愛はまるで雪のようだと思う。
音もなく降って、気がつけば積もっている。



「馬鹿ですかおまえは」
「………」
ぐったりと横たわる高杉を団扇で扇ぎながら銀八は呆れたように言った。
普段から銀八に比べて風呂の時間が長い高杉だが、あまりにも出てこないので銀八が様子を伺にいったところ浴槽のなかで眠りこけている高杉を発見した。
溺れる一歩手前の状況に慌てて引っ張り出したが高杉はすっかりのぼせて今に至る。
罰が悪そうに銀八に背を向ける高杉を見下ろし、銀八は溜め息をついて団扇を高杉に渡して腰をあげた。
「水、取ってくる。自分で扇いでろ」
「………」
返事をしない高杉を一瞥し、台所に向かう。
コップに水を入れた。水道水は嫌だなんだと文句を言いそうな気もしたが、そこまで面倒はみていられない。
氷を入れて、無意識に吐いた溜め息で我に返った。
結露防止のため小さく開けてある窓の隙間から闇のなか舞い散る雪が見えた。
寒いわけだ。明日は休みだが、月曜日は当然のように学校があるのでそれまで残るような雪は勘弁してほしい。
そこまで一種で考えて、雪を見て手放しで喜べなくなった自分が少し物悲しくなった。もう子供ではないのだと実感する。
「………」
ぼんやりと街灯の光を反射する雪を見つめる。
好きだと真っ直ぐに告げてくる高杉を銀八が持て余しているのは事実だ。だが誠意を持って自分のために必死になってくれている子供を疎ましいと思える人間でもないのもまた事実だった。
そしていつの間にかこうして家に上がり込むのを、そして泊まっていくのを許容している。
どうしたものか。
考えど考えど、答えは出ない。否、出てはいるのだけれど。
銀八はもう一度溜め息を吐くと高杉の寝ているリビングに戻った。
そして目を瞬かせる。
「…何してんだおまえ」
部屋の隅で上着を着込み、マフラーを巻いている高杉に銀八は問い掛けた。
半分がマフラーで隠れても赤いのが分かる顔をした高杉は荷物を持ってふらりと立ち上がるとぽつりと言った。
「帰る。邪魔したな」
「ちょっ、待てって」
覚束ない足取りで銀八の横をすり抜けようとする高杉を引き止める。
頑なに銀八と目を合わせようとしないのは、罰が悪いときの高杉の癖だ。
普段は人のことを親の仇か何かのように睨み付けて吠えたてるくせに、都合が悪くなると目を逸らし沈黙する。
「離せよ」
高杉は銀八が掴んでいる腕を振り払おうとし、自身の勢いに負けて上体がふらついた。
それでも戸口に向かおう姿に、銀八はあからさまに眉を寄せた。
「あのな、迷惑かけて申し訳ないから帰るー、とか言うんだったらおめーが此処に来た時点でかなりの迷惑だから。今更だから」
「………」
「んでもっておまえが今から帰って、帰り道に気分悪くなって生き倒れたり雪に滑って転んで怪我した方がもっと迷惑なんだよ」
「雪?」
耳に痛い言葉を全て切り捨て、たった一言に反応した高杉は顔をあげた。
視線が外に向けられる。だがカーテンが閉められているために雪を見ることは叶わなかった。
銀八は高杉を手放すと黙ってカーテンを開けた。小気味よい音をたてて現れた窓は鏡のようになって室内を写していたけれど、その向こうには確かにちらちらと雪が舞っていて、既にうっすらと世界を染め上げつつあった。
「と、言うわけで大人しく寝てろ。ホラ」
「雪、積もるか?」
「さぁな。積もらねぇことを俺は祈ってるよ。積もったらめんどくせぇし」
「つまんねぇ奴だな」
「何を今更言っちゃってんの」
冷たくそう言い放ってやれば高杉は何か言いたそうな目をしたが、結局何も言わず顔を逸らした。



夜中、ふと目が覚めて銀八は瞬きを繰り返した。
(…寒)
身体を起こせば布団が一枚脇にずり落ちてしまっていた。それで寒さに目が覚めたのかと寝起きのくせに妙に冴えてしまっている頭で冷静に判断する。
隣を見れば布団から僅かに黒髪が覗いていた。
こちらはちゃんと布団を被っていたが、僅かにずれていたので直してやる。
室内は冷え切っていたが、銀八は身体一つで這って窓際に移動した。床に座り込んだままほんの少しカーテンを開く。
闇に沈んでいたはずの街はすっかり白く染まり、キラキラと輝いていた。
「………めんどくせ」
雪掻きもしなくてはならないだろうし、しばらくは溶けてはまた凍りを繰り返して路面は滑りやすくなるに違いない。
溜め息をついて室内に目をやる。
闇を裂く一筋の光の帯が黒髪を照らしていた。艶めく烏をぼんやりと眺める。
『好きだ』
高杉にそう告げられるたびにのらりくらりと交わしてきた。
愛はまるで雪のようだと銀八は考える。
あまりにも儚いそれはそのうちに溶ける。気まぐれなこの子供は自分に飽きて見向きもしなくなるだろう。そう楽観視していた。
それがどうだ。いつしか銀八の方が高杉を捕まえて此処に留めさせている。
高杉を絶対に家に入れないことだって出来たはずで、今日高杉が帰ると言い出したときに帰したって良かったはずだ。送っていったって良かった。
それをしなかった理由から銀八は目を逸らした。
この街に降り積もる雪はきっとすぐ溶けてしまうのに。根雪になどなるはずがない。



この胸に募る思いも早く、早く溶けてしまえ。
この胸に根付いてしまうその前に。