近づくほどにわからなくなる。俺とおまえの取るべき距離感。



国語科準備室の、曇りガラスがはめ込んである薄い扉をノックもせずに開け放つ。そして姿を視認するよりも早く、教科書を片手に高杉はその人の名を呼んだ。
「銀八ィ。此処どういう…」
「入んな」
扉を開けた勢いのまま、教科書を片手に一歩踏み出そうとしたその時に返ってきた思いがけない鋭い言葉に、高杉の足は不自然に止まり固まった。
踏み上げた足を戻す。扉の作る敷居が隔てる内と外の、外側にとどまったまま高杉は少し驚愕で見開いた目を中へと向け続けた。そうしていると間もなくしてひょいと、なんでもないように高杉の視界に高杉を制止させた声の主が入りこんだ。その表情は本当にいつも通りの様子で、先ほどの鋭さなどまるで感じさせない。
ぼりぼりと面倒くさそうに頭を掻きながら銀八は高杉へと近づいてくる。高杉はその場に立ち尽くしたまま、銀八が来るのを待っていた。
「おまえね、もう今日からテスト1週間前だから職員室並びに教科準備室は立ち入り禁止なのよ?」
痛くもない腹を探られたくはないだろうと張り紙を指さしながら銀八は言った。銀八の指先を目でたどり、高杉は初めてその紙を目にとめた。テスト1週間前は職員室と各教科準備室の立ち入りは禁じられると、そういえば朝、HRで銀八が言っていたような気もする。今までの学園生活で準備室はおろか職員室にも呼び出されたとき位にしか訪れた記憶がなく、そんな決まりなど気にしなくても支障なく過ごしてきた高杉には全く縁のない規則だったために意識したことなどなかった。
「で、なんの用だよ」
廊下と教室を隔てる境界を挟んで、銀八は高杉に問いかけた。その声に反応して高杉は張り紙に向けていた目を銀八へ移した。銀八はいつもと変わらない、死んだ魚をしている。それを見つめながら、高杉は先程飲み込んだものとは違う音を口にした。
「なにしてた?」
そんなことが知りたくて此処に来たわけではないけれど、自分の入れない範囲で行われていたことが気にならないと言ったらウソになる。
高杉の問いに、銀八は面倒くさそうにため息を吐いて言った。
「新しい補助教材を申請したらよー、ババァが昔同じようなの買ったはずだからそれ探して使えって。だからこんな埃まみれになってトレジャーハンティングしてんのよ。宝の地図もなしになァ」
何が入っているのかもよくわからない段ボール箱は何故だかやけに重たいし、明日筋肉痛にでもなったらどうしようという銀八の小言を高杉は右から左に聞き流す。それでも少し唇の端をあげ、少し意地悪な笑みを浮かべて銀八に言った。
「手伝ってやろうかァ? その宝探しとやらを」
高杉に手伝う気があったわけではない。だが請われたら断る気もなかった。銀八が頷こうが辞退しようがどちらでもよかった。けれど返ってきた言葉は高杉の機嫌を損なうものでしかなかった。
「いやだからおまえ今此処入れないからね」
テスト期間だから、決まりだからと真理を口にするように言い放つ。
なんてつまらないのだろう。
高杉の視線の温度が下がる。しかし銀八はそれに気づくこともなく、視線を屋内に向けると次はどこを探そうかと頭を掻いた。高杉が入ってはいけないという場所から出てくる様子もない。
まったくもって腹立たしい。
「で、ホントに何の用?」
なにか質問でもあるのかと、銀八は高杉が手にしている教科書を見ながら問いかける。しかし高杉からはなんの反応も返ってこない。沈黙は時に言葉よりも人の意識をひきつける力を持っているものだ。銀八もその力には逆らえず、どうしたのかと首を傾げ視線をあげれば、自分をじっと見つめていた高杉と目があった。
その瞳があまりにも何も語っていないので、銀八は思わずまじまじと見つめ返したが視線の拮抗は極めて短時間で終わり、高杉の方が先に目をそらしてみせた。
ついでに踵を返し、するりと離れていく。その後ろ姿を銀八が見守っていると、ほんの数m離れた地点でまた再び高杉は振り返った。そして口を開く。
「此処まで来いよ」
「は? なんで…」
「いいから」
「……」
行動の真意を明らかにしないまま苛立ち混じりにそう言えば、その不穏な空気を察した銀八はようやく国語科準備室から出てきた。一歩ずつ、サンダルで音を立てながら開いた距離を詰めた。高杉はそれを見つめている。ほんの少し視線を下げて、近づいてくる爪先をただじっと見つめていた。
「ほら、なんだよ」
あと少しで高杉自身の爪先も視界に入る、距離がなくなるというその手前で、銀八は足を止めて改めて高杉に問いかけた。その声に反応して視線を上げれば、銀八はいつもと変わらない、教師の顔をして高杉の前に立っていた。
どうして彼はこうなのだろう。
「高…」
開いた距離を、口を一歩踏み出してその胸倉を掴むことで縮める、閉じる。手にしていた教科書が床でばさりと音をたてた。気にも留めない。引き寄せて唇が重なるまであと3cmのところで、高杉は止まり、銀八から手を離した。沈黙が落ちる。
小さくため息を吐いた高杉の様子をうかがいながら、解放された銀八は落ちた教科書を拾い上げて高杉に差し出した。それを受け取って、高杉は何事もなかったかのように教科書を開いて本来の問いを口にした。
銀八は今の一瞬の行為の真意を問いただすこともなく、向けられた質問に答えるために指示された場所を覗き込む。少し近くなった距離は銀八の白衣に染みついた煙草の匂いが届くほどだったけれど、何故だか少し遠く感じて、高杉はすぐ目の前にある銀八の顔をじっと見つめた。
視線に気がついた銀八が目と、言葉で問いかけてくる。
「何」
なにか顔についているかとてんで的外れな問いをしてきた銀八に応えるため、高杉は口を開き、一拍開けて真顔で言った。
「アホ面だな」



(いつまでも教師であることを止めない、おまえが作る見えない壁が嫌い。見える境界線はもっと嫌い。あとどれだけ近づけば、俺はおまえの傍にいれてる気になるの)