夢を見た。目覚めた今なおはっきりと覚えている。夢の中の空気も、衣擦れの音も、自分と、そして自分が触れている存在の呼吸もなにもかも全てを。
「―――……」
見慣れた天井を見つめながら瞬きを繰り返して、高杉は身体を起こした。
酷く頭が冴えていた。眠気などかけらも残っていない。夢を覚えている朝の、なんとも言い難い疲労感もない、今まで迎えた朝のなかで一番心地よく思える目覚めだった。
そんな風に始まった一日は心も身体もとても軽やかで、高杉は自然と緩む口許を引き締めもせず鼻歌混じりで学校へ向かった。
「朝からご機嫌でござるな」
すぐ後ろから声をかけられて口ずさんでいた歌をやめる。足も止めて振り返れば万斉が一歩進んで隣に立った。
「まぁな」
答えながらまた歩きだす。逸る気持ちのままに前へ出る歩調はいつもより早い。
「何かあったか」
「あぁ」
「聞いても?」
「スゲーいい夢見たんだよ」
「夢?」
笑みを作る唇から思いがけない言葉が零れ落ちて、万斉は思わず今しがた耳に入った語を繰り返していた。
ニヤニヤと笑いながら高杉が頷く。
「どんな夢でござるか」
「それは言わねぇ」
先程の問いには答えてくれたのに、今度のものはキッパリと拒否され万斉は首を傾げる。
共にいる時間の長さに比例して高杉が不機嫌なときの理不尽さには多少慣れてきているが、上機嫌なときの扱いはまだまだ難しい。
予期せず切れてしまった会話を万斉がどう繋ぎ止めようか考えていると、珍しく高杉の方から口を開いた。
機嫌がいいと常より饒舌になるのだと万斉は知る。
「悪い夢は人に聞かせた方がいいが、良い夢は言っちゃ駄目なんだぜ。言うと叶わなくなる」
「…それはおばあちゃんの知恵袋的なものでござるか?」
「それより迷信に近いもんじゃねぇか」
「信じてるのか?」
「信じてもいいぜ」
「晋助は案外古臭い考えの持ち主でござるな」
「今てめぇ先人の知恵を馬鹿にしたろ。謝れ。今を作り上げた先人の思想に謝れ」
「申し訳ない。偉大なる先人達が積み上げたものを馬鹿にした拙者が悪かったでござる」
「よし」
こんなやり取りの間も高杉の機嫌が傾くことはなく、確実に進めていた足は学校へたどり着いた。



「今日はなにどうしたの。めちゃめちゃ機嫌いいじゃないのさ」
その日の放課後、銀八は自宅の台所で麦茶をグラスに注ぎながら、当然のようにリビングにいる高杉に向かって問い掛けた。
それは高杉にとっては今日何度目になるか分からない質問だった。
普段なら三度目辺りから「機嫌がよくて何が悪い」と苛立ち始めてもおかしくはないのだが、今日は一向にその気配はなく高杉は同じ返答を繰り返した。
「まぁな」
ワンパターンに何故だと問われる前に、良い夢を見たのだと説明する。
「夢?」
不思議そうな声をあげて、台所から姿を表した銀八に高杉は頷いて見せた。
「すげぇ良い夢だったんだ」
「へぇ、どんな夢?」
みんな同じ台本でも持っているのかと思いたくなるほどの問いだ。
高杉はいつも同じ答えを繰り返した。
「良い夢は他人に言っちゃいけねぇんだぜ」
「は?」
だから言わないと言外に伝えつつ、そんなことも知らねぇのかと浮かべている笑みの質をせせら笑うようなものに少し変える。
その変化を敏感に感じ取った銀八は僅かに眉を寄せてみせた。
差し出されたグラスをテーブルから持ち上げぬまま両手で包み、腕に頭を乗せて横目とも上目ともとれぬ視線で「別にいいですよー」とそっぽを向いた銀八を見上げながら高杉は愉快そうに声をかけた。
「なぁ」
「んー?」
「俺の見た夢知りてぇ?」
「良い夢は言っちゃダメなんだろ」
「てめぇになら言ってやってもいいぜ」
「………」
特別、と秘密の悪戯を持ち掛けるときのような笑みを浮かべている高杉を横目で見下ろして銀八は自分のとるべき行動を少し考える。
此処で「別にいいし」と突っぱねてみてもいいが、きっとこの子供は最終的に言いたいに違いない。秘密は共有してこそ甘い色をもつのだ。
焦らしても逆に話してくれと言うタイミングを計るのは難しいし、焦らしすぎて折角の機嫌を損ねるのも厄介だ。
そんなことを0.07秒で計算した銀八は閉じていた口を開いた。
「じゃ、教えて」
言いながら高杉が弄んでいるグラスに手を伸ばす。零してしまう前に遠ざけようと思ったのだ。
対して高杉はこれ以上ないというくらいに極上の笑みを銀八に見せた。
きっと一生側にいたとしても、これ以上の笑顔など高杉は見せはしないだろう。
愉悦に染まった弓なりの唇が静かに音を紡ぐ。
てめぇの首を絞める夢
告げられたその言葉に銀八はグラスに触れたまま固まり、高杉はまた口を閉ざすと意味ありげに笑みを深いものにした。



(今夜続きが見れるといいな)