約束を断るていの良い言い訳なのかと思いきや、これでなかなか真面目にそろばんの勉強をしているのだから人間どこで何をしているのか分からない。良い意味でも、悪い意味でもだ。
教師と生徒が、それも間違っても模範的とは言えない教師と生徒同士が、あまつさえ同性同士で恋人みたいな真似事をしているとは、この世界の誰が想像するだろう。
そんなことをつらつらと考えて、あぁそうだ、仮にも恋人同士みたいなものなのだと銀八は今更なことに思い至る。
なにか恋人同士のようなことを今までにしてきただろうか。思いつかない。
今日だって日曜の朝だというのに、どこに行くこともなく昨日から泊まっている高杉を放置して、自分はこうして起き上がることもなく怠惰な朝を過ごしている。いや、朝というにはもう日が昇りすぎているくらいだ。
今日が特別なのではない。休日などいつもこんなもので、高杉も文句を言うでもなく部屋で大人しく何かしら自分のことをやっているから、これが当たり前のようになってしまっていた。
言い訳だ。高杉が文句を言わないからではない。自分が何処かへ出掛けるなんてことをまるで考えなかった。
なんだか急に申し訳なくなって、銀八は高杉の名を呼んだ。
「高杉ィ」
眉を寄せて指先をさまよわせていた高杉の視線が向けられる。脱力した腕を上げて手招きしても、高杉は近寄ってはこなかった。
「なんだよ」
「人が呼んでんだからこっち来なさいよ」
「用があるならてめぇが来い」
「此処でやることに意味があるかもしんねぇだろうが」
そんなやりとりの間、互いに腰をあげることはない。寝ころんだままの銀八はむくりと顔をあげ、頬杖をついた状態で高杉を見上げた。しばらくそうしていたが、やがて力尽きたようにぱたりと布団に倒れ込む。
銀八の行動を視界の隅に入れているのかいないのか、高杉は見えないそろばんを弾いてなにやら呟いている。
もうすぐ蝉の鳴く季節だけれど、今はまだ鳴いていない。テレビも今は付けていない。だから高杉の声を邪魔するものはなにもない。けれどぶつぶつと低く呟かれている言葉を銀八はなに一つ理解することなく右から左へと通過させた。
「高杉ィ」
うつぶせに寝たまま呼び掛ければ声が途切れる。問題を読み上げていたときの声よりも少し声量が大きくなり、銀八への言葉が投げられた。
「なんだよ」
ごろりと寝返りをうって天井を見上げる。なんとなくしばらく天井の木目調を見つめながら、銀八は間延びした口調で言った。
「今度平日学校休んじまってよォ、水族館にでも行くかァ」
もともと真面目とは言えない教師だけれども、仕事を放棄したことなどなかった。そりゃあ飲みすぎて二日酔いの酷い状態で授業など、教師としてあるまじき失態をおかし、保護者に訴えられずに済んできたことが奇跡のような教師ではあるけれど、それでも教師という職業に自負と誇りのようなものを持っていた。
それなのに自分がサボタージュするだけではなく生徒までそそのかすなど、言語道断だ。そんな声が聞こえた気がした。無視をした。まだ眠たいし、今、そんな気分になっているのだ。
高杉の返事はすぐにはなかった。間が開いて、鼻で笑うのが聞こえた。
「教師が堂々とサボり教唆なんて、本当どうしようもねーな」
「しゃーねーじゃん。教師とかじゃなく、おまえのことが好きな、おまえの恋人みたいなものとして一緒に水族館なんか行きてぇなって思ったんだよ文句あんのかコノヤロー」
また高杉からの返事が途切れる。ちょいと上体を起こして高杉を見れば、少し伏せ目がちにしながら下唇を軽く咬んでいるのが見えた。その頬は赤く染まっている。
からかいはしない。こんな風に、好きだのなんだのを言葉にしたことなど、お互いほとんどなかったから、照れてしまうのも、まぁ分かる。
銀八も眠気のベールを被り、少しぼんやりした感覚から覚めてしまいそうになり誤魔化すように、そのくせまるで同じ口調で一押しをした。
「…んじゃ、まぁそういうことだから。出席日数計算しとけよ」
返事がないのは了承だろう。あぁ、こちらまで照れてきた。
恋人みたいなもの、恋人とはなにか違う。同性だからとか、そんな理由ではなく何かが違うのだ。けれど。
(好きって気持ちは嘘じゃないし、大切にしたい気持ちも、嘘じゃないんだ)