「おら、やるよ」
無造作にひっくり返された紙袋の中身が机に広がる。ばらばらと一面に散った安物の菓子に銀八は喜ぶどころか面倒臭そうに眉を寄せた。
「…どしたよコレ」
この惨状を作り出した犯人に問い掛ける。
犯人は飴の袋を摘みあげると包装を開け、なかから1つ取り出して口のなかに放り込んでからあっけらかんと答えた。
「駄菓子屋の前通ったらなんかガキ共が誰がこれ買うか喧嘩しててな、横から割り込んで買い占めてやった」
「なにしちゃってんのおまえ」
愕然としたガキの顔が見物だったと屈託なく笑う少年、高杉を見て銀八は溜め息を吐いた。それから視線を菓子が一面に広がっている机に目をやる。この有様では仕事にならないのでそれらを纏めて袋に戻した。
高杉が開けた飴の袋から自分も一粒取り出して口に入れる。甘いだけのコーラの味がした。
「色、何色になってる?」
「は?」
何を問われているのかと高杉に目を向ければ開けられた口のなかの飴が見えた。茶色かったはずのそれは黄色に変わっている。
「黄色」
「ふぅん。お、大吉だ」
これはなめていると色が変わり、それで運勢占いが出来る飴らしい。
他愛ない占いだが気をよくしたらしい高杉が真意の読めない笑みを浮かべて銀八を見つめてきた。その視線を受けて銀八は高杉を見つめ返した。
高杉の唇が動く。
「屋上行こうぜ」
変なのに懐かれた。銀八は澄み渡る爽やかな青空とは反対に、何処か薄暗い気持ちでフェンスにもたれて飴をかみ砕く姿を眺めた。
『じゃあてめぇを好きになる』
そう告げられてから早数ヶ月、季節を一つ通り越した。
好意の証と言わんばかりに高杉は甘い菓子や飲み物を押し付けてくる。それらは銀八が受けとらなければゴミになってしまうものばかりで銀八は仕方なくそれらに手を伸ばしている。一度断ったら高杉はなんの躊躇いもなくごみ箱へと菓子を投げ捨てたのだ。賞味期限が切れているわけでもないのに勿体ないと思うのは別に貧乏たらしいわけではないと、銀八は誰に言うでもなく言い訳をしてから差し出されるものを手にするようになった。
そしてそれを見て満足そうに、そして意味ありげな笑みを浮かべる高杉に銀八は心から辟易していた。
その笑みはやはり何処か、違う世界を生きていた彼と重なる。今目の前にいる少年は自分が知っている高杉晋助とは異なると分かっていても、残像がちらついて離れない。
(よくねぇよな、偏見とか先入観とかそれ以上に質が悪すぎる…)
教師だって人間だ。生徒の第一印象から接しやすい接しにくい、関わりたくない大事にしてやりたい、そう言った感情をどうしたってもつ。だからといって評価にそういった私情を持ち込み不公平や不平等があってはならない。きっちりと成績や授業態度でつけているつもりだ。その辺の抜かりはない。
しかし銀八が高杉に抱いている感情は第一印象や風の噂で聞いた話で作り上げられたものですらないという現実が、銀八の高杉に対する更なる負い目のようなものを感じさせていた。
夏の匂いと湿気を含んだ空気が動く。高杉の黒髪が揺れた。
「本当、てめえは俺のことが嫌いだな。寂しいこった。俺ァこんなにてめぇのことを好きでいんのになァ」
傾けられていた首が少し起き上がってそのまま視線が空へと向けられる。青空を背に笑う彼の姿は見覚えがある。あの時はこんなにも近くなかったし、今自分の手に握られているのは刃などではなくただの飴の棒だけれども、沸き上がる感情は紛れも無く自分自身のものだった。
棒の先に付いた飴を口に入れて、フェンスにもたれる高杉の横に並ぶ。白衣がひるがえって音を立てた。
「だから、嫌いだなんて言ってねぇっての。つーかおまえの愛甘すぎんですけど」
「甘党なんだから好きだろそういうの」
「俺が糖尿で死んだらどうしてくれんだ」
「おぅ、死ね死ね。てめぇは俺が殺して、何食わぬ顔で跪づいて泣いてやるよ。愛故になァ」
「重いわ、愛が」
愉しそうに笑う顔は目つきの悪さと少々野暮ったい前髪のせいで陰が落ちていたけれど、狂気の色は滲んでなどいない。
あぁやはり違うのだと言う思いと、全てを壊すために徨彷い歩く前の彼に戻っただけで高杉は高杉であるという思いが交錯して胸のなかで蟠る。
「…おまえは前世って信じる?」
無意識に問い掛けていた。脈絡のない唐突な問いに、高杉は酷く無防備な表情を銀八に向けた。少し見開いた目に彼が今見ているであろう景色が移り込む。銀八は返事を待たずに空を見上げて続きを紡いだ。
「前世の俺とおまえは幼なじみで腐れ縁なんだけど喧嘩して仲たがいしたわけだよ。次に会ったらぶっころ宣言するくらい、そんくらい、俺達って遠い存在になっちまった」
独り言のようにそこまで呟いて銀八は再び高杉に目を向けた。高杉は口を閉ざしたまま銀八を見つめていた。その表情に感情は見えない。それを見て銀八は、ふと表情を緩めた。
「っつー夢を見た」
「夢かよ」
信じた? と意地悪く笑えば高杉は呆れたように頭を振って銀八から視線を逸らした。年相応の幼さを残した仕種に夢から覚めるような心地がする。
「だからてめぇは俺が嫌いだっつーオチにすんのかと思った」
「だから嫌いだなんて言ってねーだろ。なんでおまえはそんな俺に嫌われたがってんだ」
「てめぇの態度がそう言ってんだ」
「言ってねぇ」
そう言い放って銀八は高杉から目を離した。銀八の右耳が上履きが砂利を踏む音を拾い上げた。
「言ってる」
「言ってね、」
「目は口ほどに物を言う」
耳元で囁かれて、首筋に走る寒気にも似た感覚にそちらを見れば妖しく光る右目がすぐそこにあった。
笑みを形作る唇が開いて赤い舌が見える。
「てな」
「いっ…!」
高杉の指先が銀八のくわえていた棒を取り上げた。咥内におさまっていた丸い飴が歯に当たって銀八は非難の声をあげたが高杉は笑うだけで謝罪することもなく、その飴を口に入れてひらりと蝶が舞うように銀八から距離をとった。
「くだらねぇ」
吐き捨てられた言葉は暗い感情に塗れていたが、くるりと振り向いた高杉の表情にその色はなかった。高杉の背を押す風が髪を乱して顔を隠す。それでも飴の棒をくわえる口許から彼が笑っているのが銀八からも見て取れた。くるり、くるりと銀八に背を向けてはまた向き直りを繰り返しながら高杉は言った。
「前世がなんだってんだ。んなもん現世にゃなんの関係もねェ。今の俺らを縛る鎖になんざ、なりえねぇさ」
屋上の出入口にたどり着く。重たい扉に手をかけて高杉は振り向いた。欝陶しい前髪を指先で払いのけて、真っ直ぐに銀八を見つめて笑う。
「前世なんて全部夢さ、てめぇの言うとおりな。なぁ―――」
一際強い風が吹く。砂利が舞い上がり、銀八は咄嗟に腕で顔を覆った。目を細め、しかしそれでも高杉が扉の向こうに消えていったのを確かに見た。腕を下ろしたのと重たい音が階段に反響するのが聞こえたのはほぼ同時だった。
彼は今なんと言った。銀八の脳裏で今しがた目にした光景が再生される。ゆっくりと、笑みを作る高杉の唇が動く。彼は確かにこう言った。
『なぁ、「銀時」』
「…は?」
銀八の間の抜けた声に反応してくれる者など、今この場には存在しなかった。
それは遠い過去の名前。