もうとっくに太陽は沈み、街は静寂に満ちている。銀八の住んでいるアパートの周辺は車の通りも少なく一際閑静だ。閑散と言ってもいいかもしれない。
そんな中、銀八の部屋に呼び鈴が響いた。今まさに夕食を食べようと腰を下ろしたばかりの銀八は、その音に反応して持ったばかりの箸を置いた。はいと声を張り上げて在宅を主張する。玄関までの短い道のりで来訪者をとりとめもなく考えた。
新聞の集金は先日来たし、ならば新聞の勧誘だろうか。3ヶ月先の新聞は決めていないのでサービスしてくれる物次第では取ってもいいなどと考えながら、そんな選択肢よりも一番可能性のある人物を思い描きながらドアを開けた。
「はーいはい、どちらさ、」
きっと昼間見た学ランに目立つ赤いシャツを着た問題児が立っているに違い、な。
銀八は目を見張った。口も開いたままだ。銀八の目に飛び込んできたのは毛むくじゃらだった。こんなのは予想していない。黒いボタンの目が室内の光りを受けて光っている。愛くるしい姿をした、何処からどう見てもぬいぐるみだ。
その可愛らしい熊の後ろから、可愛くない教え子の顔がちょっこりと出てきた。
「よぉ」
「…また取ったんか、それ」
「あぁ、やるよ」
上半身程の大きさのあるキャラクター物のぬいぐるみを銀八の手に押し付けて、高杉は当たり前のように室内へと入って行った。押し付けられた物を持て余しながら、銀八は迷いのない高杉の後を追う。
先にリビングに辿り着いた高杉は食卓に並んだ料理を見て、当然のようにその食事の前に座り込んだ。
「俺の箸頼んだ」
「…おまえな…」
後ろに居る銀八を見上げて、銀八が自分用の箸を持ってくるのは決まりきったことだとでも言うように高杉はトントンと机の端を叩いて箸を催促する。
この傍若無人な子供にはいつかガツンと言ってやろうと心に誓っている銀八だけれども、そんな日は今のところ訪れる目処が立っていない。
申しつけられた高杉の箸と、加えてもう一人分の食事を運ぶ。明日の朝食にしようと今日は少し多めに作っておいて良かった。これで明日の朝食が無くなってしまったわけだが、その献立はまた明日考えることにする。
箸を差し出せば申し訳程度の礼は返ってくるので良しとしよう。これで何も言われなかったらその頭を殴りつけているところだ。
小さな四角いこたつテーブルの二つは人物で埋められているが、まだあと二つスペースがある。そのうちの一つに高杉の、UFOキャッチャーの戦利品を置いた。
「おまえさぁ、要らないもん取るのやめたらどうよ」
「居る要らない問わず、とりあえず取るのが楽しいんだろうがよ。わかってねぇな」
「わかんねーよ。何そのプレイボーイの理屈。ゲットするまでが楽しくて釣った魚には餌をやらないんですか、何この最低男。いつか刺されろ。っていうかなんでこれ来島にやんなかったんだよ。女子好きだろこーいうの」
「くだらねぇこと言ってんじゃねーよ、糖尿患って食事制限で泣け天パ。来島が、さすがにでか過ぎて置き場がねぇって」
「うちにもないからね置き場」
ゲームセンターのUFOキャッチャーで景品を取る高杉の術は鮮やかだ。一度、銀八も高杉とゲームセンターに入ってその手技を横で見ていたこともあるが、計算しつくされたその腕前は見事の一言だった。
ゲーマーという言葉が当てはまる高杉はその時アーケードの対戦型格闘ゲームで対戦相手を完膚なきまでに叩き潰し、いちゃもんを付けられていたがこの不良少年は肉弾戦も強い。強いのは知っているが、騒ぎになれば警察がやってきて補導されかねない。迎えに行って頭を下げるのは銀八もなのだから面倒は勘弁してほしいし、高杉だって殴られれば痛いのだから止めたらいいと思う。
一度、痛いのが好きなのかマゾなのか、自分はSっ気があるから丁度いいんじゃないかと冗談で口にしたら生ごみでも見るかのように冷めた目を向けられた。どうやらアブノーマルなネタは好きではないらしい。全くもって面倒な子供である。
高杉が自分の欲求のまま、その技術を駆使して手に入れる景品達の多くは、高杉の取り巻きでもある来島が持って帰るのだが、彼女が居ないときに高杉が取ってきた景品が時折銀八の部屋に運ばれてくる。それが溜まりに溜まって、銀八の部屋の一角はちょっとしたぬいぐるみコーナーが形成されつつあった。自分が独身男性であることを高杉は分かっているのだろうか。その一角だけ銀八の部屋に似つかわしくない、変な誤解をされそうなファンシーさだ。最も、高杉を含むごく親しい人間以外、その一角を目にするものは殆ど居ないのだが。
「あ、あと菓子取ってきたからそれもやるよ」
「また崩れそうな山あったんだ」
「崩れなさそうなのを崩すのが腕の見せ所だろ」
「しらねぇよ」
菓子を取れる100円のゲームは銀八も飲み会の帰りに立ち寄ったゲームセンターでやったことがある。店で買った方が安いんじゃないかという結論に至ったのだが、高杉は最高でも一番大きい硬貨1つで大量のお菓子を手に入れるので、きっと高杉にとっては買うよりも安くついているのだろう。その才能をもっと他のことに生かせないものかと思うけれど、未だに思いつくものはない。
そんな他愛のない会話をしながら夕食を食べ終えて、少し物足りない分は高杉が取ってきた菓子で補う。
ふと視線を感じてそちらを見れば、高杉が銀八のことを見つめていた。何事だろうか。思ったまま素直に問えば、高杉はテーブルに散らばった菓子の一つに手を伸ばし、個別包装されたグミの包装を解き、銀八に差し出してきた。
高杉が口を開いたから、銀八も口を開ける。グミを口の中に放り込まれて、それを咀嚼するが、高杉が何をしたかったのか今一つ分からない。そうではないと怒り出さないところを見ると、銀八にそのグミを食べさせたかったことに間違いはないようだが、何故いきなりそんなことをしてみせたのだろう。さっぱり理解できない。
「で?」
再度問えば、高杉はしばらく口を閉ざして沈黙していたが、目を逸らしてそっぽを向き、頬をテーブルに押し付けるとその姿勢のまま言った。
「釣った魚に餌をやらねぇっててめぇは言ったけど、俺はこうして餌やってっからな」
ちゃんと覚えとけ天パ、と付け加えられて、銀八は目を瞬かせた。それは食事中の些細なやり取りでの言葉だ。まさかあんなものを気に止めているとは思っていなかった。頬が不随意に動くのを感じる。今さっき口に入れられた菓子を一つ取って高杉を呼んだ。
上がらない顔の向きが変わった。目だけ向けられて、銀八は震える頬の隅に殺しきれなかった笑みを浮かべながら、その菓子を高杉の口元に運んだ。小さく開いた口にそれを押し込む。



「大した技術だよったく」