「もう好きじゃねぇ」
するりと高杉の喉からこぼれ落ちてきた言葉の意味を、銀八は一瞬掴み損ね瞬きを繰り返した。やっと何を云われたのか理解した頭は向き合っていた書類から銀八の顔を上げさせた。酷く無防備な顔をして高杉を見れば、彼はいつもと変わらない表情をして景色でも眺めるように銀八を見つめていた。
「・・・は?」
なんで。無意識に銀八はそう呟いていた。耳から聞こえてきた自分の声で自分が何を云ったのか自覚する。そのくらい自然とわき出た言葉だった。
銀八を見ていた高杉は顔を背けると、やはり普段通りの声色で言葉を返した。
「飽きたんだよ」
演技でもなんでもない、素のままの彼は嘘偽りを述べている様子はない。銀八はまだ何処か夢見心地で目の前の高杉をただただ見つめていた。
不意に高杉が視線を動かし、銀八を捉える。目が合って、彼はほんの少し目を細めると唇の端をつり上げて見せた。
笑った。
「どうせてめぇもガキの気まぐれに付き合ってやる程度の気持ちだったろ?」
その言葉を、銀八は否定できずただ黙り込んだまま高杉を見つめるに留まった。微かに自嘲が入り交じったそれは、銀八の喉を詰まらせるのには十分すぎるほどだった。
違う、そう云えないのは真正面から何一つ恐れることなく彼と向き合っていなかった自分に自分でも気づいていたからだ。自分は大人で教師で、彼はまだ子供で生徒で、同性だ。世間体だとか風当たりとか、モラルだ倫理だといったものに縛られて高杉の気持ちも多感な時期の気の迷いだと思いこもうとしていた自分は、どうしようもなくつまらない大人でしかなかった。
こんな自分を、彼が飽きてしまうのは当然だろう。
高杉は銀八の言葉を待ったが、肯定も否定もなく何一つ言葉が返ってこないことを悟ると側に置いてあった鞄を掴み腰をあげた。
「じゃあな」
去っていく背中にも、銀八は何も云えなかった。扉の閉じる音が反響して消えていく。それに反比例するようにじわじわと胸に穴があいたような空白が広がっていくのを銀八は感じていた。
だがこれでよかったのだ。今までのは思春期特有の、世の中に対する些細な抵抗心だとか反感だとかただの気の迷いで、やっと夢から覚めたのだ。そう、今まではただの夢にすぎなかった。きっとこれから高杉も可愛らしい女の子と恋に落ちて、いつかこの夢は深く記憶の底に封印されるに違いない。
だから、これで良かったのだ。
「は・・・、バッカみてぇ」
鼻で笑い、銀八は手で額を押さえた。なんでこんなにも、自分は自分を守ることしか考えられないのだろう。
彼は、高杉は不器用ながらも自分と向き合おうとしてくれていたのに。
「・・・・・・」
次の瞬間席を立っていた。高杉の手で閉ざされた扉を開ける。左右を見渡しても廊下にはもう誰もいない。どっちに行ったのか。せわしなく左右交互に目を向けて、銀八は一歩を踏み出した。
頼むからまだ間に合ってくれ。誰に対するものでもない祈りを銀八は抱え駆けた。
「――ぱち、銀八、オイコラ起きろ」
「・・・んあ?」
真っ暗な世界で声が降ってくる。体が揺さぶられる感覚に銀八は目を開けた。目の前に誰かいる。開かない目をそれでも上にあげていくと、自分を見下ろしている右目と目があった。
「なに居眠りこいてんだ。働けよ駄目教師」
「・・・あぁ?」
ぶちぶちと文句を並べる高杉はプリントの束を銀八の頭の上に乗せてきた。銀八が体を起こしても、高杉の手によってがっちりと纏められているその束はバラバラと散らばることはなく、銀八の体温で温もった机の上に置かれた。
唇を尖らせて文句を並べている高杉の頬に手を伸ばして、抓ってみる。本物だ。幻ではない。高杉の表情が一瞬で険しくなる。銀八がヤバイと思う前に思い切り手をたたき落とされた。痛い。夢でもないようだ。
「あー・・・夢だったか・・・」
「夢見るほどなに爆睡してやがんだてめぇは」
「いやいや夢ってのは5分でも見るからね。夢は見ないよりみた方がいいってなんかが云ってた」
「典拠をはっきりさせてから物事は語りやがれ」
呆れたような高杉の視線は悲しいかな慣れたものだ。なんだかもの悲しい夢を見ていたような気がする。やけに今目の前にいる高杉の存在が愛おしくて甘えるように手を伸ばして頭を押しつけてみれば鬱陶しいと吐き捨てられたが、ふりほどかれることはなかった。
わしわしと犬でも撫でるような手つきで頭を撫でられるのを銀八は享受して、ただその手の感覚を確かめる。心が落ち着いていくのを感じた。
「銀八」
降ってきた声に顔を上げる。先程とは違う角度で高杉が見下ろしていた。人の頭に手を乗せたまま、高杉は口を開いた。
「話があんだけど―――」